二章
2-1
放課後、もう一度楽科先生と会うために、職員室に向かうと、変わらず先生はダサいマグカップでコーヒーを飲んでいた。
些細な違いではあるけれど、このときホットではなくアイスコーヒーがカップの中に注がれていた。
何か切り替えや気分の違いで飲む温度を変えているのだろうか、それともただの気まぐれ……俺は恐らく後者だろうと軽んじて思いながら、話しかける。
「第二美術部の名簿とかありませんか。せめて名前くらい分からないと探しようがない」
先生は頷いて、机の中の書類の束を引っ張り出す。
デスク内の収納は割と雑で、引き出しは紙が重なり白く四角い粘土の塊のようになっていた。
ぺらぺらとめくり、一瞬細い目をさらに細くさせて、一枚の紙を引っこ抜く。
洋紙に格子状の線が無数に引かれていて、出席簿を思わせるそれには六名の名前、それぞれの学年、組、出席番号等が書かれている。
『第二美術部』と『去年の年度』が目に留まる、やはり部活で使われていた名簿だ。
よく見ると日付も書かれていた――もっともそれは四月半ばで記入が止められている、この部活の性質上、わざわざ名簿を作る必要はないと思ったのだろう。
「って去年のやつだと、今年度の組が分からないじゃないですか」
「今年はどうせ無くなると思って作ってないのですよ」
「そんないい加減な」
先生は言う。「仕事はいかにさぼるかです」
未来ある生徒に対する言葉だと到底思えない。
「まあいいじゃないですか。生徒たちの素性を探るのも宝探しみたいで楽しいと思いますよ」
「もうすこし説得しようという気は無いんですか」
俺は呆れて言う。
いまどき、小学生でも宝探しなど気乗りしないだろうに。
ただ噂が立つほど有名な第二美術部だ、各々のネームバリューもあって、今はどこで何をしているかくらいすぐに分かるだろう。
海路の日和が見えたところで、「ああそうだ」と先生は何かを思い出したかのように呟いた。
「きげきさんは見つからないので探さない方が良いですよ」
きげきとは誰のことだ、さっそく貰った名簿を見ると確かに『ト書 きげき』という名前がある。
「どうして見つからないんですか?まさか不登校?」
「違います。説明は難しいのですが、彼女は気まぐれにしか姿を現さないので」
授業には出ているものの、見つけるのは困難で、探したところで意味を成さない。
俺は今人間についての話をしているんだよな?
それこそ幽霊か、野良猫みたいな人だと失礼ながら思った。
きげきは後回し。
心の中に留め置き、一応礼を言って、その名簿を持って帰る。
あたりはすっかり薄暗くなっていた。
通学路、右手の住宅街には四角い暖色の光がいくつも浮いており、左手の校庭では威勢の良い野球部とサッカー部の声が喧嘩するように響いている。
部活に出ていない罪悪感を埋めるように貰った名簿に目を落とし、これからどうするか考える。
学年と組、出席番号、そして名前。
1-1 5 上守果 未花
1-9 2 ト書 きげき
2-3 18 パレット・モネ
2-3 19 筆木 学
3-1 23 円山四条 春
3-7 15 二架 神楽
昨年度のものだから、三年生は気にしなくていい。
ともすれば俺が引き戻さなければいけないのは校則の規定上(五人以上で部と認められる)、四名全員となる。
最も目を引くのは『パレット・モネ』という生徒――まさか教師の持つ名簿がニックネームで登録されているわけもないし、きっと本名……いったい何人なのだろう、日本語が通じることを切に願う。
次に気になるのは『上守果 未花』、彼女は恐らく部活活動開始日だろう四月十日に一度〇がつけられているだけで、それからは一切印が無い。
出席すると日付と名前が交差する枠に丸がつけられるようだった。上守果以外も部活は休みがちなのだが、群を抜いている。
そして『ト書 きげき』は忠告通り後回し。
『筆木 学』が消去法で残ったわけだが、他の先輩が表面の情報だけで一筋縄ではいかないのと同じように、攻略は容易くないのだろう。
折れ曲がらないように透明なファイル、入学関連の書類やプリントの中へ丁寧に入れた。
「ひつぎ まな」
名前を空で言う。
いまいちピンとこない名前、有名らしい第二美術部について何も知らなかった俺だから、この人も知らない人はいない程なのだろう。
ともかく、それも含めて明日から探そう。
「宝探しというより犯人捜しだ」
