2-5

「ちょっとパレットさん引っ張らないでえ。そんなに急がなくても私ついていきますよ」

「逃げ癖のあるマナちゃんの言うことなんか聞くわけないでしょ!ほら歩く歩く!体育会系の後輩クンといい勝負した脚力はそんなもんじゃないでしょっ?」

「な、なんでそれを知ってるんですかあ」

 通行人の多くない廊下から二人の気の置けない台詞の応酬が聞こえてくる。

 体に走る緩まない緊張、呼吸がやけに浅いのを半笑いで誤魔化して、計画を脳内でなぞる。

 大丈夫だ、きっとなんとかなる。

 なんともならなくても、俺の生活には支障はない。

 第二美術室の中で窓奥の夕日を眺めると、閉じていた扉が軋むような音と共に開かれた。

「あら、衿谷……さんですよね?合ってる?良かったあ。名前を間違えるのは失礼ですもの」

 昼休みに大袈裟なくらいの拒絶をした筆木は俺の両手を包むように握って、優しく微笑んだ。

 群青の髪が夕日に透ける。

 純粋な好意、人の良さ、甲斐性……彼女の口調や言葉遣いにはそういう思いやりが多分に含まれていた。

 あのときの言葉は嘘か、言い間違いだったのではないかと勘違いしてしまいそうだ。

 俺はゆっくりと彼女の手から抜けて、視線を――一歩遅れて部室に辿り着いた、肩で息をするモネへと向ける。

「う、運動は苦手なんだよ。イーゼル以上に重いものは持てないんだ、勘弁してくれぇ」

「別に何も言ってませんし、あれ持てるなら十分じゃないですか」

 壁にもたれかかり、足はがくがくと震えている。

 顔色も優れないようで、体力の無さは折り紙付きらしい。

 これではイーゼルどころか、筆すら持てるかどうか怪しいな。

 くすくす。

 俺たちのやり取りがよほど面白かったのだろうか、筆木は可笑しそうに、口元に手を当てながら笑う。

「あ、いえ。ごめんなさい。二人がもうこんなに仲良しなのが嬉しくてつい……」

 少し恥ずかしそうに、しかし持ち前の柔和な笑みは崩さず彼女は続けた。

「そういえば用事ってそれかしら。二人のお芝居か漫才かを見ればいいのね、ト書さんの方が適任なような気もするけど。あの子はあんまり姿を出さないものね、力不足かもしれないけど不肖私が勤めます」

 にこにこ。

 彼女は慌ただしく、憧れに人に会うことが出来ていつもよりお利口にする子供のように、埃をかぶった椅子を見繕っては、俺たちから離れたところにすとんと収めた。

 その椅子には筆木が座って、教室で見たときのような姿勢の良さを発揮する。

 俺は飲み込めない違和感を横に置いて、モネの言っていることを少し理解する。

 

 『小説家ってやつはロマンチストだから』

 『面白い展開の方に思考がもっていかれるんだよ』

 

 彼女は人の話を聞かない、全部自分の思った通りに事が動くと思っていて、勘違いに塗れている。

 そしてその勘違いは良い方向にも、悪い方向にも傾く。

 筆木が追いかける俺を自分のファンだと思い込んだように。

 尊敬する円山四条の不合格は自分と第二美術部の責任だと思い込んだように。

 モネは苦い顔をして、ちらちらと助けを求めるように俺へと視線を向けていた。

 浅く吸う酸素を強引に深呼吸して満たし、聖母のように微笑を浮かべる筆木に告げた。

 宣戦布告。

「俺、衿谷百葉は筆木学先輩に勝負を仕掛けます」

 目は離さず、口は止めない。

「制限時間一時間で、勝負の内容はショートショートの執筆。勝敗はネモ先輩が判定することにします」

「まあ。勝負ですかあ。いいですね楽しそう。小説で誰かと競ったことなんてないですから新鮮で楽しみ」

 未だ笑みを絶やさない彼女に気圧されそうになる。

 けれど勢いそのままに、俺は言う。

 彼女の笑顔が消えるだろう、厚い面の皮が剥がれてどす黒い本音が飛び出すだろう、必殺技を。

「筆木先輩が勝てば俺はここを退部します。もし俺が勝てば円山四条さんに電話してもらいます」

「いま、なんて言いましたか」

 間髪入れず彼女は俺に問うた。

 動揺とまごつきの後に口を開く。

「……あなたが俺に小説で負ければ、円山四条と話してもらうと言いました」

 しんと。

 それまで漂っていた朗らかな雰囲気が剥がされて、氷山に裸で立たされているような凍える空気が走る。

 筆木は依然笑っていた。

 冷笑。

 以前とは比べ物にならない侮蔑と拒絶を含んだそれには、オブラートというものが存在しておらず、感情がそのまま皿の上に乗せられているようだった。

 彼女の書く文章に表れた激情が発露した――必殺技は効いているようである。

「帰ります。さようなら」

 手早く机に置いた鞄を持ちあげると、一つしかない出入口扉へと速足で向かった。

「させないよ」

 モネは扉に鍵をかけ、筆木の前に立ちふさがった。

 両腕を広げて、小さい体でめいっぱいの通行止めをしている。

 男子高校生と同じくらいの体力がある筆木にとって、彼女を無理矢理動かすことは容易だろうが、その手が暴力に染まることは無かった。

 行き場のない怒りか、苦しみかのせいで、手が震えていた。

 その震えを消したいがためか、拳を強く握ると――とうとう笑顔が消える。

 表情を隠すように、彼女は目を伏せた。

「パレットさん、そんなに私のことが嫌いですか」

「違うよ、大好きだよ。出来ることならもっと優しく教えてあげたいよ……痛いのは、苦しいのは今だけだから、どうか耐えてほしい」

「衿谷さん、そんなに私のことがが憎いですか」

「先輩のことは憎くない、むしろ好きになりそうだ……どちらかといえば憎いのは円山四条で、」

 筆木は顔を上げて、俺を睨む。

 苦しみと痛みで悲痛に歪んだ、今にも泣きだしてしまいそうな顔で、目の敵のように俺を嫌っている。

「あの人は……先輩は悪くないんです。私が構ってほしくて、もっと見てほしくて、ちょっかいをかけて、人生を滅茶苦茶にしてしまった……私が悪いんです。私は私が嫌いです。第二美術部が嫌いです。だから廃部にしたいんです。だから、構わないでください」

 床にへたり込み、泣きそうな声で懇願した。

 ドラマチックに、筆木は自分が傷つきたくない理由をつらつらと述べた。

 円山四条の本音なんて一つも入っていない、棘のある綺麗事を。

 彼女へ近づき、手を貸す。

「だったら俺を勝負で負かせばいいんですよ。圧倒的に、完膚なきまでに、塵芥すら残さず俺に勝てばいい。先輩が勝てば部員が一人退部するオマケ付きです。こんな割の良い勝負なんてなかなか無いでしょう?」

 筆木は無言で俺の手を取って、立ち上がった。

 そして何を言わぬまま、こくりと頷き、椅子にかける。

 勝負を引き受ける――という意思表示だろう。

 さっきまであんなに話せてたのに、こんなに無視されるとは……かなり嫌われたな。

 勝負のテーブルについてくれたことに安心しつつ、自虐的にそんなことを考える。

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