百鬼夜行、回収します!
青山 菜緒
プロローグ
あれは確か、9歳の夏休み。
その日俺は、近所に住む友人たちと川へ行く約束をしていた。
「行ってきまーす」
真夏の象徴とも言える、入道雲のそびえ立つ見事な青空。
クーラーの効いた部屋から一歩外に飛び出せば、途端に
俺は体にまとわりついてくるTシャツの襟元を掴むと、パタパタと扇いで風を取り込んだ。今はこうして汗でベタつく服も、この陽射しではすぐに乾いてしまいそうだ。
湿るのが早いか、乾くのが早いか。
こうも唐突に盾と矛の舞台にされては、Tシャツもさぞ迷惑なことだろう。まぁ実際のところ、一番の被害者はそれを身につけている俺なのだけれど。
ならばいっそのこと、早く川に飛び込んで、この争いに終止符を打ってみせよう。
そんな気持ちに急かされて、俺は車庫の奥からお目当ての自転車を引っ張り出す。普段はあまり使われていないそれは、案の定、
「っしゃ、行くか!」
こうして俺は、気合いを入れて自転車に
俺の実家は長い坂道を登った先、つまるところ、小高い山の上にある。この立地のせいで、小学生の交通手段ナンバーワンである自転車も、俺にとっては、帰りに大荷物と化す『厄介な代物』でしかない。
だから、普段はどこへ行くにも徒歩一択なのだが、今日ばかりは仕方がない。目的地である川は、小学生が歩いて行くには距離がありすぎるのだ。故に友人たちと話し合った結果、『自転車で行く』が満場一致で可決された。
だが俺はすぐに後悔した。その時正直に、やっぱり自転車はやめようと言えばよかった。けれど行きの楽さと、謎のプライドがそれの邪魔をしたのだった。
だからすまん、後は任せた!
俺は帰りの自分に謝罪とエールを送ると、右足に力を込めてペダルを踏み込む。するとすぐさま、自転車は長い長い坂道を下り始めた。それに合わせて、自分の体もガタガタと不規則なリズムを刻んでゆく。
徒歩とは格段に違うスピード。
全身に突き刺さる眩しい陽光、
そして、少しのスリル。
何という爽快感だろうか。顔に吹き付ける風が、髪をオールバックにしてくることですら心が弾む。
そんな久しぶりの躍動感に気分を良くした俺は、ペダルから足を離して坂道を颯爽と駆け抜けていった。
爽快な気分を味わうこと数十秒。
やがて自転車は、長かった坂を下りきろうとしている。この快適な時間ともそろそろお別れだ。俺は渋々足をペダルに戻し、出すぎたスピードを落とそうとハンドブレーキを握った。
「……ん?」
力を込めたハンドルからは、カチカチという金属とプラスチックの合わさる音がする。だが俺を乗せた自転車は、相も変わらず
「え、ちょっ、あれ!?」
おかしい。
俺の想定では、今ごろすでに減速していなければならない。
さては握っている場所が違うのだろうか?
そう思った俺は、すぐさま手元に目を向ける。だが何度確認してみても、確かに左右どちらとも、しっかりとハンドブレーキを握っていた。更にそれを裏付けるように、先ほどから何度もカチカチという、ブレーキを握る音が聞こえていた。
ともなれば、嫌な予感が頭に浮かぶ。
「ブレーキ壊れてる!!?」
その事実に、俺はさすがに焦り始める。
右手と左手、どちらが前輪でどちらが後輪のブレーキか?どちらから握るのが正しいのか?!
今、気にするべきなのはそこでは無いが、俺の頭は動揺で上手く働いてくれない。
何でもいい、止まれ!とりあえず止まってくれ!!お願いだから!!神様仏様ご先祖様!!
