午前2時の春
夏場
第1話
午前2時。田舎道の、ずっと田んぼが広がる一本道を歩いている途中だった。
過去の後悔とか、足りなかった青春とか、そういうドブみたいな思い出を思いだしながら、歩いていた。
両脇の田んぼ道、月光が先の闇をぼんやりと照らして、それを頼りにただ歩いていた。
そうやってただ歩いていたら、フッと遠く向こうに、こちらに歩いてくる人が見えた。
午前2時のこの時間、その人影を警戒すとともに、あちらもこちらのことを随分警戒しているだろう、と思った。
段々とその人影が、こちらに近づくとともにその形がはっきりしてきた。
白の長袖、白の膝下の丈のスカートのその姿、とにかく多分女の子だった。
このままじゃあの子とすれ違ってしまうとわかっていたけど、どうも一本道なので、避けることもできなかった。
段々とその子が近づいていく中で顔だけは下を向けて、なるべく普通に隣を過ぎることをあまり意識しないように、そのまますれ違おうと思った。
10メートルぐらいの距離まできて、その子の顔がなんとなく見えた。
真っ黒なショートカットの髪が肩上で揺れて、男か女かわからない、中性的な端正な顔達。でも、その目、眉、毛の艶めきとか、身体の揺れ方で、なんとなく女の子だとわかった。
グッとこちらを少し警戒するようで、彼女は僕を見てきたから、僕は思わず目線を下に落として、そのまま足元を見ながら、すれ違おうとした。
7メートル、6メートル、5メートル、4メートル、と心臓はひたすらにドキドキして仕方なかったから、早くすれ違ってしまおうと思った。
ついに彼女と一瞬、平行になったその時、フッと匂いがした。
春の匂い。
春の、季節の新しさを感じる、あの匂いだと瞬間的に思った。
どこか、覚えのある匂いだった。
「ねぇ」
背後で、そう声がした。
瞬間的に僕は後ろを振り返ったら、彼女は僕をジッと見つめていた。
「ユウキ君?」
まさか彼女が、僕の名前を呼んだことに驚いてしまった。
「…誰?」
彼女は僕の問いには無視して、やっぱりそうだ、と笑った。
彼女のその笑った顔が月明りに照らされて、頬にえくぼができたのが見えた。
同時に、彼女の目の下、左の頬に赤色が見えた。
赤色は、その形状が丸みを帯びたようで曖昧で、彼女の白い肌にアンバランスに映えていた。
「…痣」
そっと瞬間的に、そう呟いてしまった。
何も考えずに、ただそう呟いてしまった。
そう呟いた直後、彼女は、あっとすぐに顔を下に向けた。
また、胸ポケットからすぐに、白の不織布のマスクを取り出して、それを顔につけた。
彼女の小さな顔は、ほぼマスクに埋まってしまうぐらいで、その目しか見えなくなった。
「覚えてる?私?」
彼女は自分を指さして、幼稚園児のような愉快な口調で僕に言った。
「…わからない」
彼女は、ふふっと笑って、
「ハル」
と言った。
僕の脳が、瞬間的に全てをグッと沸き立てた。
もう今後使わないと思っていた、遠い昔の、もっと昔の、そういう脳の引き出しが勢いよく、ガンっと音を立てて引かれたような感覚だった。
「満田…ハル?」
「ピンポン」
彼女はまた、久しぶり、と言ってその目が糸みたいに細くなって、笑った。
「今、ちょうどこっちの家に用があって来てるんだ」
まだ春にはならない、寒い季節だったから、ふと彼女のその服装が心配になった。
「服、寒くないの?」
思わず、口から出まかせ言った言葉は、意味もなくただ会話を繋げるようなそういう言葉だった。
彼女は、また、ふふっといたずらに笑った。
「実は下にヒートテック着てるから、案外あったかいんだ」
彼女は、その薄そうな長袖の裾を上げて黒色をチラッと見せた。
「ほら、2枚着てる」
「…あ、ほんとだ」
それだけの会話、急に途切れてしまって、僕らは一瞬、無言で向かい合った。
彼女の向こうに見える木々が、風で揺られて動いているのを見て、この状態が夢なのか現実なのかわからないような、そういうゆとりが心にできた。
「帰り道、どっち?」
彼女がそう聞いてきたから、思わず自分の進行方向を指差そうとしたが、こうしてしまうと、もう彼女と会うことは一生ないんじゃないか、と思って、あえて今自分が来た方の道を指さした。
「お、一緒だ」
