第6章 三年目の戦い
第22話 気まぐれな逃げ馬
2年目の2036年が終わった。
私の成績は、出走回数285回に対し、1着が11回、2着が8回、3着が15回。勝率は.039、連対率は.067、複勝率は.012だった。
勝ち星では、通算で21勝になり、一年目より1勝多く勝っていたが、出走回数が増えた分、勝率、連対率、複勝率はいずれも下がっていた。
2037年、3年目が始まる。
正月に実家に帰省し、父に報告していると。
酒を飲んで、顔を赤らめながら、父は陽気に告げるのだった。
「やっと21勝か。まだまだだなあ。あと10勝はしないとGⅠにすら出れん。こりゃ、GⅠは来年か」
陽気なのは、酒が入っていただけで、実際には失望の念が籠っているように見える。
「そんなことないよ。今年中に31勝は達成する!」
息巻く私に、母は、心配そうに顔を向けてきた。
「怪我しないようにね。プレートは取れたの?」
去年の4月に、左鎖骨骨折によって手術して、入れたプレートはまだ私の肩に入っていた。
「まだ。今年の10月くらいかな」
「心配だわ」
なんだかんだ言っても、母は私が騎手になることに強く反対はしていたが、同時に一番心配はしてくれていた。
「まあ、がんばれー」
相変わらず酒を飲んで、陽気になっている父に、私は思い出したことを尋ねていた。
あの、鹿嶋田美鈴社長のことだ。父は知っているのだろうか、と。会った時のこと、彼女が言ったことを思い出して反芻し、父に問うてみると。
「ああ。知ってるぞ。浦河のオロマップんとこの娘さんだろ? 昔、よくウチの牧場に来てた」
「どうして教えてくれなかったの?」
「聞かれなかったからさ」
溜め息が漏れていた。考えてみれば、父は武政騎手が我が家に来た時も、同じような回答を寄こしていた。しかも、美鈴社長は、家が比較的近いため、この観光牧場には何回か来たことがあるという。近いと言っても、本州の感覚では遠いが、北海道では隣町ということになるから、車なら近いというレベルだったが。
朧気ながらも、私は自分の記憶をたどる。
確かに、小学生の高学年くらいの頃。やたらと着飾った綺麗なお姉さんが何度かこの牧場に来ていたのを見たような記憶があった。恐らくあれが美鈴社長だろう。
人と人の出逢いというのはわからないものである。
もし「人が馬と会話できる」のであれば、マリモが教えてくれたのだろうが。
そんなこんなで、慌ただしい帰省は終わり、私は正月3日には関東に戻り、美浦トレセンにて、また調教とレースの日々を送ることになる。
そして、ここにもまた「不思議な出逢い」があった。
2037年2月21日(土)、中山競馬場、7
天候は晴れ、馬場状態は「良」。
そんな中、たまたま任された馬が、スタートダッシュ(牡・3歳)という馬だった。
名前だけ聞くと、「速そう」、「景気が良さそう」に思える馬だが、実際にデビュー戦の前走では、スタートからハナに立ち、逃げを打ち、最終的には2着に3馬身の差をつけて圧勝していた。
このレースでも前走の騎手に任せるつもりだったらしいが、その騎手が直前で体調不良を訴え、急きょ私に代わっていた。
そのため、この馬自体は、熊倉厩舎所属ではなく、新規開業した、美浦所属の
調教する暇もないまま、鞍上にまたがることになる私に対し、まだ40代と若い刈屋
「馬の好きなように走らせて、ハナ(先頭)に立って下さい。あとは適当に舵を取るだけでいいです」
と。
私にしてみれば、
(本当に勝つ気があるのか?)
と疑いたくなるような発言だが、実際に走ってみて、その理由がわかるのだった。
彼は、非常に特徴的な馬で、牡にしては、馬体重が400キロと少ししかない、「軽い」馬だった。
おまけに性格は、気まぐれで、飽きっぽい上に、やたらゲート入りを嫌がるところがあった。
走る気があるのか、ないのか、よくわからないと言っていいくらい、レースに興味がないようにも見えた。
おまけに、馬群にもまれるのも嫌うらしい。
血統も、両親ともに全然有名ではなく、本当に期待できるかどうかも怪しい。
鹿毛の馬体に、赤いメンコをつけているのが特徴的だった。
レースは10頭立てで、2枠2番。7番人気。他に、武政騎手が乗る馬がいて、それが1番人気だった。
嫌がるゲート入りを何とかこなし、やっとレースが始まる。
私は、刈屋調教師の指示通り、馬に任せてみた。
すると、レース前の集中力の無さが嘘のように、ゲートが開いた瞬間、勢いよく飛び出して、いきなり最初から文字通りの「スタートダッシュ」を図り、彼はハナに立った。
そのまま、一気に後続を引き離していく。
ここのコースは右回り。スタートから向こう正面にかけて、1コーナー終わりを頂点にした高低差約4.5メートルの丘を昇り降りするという、タフなコースだ。
また、最初のコーナーまでの距離が長い為、外枠が有利な傾向にある。
最後の直線には急坂があるものの、距離は310メートルと短い。その為、4コーナーを回った時点である程度前に位置していないと勝つのは厳しい。先行やまくり脚質の馬が有利と言われる。
ところが、
(速すぎる。おいおい。ペース配分考えないのか?)
と思えるくらい、彼はぐんぐん飛ばす飛ばす。
気がつくと、向こう正面に入る頃には、2番手と8馬身くらいの差が出来ていた。タイムも速い。
そして、そのまま追いつかれることなく、ゴール板を駆け抜けてしまった。2着の馬には迫られていたが、怖いとは感じず、2馬身くらいの差があった。
しかも、その報告前に、ジョッキールームに向かうと、2着でゴール板を駆け抜けた武政騎手に声をかけられた。
「面白い馬だね」
彼はそう告げた。
「面白い、ですか?」
その意図するところが、私にはさっぱりわからなかった。面白いというより「馬鹿な」馬にすら見えたからだ。
ところが、ベテランの彼は、私とはどうやら視点が違うようだった。
「人間にも馬にも『個性』というものがある。スタートダッシュは、実に個性的な馬だ。いずれ、世の中を驚かせるような馬になるかもしれないね」
そう言って、彼は笑顔を浮かべたまま、去って行った。
そして、この時の、武政騎手の発言が、後に実現することになるが、それはまた別の話になる。
気まぐれな逃げ馬、スタートダッシュ。彼の競走馬人生、いや競走馬馬生はまだ始まったばかりだった。
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