パッと思いつく、頼れそうなものに全身全霊の願いを込めて、俺は汗ばむ両手を再びぎゅっと握りしめた。
「うわぁぁぁああ」
だがその願いも虚むなしく、自転車が止まる様子はない。そんな中、唐突に脳内で流れ始めた、思い出の数々。
入園式の日に我が家にやってきた、芝犬のミッキー…
初恋の相手と手を繋げた、年中での遠足…
スイカの一番甘い部分は真ん中だと知った、年長の夏休み…
どれも良い思い出、さながら人生のハイライトだ。それにしても、俺のハイライトが全部保育園での出来事なのは何故だろうか。小学校の思い出も、ひとつくらいあっても良いと思う。
…いやそれより待ってくれ、ハイライトと言えば聞こえはいいが、これではまるで
改めて、自分の置かれた状況を理解した。だがその窮地を切り抜ける手段は浮かばぬまま、自転車はたった今、坂を下り切ってしまった。
まもなく道は分岐をむかえる。国道に続く道と、田畑に続く細い
道は二つあれど、答えは一択。
思い切りハンドルを左に切れば、いよいよ自転車は細い畦道に差し掛かかった。砂利の多いガタガタ道は、出過ぎたスピードとの相性は良くない。いつハンドルを誤ってもおかしくないだろう。
この現状にぐっと唇を噛むと、もはや俺は、覚悟を決めることにした。
『自転車とランデブーする』という覚悟を…!
幸い俺の
親と、それからこの田んぼの持ち主には怒られるだろうが、ビルや車にぶつかるよりは遥かにマシだろう。
今日ばかりは田舎に感謝だ。
車通りが少なくて良かった。
ぶつかったら痛そうな、オシャレな建造物が無くて良かった。
そして何より、田んぼがあって本当に良かった!
田畑万歳!
田舎最高!!
「マックは遠いけどな!!!」
身体よりも一足早く、俺の叫びが先に宙を舞う。
それに遅れまいと、俺自身も後を追う未来は確定している。
そんな俺に今出来ることは、これから自身に降り掛かるであろう衝撃に備えて、ぎゅっと固く目をつむる事くらいだ。
『早く終われ、いつまでも来るな』
そんな
これはかけっこが苦手な女の子が、運動会で、自分の走る番がだんだんと近づいてくる時の、不安や
授業中には意味不明だったこのセリフだが、俺は今、彼女の気持ちが痛いほどよく分かる。俺の心情は今まさに、この一言に尽きるからだ。
まぁどちらかと言えば、こちらの気持ちのほうが強かったけれど。
「早く終われー!!!」
すると、まるで俺の望みに応えるかのように、その時はすぐにやって来た。
ガタンッ
小石に乗り上げた自転車は、その音を合図に勢いよく倒れ込む。そして
もはやこれまでか…
そんな武士のような覚悟を最後に、俺は頭から田んぼに突っ込んだ。
「…………」
はずなのだが……
…おかしい。
俺はたった今、泥水に華麗なダイブを決めたというのに、衝撃はおろか、泥や稲の感触もない。
まさか俺は、あの世へのダイブを決めてしまったのだろうか?
入園式の日に我が家にやってきた、芝犬の……いや走馬灯二回目やめて!さっきと同じだから!走馬灯って人生の終わりに流れるやつだからね!!え?!終わり?!うそでしょ?俺の人生これで終わり!?
そんな最悪の事態を想像してしまい、バクバクとはやりだす鼓動。それに反するように、俺は恐る恐るゆっくりと目を開けた。
「……え?」
目を開き、飛び込んで来た光景に息を呑む。
その時、俺は違った意味での衝撃を受けていた。
田んぼに倒れたはずの自転車に、しっかりと跨がり立っていたのは、坂道の頂上……つまり、出発したはずの家の前だったのだ。
「何で…?」
この魔訶不思議な現象に、脳内は自分史上最大のパニックが巻き起こる。
自転車に乗ったまま?
この坂を?
こんな一瞬で?
息も切らさず?
どうやって!?
次々と舞い込む疑問符の嵐。
この瞬間、俺の周りは時が止まったかのように、あれほどうるさかった蝉の声がピタリとやんでいた。
だがその代わりに、バサバサという大きな鳥の羽ばたきが聞こえてくる。
「……」
その音をきっかけに、俺はハッと我に返る。
やがて妙に冷静になった脳内には、今まで押し寄せてきた疑問を一気に打ち消すような、どこか確信めいたものが浮かんできた。
やがてそれは声となって溢あふれると、俺を納得させるには十分な
「———が助けてくれたんだ」
辺りには再び、蝉の声が響いていた。
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