彼女は、行こうよ、と言って、僕と向かい合うのをやめて、歩き出した。
白の長袖の裾とか、彼女の髪が風に靡いて、揺らいでいるのをぼうっと眺める。
ハッとして、僕はすぐに彼女に追いついて、その歩幅を合わせるようにした。
彼女の横顔、夜の闇が顔を隠して、それ上マスクもしていたからわからなかったけど、そういえば当時の彼女の面影があると、なんとなく思った。
「それにしても、なんでこんな時間に歩いているの?」
彼女は、僕の方を向かず、ただ顔は正面にして歩きながら僕に聞いてきた。
僕は、彼女に言う正解の言葉が見つからず、かといって本当のことを言うこともできなかった。
「暇だったから」
大分ぶっきらぼうに返した僕に、彼女は、そう、とだけ言って、眉にかかった自分の髪をそっと払いのけた。
「そういう夜って、あるよね」
彼女は、本当に嫌になる、と続けた。
今日の月は、満月を目指すばかりで、まだまだ完成にも近づない中途半端で、欠けた形だった。
この欠けた月のせいで、光が足りなくて足取りが見えにくいにも、彼女のその横顔をなんとなくでも、知ることができないのも、少し嫌に思えた。
「私が中学2年生で、転校したから4年ぶりだね」
「うん」
彼女は、田んぼの方に逸れてしまわないようにしているのか、自分の足元を見ながらゆっくりとした足取りで歩いていた。
「あれから、今まで何してた?」
「あれから、特に…何もしてなかった」
「そっか」
彼女は、私は色々あったなぁと、昔を思い出すかのような、目線を上にあげて何か考えているようなそういうしぐさをとった。
田んぼはずっと続いているが、遠く向こうの方に民家がパラパラと見えてきた。
彼女が今歩いている先が、その民家を目指しているということはなんとなくわかった。
「例えば、何があったの?」
勢いまかせに、今度は僕から質問してみた。
彼女ばっかりに気を使わせているかのようで、少し罪悪感を感じてしまって、今度は僕の番であると勝手にそう思った。
彼女は、例えばかぁ、とわざとらしく言ってみせた後少し黙った。
「例えばさ、私のここ、わかったでしょ?」
彼女は、自分からその目の下、頬の部分を指差してそれをすぐにスッとやめた。
僕はなんとも言わず、うん、とただスッと頷くような、それもすぐに誤魔化すようにした。
「ここさぁ、ちょっと、なんて言うんだろう。まぁ端的に言うと、やけど、してさ。中学の時はなかったでしょ」
彼女はそのマスクの上から、ここ、とまた指差した。ふと、彼女のその目が見開いてこわばったかのように見えた。
「このせいで、外行くときはマスクはもう必須で、家族以外には見せた事なかったよ」
僕はすぐさまに、ごめん、と喉先まで出かけるところだった。
「こんな田舎の、こんな時間って人も全然いないから、久しぶりにマスク外して歩けたよ。してるのと、してないのじゃ、なんか、空気が全然違うや」
彼女は、怒りの成分など1ミリも含んでいないような、そういう軽やかな言葉だった。
「びっくりしたでしょ?」
彼女は、そう続けた。
びっくり、という言葉に対して、どういう言葉を選んでいいのか見つからなかった。
考えているその間に、僕は黙ってしまった。
スッとさっきまで遠くまでにあった民家がもうすぐそこまで見えて、民家の傍の光の集まりのおかげで、月明りに頼らなくても、もうその足取りをしっかり確認できた。
「…あ」
そのままやっと返せる言葉が見つかって、それを言おうとした時には、もうそういう空気感ではなかった。
彼女がスッと息を吸い込んだような音が、その時に鮮明に聞こえた。
「じゃあ、私ここだから」
「うん」
彼女は、そのまま民家の方に歩いて行ってしまった。
喉に詰まった、言葉の残像が、グッとまた腹の奥底に戻っていく。
言ってしまえば良かったことがいくつもあったのに、それも全部言えず、ただ黙ってしまった。
そういう僕の癖とか、全部大嫌いな自分だった。
今はもう何時かわからなかったか、彼女と話している間は30分も満たなかったように思えた。
彼女は、中学2年生の時、1年間だけ同じクラスだった。
春からちょうど夏前にかけて、彼女と隣の席になった。
彼女は回りと上手くやれてるような人で、友達もろくに作れないまま、卑屈になっていたその時期の僕とはまるで対照的だった。
