第3章 一年目の結果

第9話 門別競馬場にて

 8月。未だに2勝しかしていない、私に突然。意外なところから騎乗依頼がやって来た。


 それは、地方競馬を中心に馬を管理していた、とある馬主からだった。

「是非、石屋さんに」

 とお願いされた、と熊倉調教師は言っていたが、何のことはない。


 当日、騎乗予定の騎手が、急な発熱で出られなくなり、私が代打に指名されただけだったし、その上、「減量制度」というものがある。

 つまり、女性騎手及び見習騎手(免許の取得期間が5年未満で、平地競争の勝利度数が100回以下、または障害競走の勝利度数が20回以下の機種)が、特別競走とハンデキャップ競争以外のレースに騎乗する場合、各負担重量を減量する、というものだ。


 しかも、私の場合は、平地競争の勝利度数が2回、障害競走の勝利度数は0回だから、4キロも減量される。

 新人のペーペーに任せるというリスクと、4キロも減量できるというメリットを天秤にかけて、馬主が決断したのだろう。


 出走するレースは、ほとんど地元と言っていい、実家に近い場所にある、門別競馬場で行われる「ホッカイドウ競馬」だった。

 任された馬は、カムイチューリップ(牝・6歳)。カムイとは、アイヌ語で「神」を意味するから、名前だけは何だか仰々しいが、その割には、血統も含めて、いまいちパッとしない馬だった。

 夏の門別でも、毎年「ブリーダーズゴールドカップ」というダートグレード競争が行われるが、上記の減量制度の「重賞」項目に引っ掛かり、その上、無名の私は選ばれてはいなかった。


 従って、このカムイチューリップに騎乗することになったが。

 当日の天候が、雨だった。


 しかもこの天候と相まって、観客が少なかった。ポツポツと弱い雨が降りしきる中、私がパドックで、カムイチューリップを操っていると、


「優ちゃん!」

 耳に馴染みのある、しわがれた声がスタンドから飛んできた。


 祖父だった。父方の祖父で、小さい頃に、この門別競馬場に初めて連れてきてくれたのが、この祖父だった。


(お爺ちゃん)

 叫んで、声援に応えたいのを我慢して、私は軽く会釈をして、そのままパドックを回る。


 祖父・謹一郎は、現在82歳。昔より、「足腰が弱くなった」と嘆いていたが、それでもまだ同世代の老人に比べると、元気に見えた。

 そして、人一倍、私のことを可愛がってくれた人だ。


 もちろん、わざわざこの門別まで来てくれたのは、嬉しかった。

 その祖父の期待に応えたい。


 私は、騎乗するカムイチューリップを眺める。黒鹿毛の馬体を持つ、均整の取れた美しい馬だったが、問題は「休養明け」で、その期間が5か月以上と長かったこと。

 一般に、競走馬は休み明け期間が長い方が、実戦から遠ざかるから不利と言われる。一般には「休み明けを叩く」などと言われるが、休み期間が長かった。


 もっとも、馬主から指名があった以上は、出ないといけないが。

 そして、ここでも意外な人物がいた。

 凱くんだ。


 彼は中央、地方合わせてすでに年間勝利数が30勝を越えており、新人としてはかなりの注目を浴びていた。

 すでに、同期でありながら、大きな差が開いている。


 相変わらず軽い性格で、私に目で挨拶をしてきたが、どうも私は苦手だった。だが、「親の七光り」とはいえ、腐っても騎手の息子。やはり期待度が私などとは違うのだろう。


 すでに固定ファンまでついているようで、しかもそのルックスから、若い女性ファンが数名、この門別まで駆けつけていた。

「凱くーん!」

 その黄色い歓声を聞くだけで、調子が狂う。


 それ以外は、ほとんどが地元・ホッカイドウ競馬の地方所属の騎手だったから、中央に比べると、若干レベルは落ちる。

 つまり、私にも勝機はあるはずと思っていた。


 2035年8月8日(水)、門別競馬場、11Rレース、ダート1800メートル、チプサンケ特別。


 天候は雨、馬場状態は「不良」だった。

 発走時刻は20時5分と、夜のレースになる。


 地元開催のレースだから、気候条件や、思いの他寒い北海道の夏には慣れていることだけが、私の方が凱くんに勝る要素だろう。それ以外に勝てる気がしなかった。

 7枠8番からの出走で、3番人気と悪くなかった。一方で、凱くんは、2枠2番で、1番人気のクラシックウォー(牡・4歳)という馬に騎乗する。


 降りしきる雨が、発走前に一層強まる。雨での競馬は久しぶりだった。

 ゲートが開く。


 ここ、門別競馬場の1800メートルは、外回り走路を使用して、ホームストレッチの中程からスタートして、馬場を一周するコースだ。


 スタートから最初のコーナーまでが270メートル、最後の直線が330メートルあり、直線が長いため、「差し」の方が有利に思われているが、実際には「逃げ」も勝っている。


