エピローグ

 鬱蒼とした森の中を少年が必死に駆けている。正しい道を知っているのか、迷いなく駆けている。


 野うさぎやリス、子熊が茂みの奥でそっと少年を見つめている。久しぶりの森の来訪者をもてなそうとしているのだが、あいにくこの少年にそんな暇はなさそうだ。うっかり彼の目の前に出ようものなら、何の躊躇いもなく蹴り飛ばされてしまうだろう。痛いのは嫌だ。


 動物たちは顔を見合わせ、彼らの中で一番に足の速いものを彼女の元へと遣わせた。


 あの子が来たよと、そう伝えるために。




 ○




 ──時はしばし遡る。


 少年はむくれながら異端審問官にお茶を出していた。台所では数年の眠りから醒めた母が、鼻歌まじりにケーキを焼いている。


「えっと……久しぶり。お母さんが元気になって良かったな」

「うん。そうだね。久しぶり。良かったよ、本当に」

「…………」

「…………」


 沈黙。お互いが茶を啜る音が背景音楽として流れるこの状態を、どう動かしていけばいいのか。生憎、少年と異端審問官は特段仲がいいわけではないのだ。


 そんな時、台所から声がした。


「ねぇあなた達〜ケーキちょっと焦がしちゃったんだけど、食べる?」

「焦げたケーキをお客さんに出そうとしないでよ、母さん」

「だって美味しいのに〜勿体無いでしょう? お客さんはそう思わない?」

「わたしは気にしませんよ」


 少女には見せたことがないような、ピカピカの笑顔を異端審問官は少年の母に向ける。異端が関わらなければ、人当たりはいい方なのだろうと少年は思った。


 異端審問官がこうして少年の家を再訪する一ヶ月前、彼の母は目を醒ました。少年の狼狽っぷりにただ一言、『ちょっと長く寝過ぎたわ〜』と宣う母だったから、感動的な再会なんてものはなかったけれど、少年は心から喜んでいた。そして、怒っていた。


(どうして顔を見せに来てくれないんだ)


 少女が少年の家を去ってから、既に半年が経過しようとしている。“毒林檎の魔女”との決着はとうに着いていて、無事生き残った彼女は大変なことを成し遂げてくれたのだ。少年との約束のために。


 だというのに、少年には少女からは手紙の一つも届かない。異端審問官に連絡を取ってみると、なんとそちらには少女からの手紙が届いていたという。手紙といっても、ただ一言、『いつ首が欲しい?』と書かれていただけらしいが。


(僕にお礼も言わせないで……!)


 少年はすぐにでもあの森の家へ突撃したかった。だがしかし、もしも、もしもだ。もしも彼女が、二度と少年に会いたくないと思っていたら、どうだろう。


 そうして悶々としている少年を見兼ねた異端審問官が訪ねて来た、という訳である。


 異端審問官は端が焦げたパウンドケーキを口へ運ぶ。


「まあ、あいつの事だ。多分忘れているだけだぞ。そんなに気になるなら、行ってみたらどうだ」

「でも……迷惑かもしれないし」


 女はこめかみに手を当てた。


「……異端審問官であるわたしが断言する。“ひまわり”に誰かを本気で嫌うようなエネルギーはない。現にわたしは嫌われていない。この前返事を渋っていたら、『茶会でもしながら日程でも決める?』と催促状が届いた。おそらく善意だ」

「何考えてるんだろ」

「あいつは典型的な『言わなければ伝わらない』やつだからな」

「…………そうだよね」


 少年は諦めたようにため息をつく。少年が少女の家に行かなかったのには、少女にどう思われているか、以外にも理由があった。彼はちらりと母を見遣る。


 母は微笑みながらなあに、と少年に問うた。


「お母さんは止めないわよ? 会いたいなら、行ってきなさい」

「そうは言うけどさ……」


 まだ本調子でないのか、昼間でも突然眠りこけることがあるのだ。そのような状態の母を、家で一人きりにするのは、不安が残る。


 少年の頬が、母の手のひらで挟まれる。


「行ってきなさい。お母さんは大丈夫だから。いざとなったら、ご近所さん達も助けてくれる」

「でも」

「今日を逃して、もう二度と会えなくなったらどうするの。この先、ずっと後悔しながら過ごすつもり?」

「…………」


 異端審問官が彼の肩に手を置いた。


「あいつに、『今それどころじゃないから、また何十年後かに。くれぐれもお前の首をこの前の手紙みたいに送ってくるなよ』って伝えといてくれ」


 少年は女を見上げる。


「……変わったよね」

「あれだけのことがあって、変わらない方が難しい」


 いつからか握りしめていた手を、解く。振り返り、彼は母の目を見つめて、困ったように笑った。


「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」

「行ってらっしゃい。未来のお嫁さんによろしくね〜」

「「…………え?」」

「あら?」




 ○




 ──少年には、望みがあった。もし仮に諦めたとしても、命には関わらないが、それでも必ず後悔してしまう、そんな望みがあった。


 以前に来た時と同じ道を選ぶ。走る。少し足を捻ろうが、体が痛みを訴えようが構わない。もっと早く、こうしておけばよかった。


 視界の端に、ひまわりの黄が映る。


(あった)