だから最初は、僕らは特に話さないままただ過ごすだけの日々で、彼女の回りの人の認識の中に、僕は当然入っていないんだと、なんとなくそう思っていた。
転機があったのは、ちょうど1カ月が過ぎた国語の授業だった。
「ではこの部分。隣の人と、読み合いをしてください」
教師のその一言、当時の僕にとっては、とても嫌な言葉だった。
それも、僕は小さい頃から上手く言葉を言うことができなかった。
言葉を繋げようとすれば、どこかでひっかかってしまって、それを直そうともがくと、またひっかかってしまって相手に迷惑をかけてしまう。
別に、普段はそうでもない。ただ、国語の授業のこの文言、相手がいる、読まねば、という威圧感や焦燥感のせいで、それが酷くなってしまうのだ。
僕はせめて迷惑をかけないように、小さい声で言うか、それを言わないという方法で、今までなんとか乗り切ってきた。
ただ今回は、いつもの方法が上手くできるかどうか不安だった。
彼女と立って、向き合うようにしてると、回りの読みあいの声が聞こえた。
順番的に、多分僕が最初に言う番だが、ただ黙っていた。
僕は言わないことで、またこの場を乗り切ろうとした。
すると、彼女はフッと僕を見て、言わないの?と聞いてきた。
「言う」
急かされた、と思って、僕はなるべくゆっくり小さい声で、言おうとした。
が、彼女が僕が言い終わるのを待っている、という事実が、また僕の症状を酷くさせてきた。
「た、たいようが、えっと、ひい、ひいたその時にな、げげげく」
もう、それは酷かった。泣きそうだった。
僕の前にいた席の女子が僕をチラチラと見たり、その横の男子がにやにやした顔で笑っているのがわかった。
僕は、スッと言葉を言うのをやめてしまった。
彼女には、申し訳ない。ただ、この方法しか知らないから僕は黙った。
この時間が早く終わってしまえ、と心の中で何度も思いながらただ黙った。
「大丈夫」
彼女はいきなり、そう言った。
バッと僕が顔をあげると、彼女は、大丈夫、と僕をしっかり見て、もう一度そう言った。
何が一体大丈夫なのか、全く何もわからなかった。
だがその時、確かに、安心した感情を覚えた。
それでいいんだ、という安心感。
それが一体どういうものなのか、全くわからなかったが、とても安心した。
いつの間にか、僕は息をスゥっと吸って、その次の言葉を出していた。
すらすら言葉が出た。行が変わるごとに、彼女に読みの番を回さないといけなかったのに、僕はそれを無視して、言葉をすらすらと出した。
淀みなく言えるこの瞬間がたまらなく嬉しくて、気付けば僕は、最後の一人になるまで声を出して読んでいた。
ハッと気付いた時には、回りはシンっとしていて、僕がすぐに席に座ると、また教師が黒板を書き始めた。
そのまま隣を見ると、彼女はただノートと黒板を交互に見て、その内容を写していた。
その時から、彼女と隣の席の間だけは、国語の読みの時間は僕はスラスラと言葉が出た。
それがどういうことなのか全く分からなかったが、彼女との読みは、僕の中でスラスラと言葉を紡いでくれた。
スラスラと言葉が出るのはとても嬉しかったし、何か魔法にかかったようで気持ちよかった。
僕がひたすらに読む間も、彼女を待たせてる、という事実をわかっていても、彼女からそういう威圧感が全く感じなかった。
ただ、彼女との時間はそれぐらいで、それ以外はあまり話すこともないまま彼女はいなくなった。
だから、あの夜彼女と会ったのはびっくりしたし、特に声をかけて仲良くなる、という程の関係性でもなかったから、尚更驚いた。
その日、夕方。外はまた一段と寒くなって、空は茜色の、青と赤が混じったような色をしていた。
買い物をしてこい、と母親に追い出され、帰りの田んぼ道を歩いている途中、遠く向こう、人がこちらの方に歩いているのがわかった。
茶色のトレンチコートに、黒のズボン、赤のニット帽を深く被ったその人は、前の服装と違くとも、すぐに彼女だとすぐにわかった。
彼女も多分、僕のことに気付いたようだった。
ああ彼女だと思ってそのままずっと見てたら、またすぐに、僕は無視をしようか迷った。
それも、もう彼女は前のことなんて、なかったことにしたのではないかと思ってしまった。
