第二十五話 魔女狩りの龍

 少女はじりじりと異端審問所の所属を名乗る青年から後退り、威嚇用の魔法を放とうと手のひらに力を込める。そうして不可視の風の刃ができるはずだった。


「……⁉︎」


(魔力の制御が効かない。魔法が、使えない)


 何度試しても、魔法が組み上がる前に霧散する。少女の背が、コツンと廃墟の外壁にぶつかった。


 世界側の味方になると決めた“ひまわり”への罰則だろうか。


(違う)


 それならば味方になると決めたその時から魔法が使えなくなる方が自然だ。タイムラグがあるとしても、この廃墟に到着した瞬間に使えなくなるのはおかしい。何か他に仕組みがあるはずだ。


(それに、あの弾丸)


 微かに魔力を感じる。恐らくは“毒林檎”が提供した、魔女の不死性という絶対的な優位性を破壊する武器。少なからず魔法の影響を受けているはずのそれから、どうして魔力を感じるのか。


 少女はさっと辺りを見渡す。いつの間にか廃墟が建つ敷地の入り口の方に門が現れていた。幻術か何かで隠していたのか、それとも死体を置くことで少女の意識をそちらへ誘導していたのか。どちらにせよ小賢しいことだ。


(しくじった。なら、ここはもう)


「結界の中ですよ。“毒林檎”が気紛れに作り上げた箱庭です」


 少女の思考を読み取ったかのように、青年が続けた。


 中肉中背の青年は物腰こそ柔らかだったが、どうにも気持ち悪い。トグロを巻く蛇にねっとりと絡みつかれているようだ。


「『魔女裁判』で魔法が使えない魔女同士の殺し合いが見たかったそうですよ。途中で意味なきことと思い知り、細部までは仕上げなかったようですが」


 魔女は魔法と強く結びついている。魔女の強さは決して尽きることのない魔力と、魔女ひとりひとりに与えられた独自の魔法。そして永い時を生きた末に得た知識。魔法戦よりも肉弾戦を得意とするのはごく僅かだ。


「……この結界を起動させて“毒林檎”を無力化した後に、その銃で殺したのね」

「いいえ? 言ったじゃないですか。ここは彼女が作り上げた箱庭だと。彼女はこの結界内でも魔法を使えました」


 要領を得ないその説明に、少女は眉を顰める。ならば何故ただの人間が魔女を殺すに至ったのか。


 青年が少女の額に銃口を向けた。


「技術の進歩です。ワタクシが引き金を引き、弾丸が“毒林檎”に到達するまでの間に、彼女は魔法を展開させることができなかった。だからワタクシのような、奇跡の力を持たないモノに殺されたのです」


 哀れですねぇと、ひとりごちる青年の話を、少女はどこか異国の物語でも聞いているような気分で聞いていた。どうにも、今から自分が殺されるという実感が湧かない。イメージできない。焦りの感情が浮かばない。


 銃口はいまだ少女の額に向けられている。青年が発砲しないのは、少女が飛び道具を持っているという可能性を危惧してのことだろう。


 少女は顎に手を当てて考え込む。


(残念ながら私は武器を持っていない。今から全速力で走って、この結界外に出たところで、魔法の発動が間に合わなければ、“毒林檎”のように銃で撃ち殺されて終わりだ。魔女を出し抜いて殺すようなやつに、騙し合いは通じそうにない)


 ふぅと息を吐き出す少女。あまりの勝率の悪さに、ひたすらに天を仰ぎたくなった。


(ここで死んでも、いいけれど)


 そうすれば現存する魔女は全ていなくなり、残るのは魔女候補として選ばれたもの達のみ。『魔女』と成るのには数十年かかるから、その間に世界が神に打ち勝ち、魔女の存在は消えてなくなるかもしれない。確実ではない、ということが少し気掛かりだが、そこにさえ目を瞑れば楽に殺され──。


(……ああでも、こいつに殺されたくないな)


 だってまだ少年の『ありがとう』を聞いてない。だってまだ異端審問官に首を渡していない。そう言えば師匠の墓に挨拶するのを忘れてきた。花だって取り替えなければいけない。それに森に住む動物たちのことも心配だ。


