3-1 フォウタ湖の霧

 ハティエ城の屋上から東をみると、青緑色をした木々の向こうにフォウタ湖の水面が夕日に照らされて輝いていた。この世界では太陽は西から登り東に沈むものと定義されていた。あるいは太陽が南中ではなく北中すると考えてもいいのだが、北半球育ちの人間にはどちらもややこしいので、転移者たちは郷に入っては郷に従うことにしていた。

 司による文字の解読はアレンの助けもあってほぼ完了していた。風雲島で使われている文字は日本語を音で記述する表音文字と考えて良さそうだ。厳密な意味の「仮名」ではない。変体仮名に相当する文字がないからだ。基本的に一音は一字である。ただ、文頭に使われる文字には少し変形が加わることで文章を読みやすくする工夫がなされていた。その法則をちゃんと守っていないテキストも多々あるようだが……おかげで筆者の受けた教育を推定できた。

 くずし字にならず一文字ずつしっかり書く傾向が強いことにも、かなり助けられて、司はローマ字で描かれた日本語を読むくらいの感覚で、この世界の文章が読めるようになっていた。書く方も文字リストを座右にすれば時間は掛かるが可能である。

 彼女が文字を書くことはリンウの大商人とのやりとりで見つけた金策に大きく関わっていた。

 行商人のマティアスから話を聞いた彼の雇い主――ツォイス商会の主人は転移者たちの話を一種の空想小説として出版することを思いついた。風雲島で出版業が最も発達して自由なリンウだからこそありえる話らしい。空想小説自体には大陸の哲学者が理想の社会を描くのに使った話などの先例があるようだ。

 ただし、いきなり異世界の話をバラ撒いてもついてくる読者は少ないとの意見も出て、まずはこの世界にないが、受け入れられる土壌のありそうな童話を書き出すことになった。早い話がパクリである。


 ちなみに姉弟の間で、

「ペンネームは嘘のイソップだから……」

「それ以上いけない」

 というやりとりがあった。


 童話や昔話の内容を忘れてしまう前に出来るだけ書き出してしまおうと司は焦っていた。仲間の知っている話も聞き取りたい。仕事のため彼女は少しでも明るい場所を求めて城の屋上に来ていた。紙が貴重なので、極限まで小さな字で書く必要もあった。

 風雲島で使われている紙は動物の皮を加工したいわいる羊皮紙で、植物が原料の紙は流通していないようだ。大陸にはパピルスに似た素材もあるそうだが、まさにパピルスと同じく耐久力が乏しく、わざわざ輸入してまで使用されていなかった。もちろん、既に文字が書かれた書物の形で輸入されることはある。

 そんな状態だから転移者たちが紙を開発できれば、それも収入源として期待できた。ただし、彼らも紙になる植物や製法をよく分かっておらず、再発明には原料の探索から進めなければならなかった。

 それでも彼女たちは、百点を求めなければそれっぽいものを何とかでっち上げられるのでは?といささか楽観していた。


 司が屋上に来たのには悪臭から逃れるという別の目的もあった。ハティエ城の衛生環境は劣悪で、清潔な世界からやってきた彼女には耐えがたいものがある。水洗トイレがないどころか、城のトイレが周りを囲む堀に直通している。当然、悪臭の元になる。

 城の地下や二の曲輪にある井戸も汚染されかねない――想像したくもないことだが。


 でも、空の近くまで来れば地上の悪臭は陸から湖に向かう風に流されて、あまり漂ってこなかった。そういえば花粉症にもならなくて済むのだろうか、と司は思った。目を凝らして周囲の木々を観察する。幸い杉の植林が行われている様子はない。そもそも杉や檜があるのかも疑問だ。

 ハティエの村に近い林は繰り返し薪取りの対象にされていて自然な状態ではない。枝を切り落とされた木の樹冠はところどころ薄くなっている。遠く北と西に目を転じれば、山々がおそらく手つかずの緑に染まっている。


 通ったことのあるソラトの町は北東にあってフォウタ湖の縁に農地を広げていた。ソラトからみてフォウタ湖の対岸にあるのが湖と同名のフォウタの町だ。この町はフォウタ湖に一つだけある水の出口を抑える位置に広がっていて、水上と陸上の交通を支配していた。川はゴッズバラの王都にまで通じるというから、通商で多くの利益を上げているようだ。

 しかも、このフォウタは自治都市でゴッズバラ王国の支配を受けていない。王国にとっては喉に刺さった骨のような存在だった。併合しようとかなりの圧力を掛け続けて来た結果、王国が落ち目の今、フォウタは反ゴッズバラ勢力として暗躍しているらしい。風雲島南西部山岳地帯の勢力と結んで、マクィンと戦うゴッズバラの背中をチクチク刺しているとか……。

 アレンやマティアスに聞いた話で、どこまでが事実か不明ながら、フォウタは自分たちにとっても不吉な存在だった。最悪の場合、北のマクィン南のフォウタの間で挟み撃ちにされてしまうのではないか。


 気がつけば地図とも言えない雑な周辺地図をノートの端に描きつけていた。暗くなり風が冷たくなってきたのを感じて、司は大して暖かくない城の中へ戻っていった。



地図の画像を近況ノートに上げました https://kakuyomu.jp/users/sanasen/news/16817330653319323514

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