左手から校庭が消えて、三階建て以上の建物が乱雑に聳え、複雑な路地が合間に黒々とした影を落としている。
ぼんやりと白い街灯が等間隔で配置されており、光がたまに震えては路地の影をより暗くした。
まだ不安な帰り道、頭の中で地図を描きながら、家への道を探っていた。
筆木 学とは小説家である。
高校一年生のときとある新人賞を受賞、『変僅』というペンネームで活動を開始した。
受賞作の題名は『バ家』、馬鹿にされている芸術家、劇作家、小説家、噺家が一つの家でシェアハウスを始め、とある珍事から全員が身の上話を切り出すというあらすじだった。読んだわけではないので、詳細な内容を知らないが、今までの小説の根底を覆すようなラストだったらしい。
「これを小説でやる意味が分からない」
「まるで芸術品を鑑賞しているような気持ちになった」
「女子高生が書いたなんて嘘だろう」
等々……良くも悪くも捉えられそうな意見が目立ち、読者は一様にこれの評価を測りかねているみたいであった。
微妙なのではなく、これを認めてもよいものか――初体験の受け入れ方、困惑が現れている。
顔出しNGの女子高校生作家として、一世風靡し、批判も称賛も乱れ浴びて三年が経つ。
今は世間様の興味が薄れてしまっているが、作品を出す度にテレビのニュースになるような知名度。
そのたびに呼ばれる二つ名は『深海の蛙』。
これの意味を理解できるほどよく調べたわけではないが、彼女の文章を読むと深海のような気分になる、深海なのに蛙がいるような違和感を覚えるテイストがそれたらしめているらしい。
デビュー後話題に事欠かない彼女だったが、メディア露出は皆無。
先に引用したように、彼女が高校生であることを怪しむ者も出てきたが、カウンターとして本名を出す、なんてこともしなかった。
筆木が『変僅』であると俺が知れた理由は”学内周知の事実”のおかげである。
とある生徒が話半分に筆木に訊いたところ、彼女は首を縦に振った。
そこからただの噂が真実味を帯びて、等式が成り立ったのだ。
第二美術部所属というだけで様々な噂が立つ。
モネは現在フランスに帰省中かつ休学中だとか。
きげきは変装の達人であり、本当の姿は誰も見たことが無いとか。
上守果が不登校なのは、人体を用いた狂気的な作品を作っていて、外に出られないからだとか。
筆木は話題の小説家『変僅』だとか。
あることないこと囁かれ、それを嫌った筆木はすべての質問に答えるようにしており、その際うっかり自分の正体を明かしてしまった。
話題の小説家がそんな迂闊で初歩的なミスをするだろうか。
これも伝え聞いたことなので、本当かどうかは分からない。
三年一組に筆木はいる。
俺が本当に知りたかったこの話だけは真実であってほしい。
三年生のいる本館の二階、全学年の下駄箱のある一階の上に位置するそこには昼間光が入らない。
受験生たる彼らの教室に西日が入ってしまっては勉学に集中できないという配慮の元、ここが選ばれたのだろう。
まだ四月なのに約一年後に控えた大学入試を既に彼らは意識しているようで、空気が重い――日光が入らず、若干暗いのも理由の一つだろう。
女子はセーラー服で学年の区別があるが、男子にはそれがない。
しかしまだ糊の利いた真新しい学ラン、平均より若干低めな身長、人探しのためきょろきょろ周りを見る動作、あと諸々を総合して、場違い感が生まれている。
現に先ほどからかなり視線を感じていた。
「あれが例の……」「そうは見えない……」「まさか女……」
と目線と共に断片的に会話か独り言が聞こえてくる、かなり怖い。
どう見ても俺は女じゃないだろ。見ろ胸を、ぺったんこだ。胸筋もほぼないぞ。
自意識過剰な部分もあるだろうが、ほとんど俺について話しているような気がしてくる。
そんなに新入生に対して三年は排他的なのか、受験のストレスというものは相当らしい。
四月でこれなら年を越せば、皆の顔は青く染まっていそうだ。
青が好きとは言え、あの不健康な色は見たくない。
『3-1』と書かれた板がぶら下がる教室に、「失礼しまーす」と間延びした挨拶と共に入る。
一番近くにいた先輩に「筆木学先輩はどこにいますか」と聞くと、その先輩は一瞬驚いたような顔をして案内してくれた。
「あそこでパソコンに向かってるのが筆木さんだよ……言っても君の方が詳しいと思うけど」
よく分からないことを言う。
まさか俺が彼女を探しているという噂はもう広まっているのか?