 先ほど少女は思い違いをしていた。自分が死ぬ実感が持てないがゆえに、焦りの感情が浮かばないのだと。


 少女が凪いだ心持ちでいられるのは、少女自身が既にここで死なないということを決めていたからだ。




 ──やり残したことがある。

 ──ここで殺されれば後悔する。

 ──まだ、生きたい。




 強い願いは、迫り来る死への不安でさえも凌駕する。少女は“毒林檎”が展開したであろうこの結界が魔力切れで消滅するまで、時間稼ぎをしようと試みた。


「……あなたは」

「ワタクシの話ですか? 何でも聞いてくださって構いませんよ」


 余裕綽々なその態度は、時間稼ぎをされたところで自分の優位性が揺らがない、という自信からくるものだろう。


 少女の勝利条件はこの場からあの森へ逃げ帰ること。青年の勝利条件は、この場で少女を撃ち殺すこと。どう考えたって、後者の方が簡単だ。


 少女は乾いた唇を舐める。


「本当に、異端審問所に所属しているの?」

「どうしてそう思うのです?」

「『魔女』に対しての憎しみを、あまり感じないから」

「わたくしは異端審問官ではありませんからねぇ」

「雇われってこと?」

「いいえ。目的が合致したから、一時的に協力しているだけです。勤める、という言い方はあまりよくなかったかもしれませんね」


 ……意味が分かからない。


 そんな少女の表情を読み取ったのか、青年が困り顔で説明する。


「わたくし達からすれば、『魔女』を根絶やしにする方が、何かと楽なのです。目に見えた脅威がいなくなるから。魔女がいる人の領域に手を出すのは、無謀としか言いようがありませんからね」


 あなたもそう思いませんか。青年は小首を傾げながら訊ねた。少女は彼を睨め付ける。青年の言動の節々に違和感があった。


 先程までは焦りの感情さえ浮かばなかった心が、揺れる。冷や汗が少女の頬を伝い、流れた。


(これは、まるで)


「世界の法則は、どうするの?」

「おや、あなたもそれが気掛かりでしたか? 大丈夫です。あなたを殺した後に、きちんとわたくし達が、魔女のいなくとも廻っていけるように調整します」


 あぁと、少女は嘆息を漏らした。この青年は世界の法則を知っている。高度な擬態術。自らにとって要らない生命体を、ゴミ箱に放り投げるように、何の感慨もなく捨てようとする高慢さ。


「あなたは人間じゃないわね」

「ええ」


 首肯する青年。少女は顔を引き攣らせた。


「なら、ここで魔法も使えるでしょう?」

「ええ」


 瞬きをした青年の、虹彩の色が変わった。少女は確信を抱く。


(これは、龍だ)


 古い文献でしか読んだことがない。全ての生物の頂点に君臨する神の使いとも呼ばれるモノ達。人や魔女とは違う原理で魔法を使うモノ。龍達が住む集落が、この世界の果てにあると、知ってはいたが。


 否応なく抱きそうになる畏怖の念を、どうにか押し殺す。


(この龍と私の目的の一部は、一致している。なら、対話の余地はあるはず)


 少女は拳を握りしめる。


「……私も、魔女のいない世界にしたいの」

「それは……些か驚きですね。魔女とは皆、死にたくないと願ったモノの成れの果てだと思っていました」

「だから、私とあなた、協力できると思わない?」

「それは、無抵抗でワタクシに殺されてくれるということですか?」

「……え?」


 おかしい。話が通じない。


 混乱する少女をよそに、青年はだってそうでしょう、と続ける。


「あなたを生かしておいて、一体何になると言うのです? 今まで別々の魔女が担っていた役割その全てを、神はあなたに押し付けるかもしれない。あなた一人が、強大な力を持つようになってしまうかもしれない。そうなれば、魔女の根絶は不可能になる。それはあなたも、望むところではないのでしょう?


 それとも何です? やはり死が怖いのですか? 死から逃れたいのですか? 気持ちは分かりますが、何も恐ることはありません。万物に平等に訪れる終わりが、あなたにも訪れるだけのこと。醜く数百年も生きてきたあなた達のことです、やり残したことなど大して無いでしょう。心穏やかに冥界へと行って下さいね!」


 即死できるよう猛毒を塗ったものにと、鼻歌を歌いながら銃の弾を入れ替える青年を、青年の皮を被った龍を、少女はぺたんと地面に座り込みながら呆然と見つめていた。


(あ、れ……どこで、間違えた……?)