 データからすると、若干、内枠が不利だが、スタートしてから、思わぬことが起こっていた。

 地元・北海道の騎手たちは、技術が未熟なのか、馬群に包まれるのを嫌って、内枠の馬が必要以上に序盤で足を使うのだ。


 結果的に、展開は速く、ハイペースになっていた。

 カムイチューリップの脚質は「先行」だったから、私は出来るだけ早い段階で、馬群の前に出ようとするが、思いの他、先行争いで、他の騎手に進路を塞がれ、先に進めない上に、休み明けの「彼」はどうも伸びなかった。


 そうこうしているうちに、あっという間に4コーナーを回り、最後の長い直線に入る。

 だが、ここでチャンスが来る。

 未熟な騎手たちの先行争いの弊害か、彼らの多くがそこでは「一杯に」なって、多数の馬がバテて、後方に下がる。


 チャンスだ。

 前にいたのは、クラシックウォーのみ。


 ここから一気に、まくって上がって行き、最後に「差し切る」つもりだったのだが。


(あれ?)

 やはりというべきか、思いの他、彼は伸びなかった。

 シンドウを扱った時に比べて、各段にスピードが出ない。


 むしろ、シンドウが特別だと思うほどだった。

 結果的に、2馬身差をつけられて、2着でゴールイン。


 1着にはなれなかったが、まあ想定より悪くはない成績だった。


 そして、いつものように、検量室に向かい、馬を降りた後、廊下に出た時に、やっぱり予想通りに声をかけられていた。


「優ちゃん、久しぶり」

「どうも」

 苦手な相手だから、どうも自然と態度が硬化している自分に、自分で気づく。


「惜しかったねえ」

「嫌味? 私は、あなたみたいに勝ってないからね」


「そんなことないって。僕は、昇太くんと違って、君の考え方は否定しない」

「馬が好き、ってこと?」


「そう。馬が好きでいいと思うよ。父も言ってたし」

 彼の父、現役騎手の大林翔吾か。まあ、その意味ではこの明るい性格と相まって、まだ他の連中よりは話しやすいのは確かだが。


 だが、彼は面白いことを私に告げるのだった。

「でも、父さんはよく言ってたよ」


 私は、じっと黙って話を聞く。

「凱はまだ『本当の恐怖』を味わってないって」


「本当の恐怖? 何のこと?」

 珍しく、彼の言葉が気になった。見ていると、彼は眉間に皺を寄せて続けたのだ。


「父さんが言うには、本当の恐怖ってのは、レース中に後ろから感じる強烈なプレッシャーのことらしい」

「強烈なプレッシャーって?」


「ああ。わかるんだそうだよ。本当に強い騎手や馬が後ろにいると、押し潰されるような『恐怖』に似た感覚を後ろから感じるってね」


「ふーん。わかるような、わからないような……」

「だよねー。僕もよくわからない。年寄りの法螺吹きかもしれないね」

 などと笑っていたが、私にはそうは思えなかった。


 恐らく、まだ私たち「新人」は、真の意味で、「競馬の怖さ」を知らないだけだろう。

 プロ中のプロがうじゃうじゃいて、新人なんて簡単に潰されるような世界だ。

 恐らくは、本当の「強者」と私たちはまだ戦っていないだけだろう。


 凱くんと別れた後、すべてのレースが終わり、後始末を終えて22時近くになって、競馬場の外で祖父と会った。


「おお、優ちゃん。立派になって」

「お爺ちゃん」


 祖父の暖かい手が、私のショートカットの頭に触れる。昔と変わらない、暖かさを感じる。

「宗一郎の奴が無茶なことを言ったらしいな。気にするな」

 祖父は、そう言って、目を細め、父の「条件」について、否定的な見解を示すばかりか、


「いざとなったら、俺が宗一郎を説得する」

 と息巻いていたが、私は小さく首を横に振った。


「いいんだよ、お爺ちゃん。そんなことしなくて」

 この人は、孫である私を可愛がるあまり、贔屓目に見てくれるから、その言葉は嬉しかったが、同時にそれに「甘える」わけにはいかないと思った。


「でもなあ」

「いいの。私は、まだまだ半人前だけど、これから勝つから」

 明るくそう告げると、祖父は、一度離したはずの手を、再び私の頭に置き、


「強くなったね」

 と言った後、微笑んで静かに告げるのだった。


「たとえみんなが敵に回っても、俺は優ちゃんを応援する。がんばってな」

「ありがとう」

 祖父は、いや祖父だけは私の中では、「最後の最後まで」味方でいてくれる。

 実は祖母はだいぶ前に亡くなっており、母方の祖父母とはあまり交流がなかったから、私にとって、この祖父と、地元の牧場にいるマリモだけが、「真の味方」だと思っている。


 過酷な一年目はまだまだ続くのだった。

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