 息切れを整え、深呼吸をして、扉に向かって手を伸ばしたその時。


 パァン!


 勢いよく扉が開かれ、それに対応できなかった少年の額に直撃する。彼は衝撃に尻餅をつき、続いて襲ってきた覚えのある痛さに額に手を当てた。


「………いったぁ」

「あ、ごめんなさい。大丈夫?」


 謝罪の言葉と共に手を差し伸べたのは、見た目十六歳くらいの少女だ。長い睫毛に縁取られた新緑の瞳を大きく見開き、肩まであるだろう落ち着いた朽葉色の髪を緩く二つ結びにしている。サンドウィッチが詰められたバスケットを手にしている所を見るに、これからピクニックにでも行くつもりだったのか。


 少年が恨みがましい目で少女を見上げた。少女の方はどこか嬉しそうに、もう一度「ごめんなさい」と少年に告げる。


 少年が少女の手を取り、立ち上がった所で、彼女が悪戯っぽく訊ねた。


「ここは昔『魔女』だったものが住むお家。綺麗でも禍々しくもなくなった。そんな彼女に我らが『魔女』に、ただの『人』が何の用?」

「君に会いに」

「……ふふっ。あははっ」


 少女は腹を抱えて笑い出す。何がツボに入ったのか、目尻に涙さえ浮かべて。


 目元の涙を手で拭いながら、少女は庭に咲き乱れるひまわりの様な満面の笑みを少年に見せた。


「それはそれは、とっても、嬉しいことね!」


 彼女のそんな表情を見るだけで、直前まで湧き上がっていた怒りも、何もかもが消えてなくなってしまうのだから、ずるい。





 少女が森の中を迷いなく進んでいく。少年はその後ろを歩いている。彼女はこれから、師の墓に行く予定だったそうだ。


 道中で墓に備える花を探しながら、少年は少女に話した。母が無事に目覚めたこと、異端審問官からの伝言、日頃の愚痴、嬉しかったこと、楽しかったことなど、話題が思いつくまま口にした。少女はそれを、相槌をうったり、時にころころと笑ったりしながら聞いていた。一通り少年が話し終えると、少女も少しずつ、自らが半年前、彼と別れた後に起こった出来事などを話し始めた。それは荒唐無稽なおとぎ話の先の話で、少年は唖然とした。また、少女がなぜ少年に顔を見せなかったのか、その理由も分かった。


「約束したの。またこの森で会いましょうって、だから、離れるわけにはいかなかった」


 それでもまあ、異端審問官には手紙を送り、少年には手紙を送るという選択肢さえ浮かばなかった所が、彼女らしいというか、何というか。少年だって、少女からの手紙が欲しかったのに。


 なんてことを少年が考えている内に、どうやら到着したようである。枯れた大地であったそこには、いくつか芽が生えていた。少女と少年は白い石の前にサンドウィッチと花を供える。


「そういえば」


 少女はバスケットの中からサンドウィッチを取り出し、少年に手渡す。


「少年って、今は何になりたいの?」

「君が訊くの?」

「私だから訊くの」


 少年は顎に手を当て唸る。ここに初めて来たときは、魔女になりたかった。だけど今は、どうだろう。何かなりたいものが、あるのだろうか。


「何になりたいのかは、分からない、けど」


 ただただ無我夢中でここにやってきたのは、きっと最良の選択だったように少年は思う。ただの人が一生で経験するより、多くの奇跡をこの目で見ることができた。


 それは、目の前にいる少女や、自らの母、あの異端審問官に、“獣遣い”、『魔女』の噂をしていた人々、他にも沢山のひと、その誰が欠けても叶わなかったことだ。誰と出逢わないでいても、成せなかったことだ。