恐るべき伝達速度、こうも早いと第二美術部が有名なのではなく、この高校に通う生徒全員が噂好きである可能性が出てくる。
弱ったな、ここでは浅野の下手な噂を流せないじゃないか。取り返しがつかなそう。
がやがやと話し声と生活音がうるさい中で彼女は平然とキーボードが叩いている。
群青の髪に切れ長の黒目、俺より十センチは高い身長に、綺麗な姿勢。
幽霊少女を大和撫子のようだと思ったが、筆木も座る姿は牡丹のよう――黒髪の乙女然としていた。
探し人ではないことに落胆しつつ、彼女の座る机の前に立つ。
けれどこちらへ視線を向ける様子はなく、ときおり自分の顎に手を当てては再びキーボードに指を伸ばしていた。
ちらりと画面をのぞき込む。
そこには小説を書くためのソフトが開かれており、高速の打鍵に合わせて、毎秒凄まじい文字数打たれている。
タイピングすらままならない俺にとっては衝撃映像である。
たまに考える仕草をするときはウェブブラウザで決まって調べ物をしていた。
調べられた言葉は『千一夜物語』『マルセル・デュシャン』『42』『熾天使』だった。
何一つ関連性が見えない、あと意味も分からない。
話しかけるのも悪いと思って、じっと見ている。
ただ見ているだけでも、綺麗な文章が完成されてゆく姿は面白いと感じた。
そして少しだけ理解した。
彼女の文章は確かに深海のようである――光は僅かにしか感じられず、重々しい雰囲気があり、常に停滞している。しかし絶望が散らばりただ享受しているのではなく、登場する人物は深海生物のように絶望を乗り越えるために時に克己し、時に輝いている。
生き残るという意思が感じられる、それも含めて深海と呼ばれているのだろう。
十分か十五分かしたところで、筆木は伸びをして、パソコンを閉じた。
「あ……」
俺が声を漏らす。
目が合い、彼女は伸びをしたまま硬直した。
「こ、こんにちは」
半笑いで挨拶をすると、無言のまま腕を降ろし、彼女は席を立った。
椅子から離れて、教室を出る。
後ろを追いかけて、俺も教室から出ると、筆木は振り返った。
少し沈黙、何がしたいのだろう。
「あんなところにとても可愛い女の子があなたに話しかけようとしていますよ」
「えっ!?どこ!?」
指さされた方角へ首を向け、目を凝らすが、それらしい生徒は見当たらない。
背後からは息が切れる音と強く踏みしめる足音が遠ざかっている。
「しまった!!」
これは罠だったのか、くそう思わず振り向いてしまった!
俺にもとうとうファンが生まれたのかと思ったじゃないかちくしょう!男の純情を弄びやがって!!
どうでもいいことだろうが浅野には既にファンクラブが設立しているらしい。どういうことだ、俺におこぼれはないのか。
「待てー!」声を上げて少し遠くを走る筆木を追いかける。
人が多く行き交う廊下を彼女は綺麗に縫って走り、飛び降りるように階段を下っている。
視界から筆木が消えて、急がなければ見失ってしまうことを察知――自分の中で廊下を走ってもギリギリ許される速度から一段階上げる。
人を避けて走っていると時間ロスで逃げられてしまうから、
「のいてください!のいてください!のいてください!」
大声で注意勧告をしながら、ギアを上げる。
皆一様に何か奇怪なものを見るような目線を俺に向け、怯えるように、時には悲鳴を上げながら爆走を避けていた。
階段へと到達すると、筆木のセーラー服の一端が視界の端で揺れているのを捉えた。
「サッカー部舐めんなよっ!」
一歩階段へ踏み込み、そのままの勢いで踊り場を通らず――手すりを飛び越えて一階から二階へ向かう段数三四段目へと飛び降りる。
着地の寸前足をかがめて、衝撃を逃がすが、それども足裏の振動を全て逃がすことはできず、よろけながら痛みに耐える。
筆木は何か恐ろしいものを見るような目で振り返り、そのまま右へと廊下に入った。
「逃がすか!!」
足腰が頑丈であることに感謝しながら、変わらずスピードを付けて彼女の後を追う。
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