しかし、彼女は僕に向かって大きく手をふってくれた。
僕は、彼女は前のことをちゃんとあることとして認識してくれてたことが嬉しくなって、そのまま彼女のとこまで駆けた。
そこで、僕の先、遠い向こうから自転車がやってくるのが見えた。
自転車に乗った複数人が、こっちにくる。
彼等が、僕らのことに気づいてしまう前に一瞬、ここに止まって躊躇しよう、と考えた。
だが、彼女はそれに気付かないから、僕のとこまでやってきてしまった。
自転車で楽しそうに話しながら、そこにいたのはクラスの人達だった。
「あれ、ユウキじゃんけ」
一人が僕に気付いて、僕は黙っていた。
彼等も、それ以上は言わないようにしたのか、そのまま彼女を見た。
彼女も、すぐに彼等に気付いたようだった。
その彼女は、ちょうどなぜかマスクを外していた。
ハッと彼女は、すぐにコートのボタンのついたポケットから取り出して、つけようとしたときに、ん?とその一人が、何かの違和感を主張するかのような切り裂く声で、呟いた。
「汚ねぇ痣」
彼は、そう吐き捨てるように、でも確実に聞こえる声で確かにそう言った。
僕は、その言葉が信じられなかった。
ああ言ってしまったのだ、と言うより、ただ信じられなかった。
彼女は、それを聞いていた、というより、無理にでも聞こえてしまったことは、もう明白だった。
おもむろに、彼女は、急に脇道の田んぼの方にいって、稲の下に広がる、冷たそうなその泥を手ですくう。
そのまま、その泥を自分の顔に塗りたくった。
「うわ、何してるん」
彼等は、皆そうやって、うわ、と声にもならぬ声を出した。
彼女が、その顔で振り向こうとする前に、行こうや、と彼等は去っていった。
僕は彼女をただジッと見つめて動けずにいると、彼女は、振り返った顔を僕に見せて、ハハ、と乾いた笑いをみせた。
泥が、ニット帽から出ていた前髪にまでついていて、黒とか茶色が、顔全面にあった。
「ハッハッハッ」
僕は息が、上がってしまった。
上手く呼吸しようとしてもできなくて、言葉が出ない。
こんな気持ち悪い現実が、受け入れられない。
僕は、そのまま何も言えず、彼女を横切って走ってしまった。
その日の夜だった。
なんとなく、彼女と会えるだろうか、という無責任な淡い期待すら抱いて、その日、午前2時の時間に、散歩していた。
夜の散歩道、田んぼが両脇に広がるその道は、狭くて汚い砂利道のそれだった。
じゃりじゃりっと足を踏み込むたびに音がなる、その道をただ歩いた。
心の中にある後悔と、さっき何も言えずに去ってしまった情けなさが、大きな怪物みたいにグワっと襲ってきて、とても苦しかった。
また彼女に会えないだろうか、そう思って歩いても、彼女の姿は中々見えなかった。
もう会えないだろうか、そうなれば一生後悔してしまうだろう、というそういう恐怖で汗が身体の色々なところから沢山流れてくる。
ふと、ぼんやりとした、向こうの闇がうっすらと照らされたその先に、彼女の顔がなんとなく見えた。
前の夜と同じ服装の、その彼女は、少しばかり笑っているように見えた。
彼女のその顔は、今日の少しばかり膨らんだ月でも、しっかりとわかった。
彼女のその顔は、赤が見えて、マスクはしてなかった。
「今日も歩いてたんだ」
「うん」
彼女も、僕も夕方のことに触れることのないまま、また二人で歩き始めた。
心の中で、あの時、彼女に何を言えば正解だったのか、そのわだかりみたいなものが、ずっとくっついて離れないガムみたいに、張り付いて離れなかった。
彼女は今、どんな顔をして、どういう気持ちでいるのか、そういう事を知りたかった。
そうして、無言のままの時間が流れる間に、何を言えばいいのか、その言葉をただ探した。
「君が見えたから、マスクを外したんだ」
「え?」
彼女は、確かにそう言った。そのまま、僕の方を向いて、にこっと笑ってきた。
「あの時、びっくりしたでしょ」
「あの時?」
「泥、つけた時」
また、びっくりしたでしょ、との言葉。もう、その言葉に対する答えは、もうわかっていた。
それを今度は言わないといけない。
もう、それを今言わないと、自分は本当に駄目になってしまうとそう思った。
「大丈夫だと思った」