 それをもう一度、と望むのは、いささか欲張りすぎだろうが。


「……笑わない?」

「もちろん」


 少女は鷹揚に頷いた。


 少年は、息を吸って吐く。


「世界を、旅してみたいと思うんだ」


 もっともっと、沢山のことを知ってみたい。見てみたい。


 少女は、きゅっと目尻を細めた。


「おもしろそうね」

「君も来る?」

「…………」


 彼女は申し訳なさそうに首を振った。約束があるのだと、再度口にして。


 それを残念だと思わない少年ではなかったが、少女の選んだ道に口出しすることなどできない。


「じゃあ、手紙。代わりに手紙を沢山送るよ」


 ちゃんと読んでよねと、少年は先程摘んできた花の中から、ひまわりを一本、少女に差し出した。それを見た彼女が、目を伏せる。口元が微かに震えているのが見えた。


「────」


 ざあっと、彼と彼女の間に風が吹き抜ける。


「……楽しみにしてるわ」

「…………何かあったの?」

「いいえ、何も。……少し、重なっただけよ」

「?」


 少女は少年に背を向けて歩き出した。少年は慌ててその背を追いかける。


 その時、後ろから誰かに呼びかけられた気がして、少年はちらりと振り返った。


 誰の幻影も現れない。そこには花と新芽と、白い石があるだけだ。


「……さようなら」


 誰に対する、何の別れかも分からない。ただ、届けばいいなと彼は思った。





 少女の家に戻り、あれやこれやとしていると、あっという間に日が暮れる。彼女は今日くらい家に泊まればいい、と言ってくれたけれど、そうなればダラダラとこの家に居座り続けてしまう気がして、(そして母の勘違いが取り返しのつかない所まで進んでしまう気がして、)少年は全力で首を振った。


 少年は森の入り口から数歩距離を取ったところで、見送りに来てくれた少女に大きく手を振る。


「またいつか!」


 少女は少年の大きな動きに微笑を零したが、同じように大きく手を振って返した。


 一抹の名残惜しさを胸に抱いて、少年は街の方へと歩き出す。


 雲一つない夜空に、一番星がきらりと輝いている。季節外れのひまわりの香りが、ふわりと少年の鼻腔をくすぐった。






 ○






 森のある一角に構えられた小さな家の中で、とある少女が椅子に腰掛け、ポストの中に大量に溜まっていた手紙を読んでいる。差出人は全て同じ人物からのようだった。彼女は片手で中身のなくなったカップの縁をなぞり、時折小さく笑う。窓から少女を覗く鳥や蟲も、どこか嬉しそうだ。彼らも、そして勿論この少女も、差出人の事はよく知っていた。


 この沢山の手紙の差出人である少年(あるいはもういい年かもしれない)が少女の家で共に暮らしていたのは、人間の感性で言えば、もうずいぶんと昔のこと。彼女にとってはごくごく最近のこと。まだ『魔女裁判』や『異端審問官』などの古い歯車で世界が廻っていた頃のことの話だ。


 あれから数十年経ち、そういったものたちは古い時代の忌まわしい産物として淘汰されていった。


 彼女は目を閉じ、ありし日々に思いを馳せる。あの時の出来事は今でも鮮明に思い出せた。百年を生きる彼女の記憶の中で、唯一色褪せることのないもの。目まぐるしい日常。今の彼女にとっては、その全てが眩しかった。


 ──けれど、そんな日々に戻りたいとは思わない。


 そう彼女が感じるのは、彼女が生者や死者とは一線を画すモノだからだろう。


 彼女は昔、『魔女』だった。


 今は『魔女』ではないけれど、『人』かと問われれば違う。


 変質した魂の入れ物である体は、感情の制限が無くなった代わりに、人の何十倍も遅いペースで歳をとるようになってしまった。傷の治りも遅い。『魔女』出会った時よりも、使える魔法の幅は狭くなってしまった。


 だが今、少女は後悔していない。


 己が『魔女』であったことも、『魔女』でなくなる道を選んだことも。


 少女は手紙を卓上に置くと、大きく伸びをして、家の外に広がるひまわり畑に目を向けた。変わらない愛おしい日常も、彼女にとっては永遠に続くものの一つだ。いくら待っても、あの時のような変化は訪れそうにない。


 彼女はきっと、毎日のように思い出すのだろう。彼と過ごした数ヶ月を。幸せに満ちた一瞬を。怒涛のように過ぎ去った、あの数ヶ月を。


(それにしても、いつ来るのかな、あの異端審問官の子。前回来た時から、もう十何年待ってるのにな。新聞に記事が載ってるから、元気なのは分かるんだけど)



 ──いつか、彼女が焼かれるその日まで。

 あるいは、彼女が老いて亡くなるその日まで。

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