3-3 フォウタ湖の霧
転移者たちはハティエ城の防御施設を整備しはじめた。万が一ソラトの都市が陥落することがあれば次にハティエが狙われるかもしれない。そうなったらリンウに脱出すべきと無情にも真琴は主張していたが、状況がそれを許すとは限らず、守りを固めることに異論は出なかった。
もちろんハティエ城の規模と設備では万人どころか千人の攻撃に耐えることも難しい。まともに戦えるとすれば、敵が本隊の側面援護のために小規模な部隊を回してきた時くらいだろう。そういう意味ではソラトの後ではなく、同時に攻撃された場合にこそ多少は役立つ城かもしれない。
悪臭の原因である堀をなんとかしたい切実な動機もあった。
しかし「最低の仕事」に属するドブさらいを領民に強制できないことが判明する。先代の城主は本来は、領民の義務である堀の浚渫を免除する代わりの税を徴収済だった。貨幣経済の発達してきたゴッズバラ王国では労役を金銭に換えて取り立てる傾向があった。
ならば、その金で掃除人を雇えばいいのだが、家計が万年火の車だった前の城主が遺したのは借金で、転移者たちは返済を踏み倒したり待ってもらったりする状態だ。掃除人を雇う余裕は正直ない。
「……やるしかないのか」
文武は異臭の漂う堀を前にして改めて覚悟を決めた。アレンは領民に笑われると言うが、そんなの関係ない。まだ暑さが残る時期なのに口元も全身も布で覆い、肌の露出を徹底的に抑えている。おそらく汚泥に潜む寄生虫を防ぐためだ。女性陣にはちょっとやらせにくい。ちっちゃい姉にはやると言ってもやらせない。
代わりに作業が終わったら巨大なたらいで入浴させてもらうことで良しとする。もちろん、備え付けの湯船なんてものはない(大貴族の家にはあるらしい)。おかげで現場のすぐ横にテントを立てて、たらいを持ってくることもできた。最初は大量の水で汚れを流してから、ゆっくりぬるま湯で……と意識は汚れる前から汚れを落とすことに向いていた。
(これで良かったんだ……俺がやれば代わりに誰かがやらずに済むんだ)
何度目になるか分からない覚悟を決めて、文武は最初の一掘りを繰り出した。
「……」
嫌なことは一気にまとめてやってしまうに限る。文武は黙々と堀に溜まった汚泥を掘り出し続けた。さらった泥は馬車に積んで、別の場所に埋める予定だった。これは領民に小金を握らせてやらせた。兵士は断固拒否した。そういうものらしい。
文武はささやかな気分転換に「障子堀」を作ってみた。日本の戦国時代にあった堀の中に高い畝と四角い掘り下げた部分を作ることで敵の前進を難しくする仕掛けだ。不安定な畝の上を歩いてくれば弓矢で狙い撃ちにできるし、堀底に降りたら何度も畝を乗り越えなければならない。しかも、両手を使って乗り越える瞬間は無防備になる。
なによりも畝になる部分は意図的に掘り残しておける。つまり少しでも工数を減らせる。
だが、敵は誤魔化しの効かない莫大な土砂だった。一日作業して、あまりの進捗の遅さに彼は絶望した。このペースでは一年経っても全体が終わるかどうか。毎日ずっと堀をさらい続けて終わる転移者人生になってしまう……。
浚渫は最低限で済ませるつもりだったとはいえ、作戦の立て直しが必要だった。嫌な臭いのする柔らかい石鹸で身体を洗う。疲労で回らない頭を無理矢理回した。
「うぅ……石鹸が獣臭い……」
これでは臭さの質が変わっただけではないか。今夜は姉も一緒に寝てくれないかもしれない。
気がつけば西の空に浮かぶ月がだいぶ満ちてきていた。驚いたことにこの世界の月は天の一点にあってまったく動かない。人々は
月は一日のうちに一定のペースで満ち欠けを繰り返す。時計代わりにとても都合が良かった。海洋民にとっては、もっと重要な存在で、彼らは
おかげで天極月が見える側の海上は、瘴気の地と恐れられる南半球以外、海洋民が全体に足跡を残していた。太陽の他に海面を引っ張る天体がないため、潮の満ち引きが規則的で読みやすいおかげもあるようだ。
(いっそ無人島に逃げたいなぁ……)
放心して異様な月を見上げる。無意識にアレを美しいと思う感覚は、転移者に備わっていなかった。今は転移した彼らを大地に縛り付ける力の象徴に見えた。
珍しく傭兵の希望者がやってきた。チュニックの上にマントを羽織り、自分のところまで通させる。傭兵は鼻を摘んだ。
「うわっ!くさっ!!」
「……クビッ!」
行商人の時とは逆に、今度は女性陣が取り成す番だった。
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