僕がそう言うと、彼女は一瞬、は?という顔をした後、あぁとまた、納得したように頷いた。
「大丈夫?」
彼女はわけがわからない、という風に返してきた。
僕は、もうそれをわかっているであろう彼女の、そういういじわるが少し鬱陶しく思った。
「中学の時、国語の授業の時に、僕に大丈夫って、言ってくれたよね」
「あったっけ?」
彼女が、それをそういったのは、明らかな誤魔化しだということを僕はもうわかっていたから、そのまま言葉を続けた。
「あれが、凄く助かった。安心した」
彼女は黙ったままだったが、少し間を置いて、それならよかった、と言った。
たったそれだけの言葉、あっさりとただ、そう返されただけなのに、急にまたあの時の感情が蘇って、もう泣き出してしまいそうだった。
もう何年も泣いてなかったし、自分は悲しいことがあっても、あまり泣くことのない人間だと思っていたのに、急に涙が溢れてきた。
目からしっかり涙がでたから、自分でも驚いたし、別にそれを止めようとも思わなかった。
彼女は、僕を見てまたすぐに目をサッと離した。
それは、僕が彼女に対して、あの時、その言葉を投げかけてやらなかったからだ、とすぐわかった。
「夕方、何も言えなくてごめん」
勝手に言葉が、溢れてきた。
「大丈夫って言えなくて、ごめん」
涙と嗚咽が混じって、苦しいことを全部吐いてしまおうとした。
だが、彼女の声は一切聞こえなくて、僕になんて言おうとしているのか、それを考えているのかすらもわからなかった。
無言の時間が流れて、その間、彼女の返答を待つ時間が苦しかった。
「なんで、ずっとこんな夜道、歩いていたの?」
彼女は、そう言って言葉を繋げるようにしていた。
僕も勢いまかせに、正直に本当のことを言おうと思った。
「車に轢かれたり、田んぼの泥に突っかかって、そのまま溺れて死ねたらいいと思った」
「自分から飛び込まないと死ねないじゃん。あとそんな勇気もないでしょ?」
彼女はすぐに平然と言って返してきたから、泣きながら、ないよ、と返した。
「ユウキって名前してるのにね」
彼女は少し大きな声で、小馬鹿にしたような、そういう口調で言った。
「私って、自分のこと大っ嫌いなの」
彼女は、少し大きな声でそう言った。
「ユウキ君は?」
「嫌い」
彼女は、ハハっと笑って、胸ポケットの中からマスクを勢いよく取り出して、それを田んぼにバッと投げてしまった。
「こんなのいらねーや」
「ほんと、この赤、異色な色でしょ、赤って」
「え?」
「何回も嫌になって、毎日鏡で自分の顔何回も見て、外に行けば、なるべく光がない暗いところで食べるの」
彼女の言葉は震えていたけど、泣いているようには見えなかった。
ただ、顔をジッと見つめたら、確かに彼女の目から涙が出てることは、わかった。
大丈夫、が言えなかった。
「でもさ、この痣も、自分も、どっちもこの先ずっと嫌いなままでも、もう別に大丈夫だとも、今は思うんだ」
「なにそれ」
「なんだろうね。なんだろう、全然わからないけど、また泥つけて笑えたらいいや」
彼女が捻り出す言葉は、言っているというより、吐いている、といった方が正しいぐらいだった。
彼女は、言葉を吐いていた。
「じゃあね」
「え?」
「もう行く」
「まだ、君に何も言えてないよ」
ずっと暗い道、月はずっと自らを主張しないまま、灯りながら、ただ光っていた。
瞬間的にそれでも確信的に、僕の声はもう彼女には届かない、とわかった。
自分がいかに最低だった、ということがやっとようやく理解できた。
「笑って」
彼女は、にいと頬を無理やりにあげた。
そのまま、フッとそれをやめて、彼女は民家の方に走って行ってしまった。
僕に彼女は救えなかった。
次の日、夜は雨が降った。
午前2時。傘なんか差ささないで歩いていても、もう彼女を見ることはなかった。
ドブみたいな青春や、二度とない人生をこうも無駄にしていることに気付いても、それでもいいと思って歩いた。
口の中がとても嫌な味がして、あぁ泣いているんだ、と気付く時には、もう家についてしまうほどには時間が経っていた。
午前2時の春 夏場 @ito18
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