 対話をしようと試みたのがよくなかったのだろうか。協力を申し出たのがよくなかったのだろうか。ここに来たのがよくなかったのだろうか。それとも、最初から間違っていたのだろうか。


 龍と少女ではあまりに価値観が違いすぎて、否、立場が違いすぎて、分かり合うことなどできなかったのだ。


 さあっと頭から血の気が引く。逃げなければ。逃げなければ。その文言だけが少女の脳内を駆け巡っている。『生きたい』のではなく、『死にたくない』へと思考が傾く。


 怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


 強い感情は制限され、消えていく。消えていくがしかし、消える度にまた現れてしまう。


「っ」


 少女は近くに転がっていた石を竜に投げつけ、廃墟の中へと駆け込んだ。





 ──嫌だ。


「……はぁっ、はぁっ」


 ──嫌だ。


「はぁっ、はぁっ……あぅっ」


 自分の足に躓きながら、少女は薄暗い廃墟の中を走る。逃げなければ殺されるから。殺されれば何もかもが終わってしまうから。


 ギシギシと軋む階段を駆け上り続ける。隠れるのは得意ではない。


 怖い。嫌だ。怖い。怖い。


 魔法が使えないだけで、こんなにも追い詰められている自分が情けない。


 約束一つ、守れそうにないのが情けない。


 龍の言う通り、自分が死ねば、少年の母は治るのだろうか。『魔女』の素質があると一度でも世界に判断されたモノも龍に殺されてしまうのではないか。


(いやだ。嫌だ。それだけは、だめ。でも……!)


 どうすればいいのか分からない。結界が揺らぐ気配はない。助けなんてきっと来ない。


 少女は魔女になってからずっと独りだった。来客こそあったものの、その者たちと心を通わしたりはしなかった。それでいいと思っていたし、その方がだって楽だった。喪失も空っぽも、二度と味わいたくはなかった。


 だけど心のどこかでは気付いていた。ずっと寂しかった。気持ちを吐き出せるひとが欲しかった。寄り掛っても崩れないひとが欲しかった。


 そうして、『魔女』でも生きていいよと言われたかった。


 そんな自分にばかり都合のいいひとは、過去にも今にも、いなかったけれど。


(少年は、私がいなくなったら、悲しむかな)


 魔女になりたいと願った少年に、昔の自分の面影を見出した。久しぶりに、人と過ごした。感じないはずの温もりを感じた。


 あの日々が、少年や異端審問官と共に暮らした日々が、魔女になってから一番、楽しかった。幸せだった。


 もう少し、生きてみたいと思った。


 走馬灯のように流れる記憶の数々には見ないふりをして、少女は走り続ける。後ろから、龍の足音がする。


「あっ」


 階段を踏み抜いてしまった。木が腐敗した柔い部分に、強く体重をかけすぎたらしい。木片が、少女の足に刺さる。血がたらりと流れた。


(はやく、はやく、抜かなきゃ)


 こつ、こつ、こつと、足音が大きくなる。確実に龍が近付いてきている。


 少女は治療を諦めて、移動を優先させた。……だが。


(足が、重い。痛い)


 思うように体が動かない。どんどん。足音が大きくなる。龍が近付いてくる。


「嫌だ。いや……いや……来ないで」

「それが最期の言葉ですか?」


 のろのろと振り返る。銃口。龍。


(きせき《魔法》。駄目。使えない。逃げる。逃げられない。……殺される? いや。いや。やだ。私は、まだ)


「いきたい、の」


 死にたくない。


 少女はギュッと目を瞑った。


 そんな少女に、龍は容赦なく銃口を向け、引き金を引くかと思われた。少女も、己の生の最後に聞くのが銃声だと、疑いもしなかった。


 ──だが。


 ガラガラガラ!


 ……役割を放棄したのは、彼女達だけではない。



 ○




 ──その出来事は、翌日の地元の新聞で大々的に報じられた。


 廃墟の崩壊。住民がいなくなり、誰も手を付けなかった建物の末路としては、大して珍しいことではない。


 しかし、それが単純な建物の老朽化によるものではなく、人為的に引き起こされたものだとすれば、話は別だ。


 では、誰によってこれは引き起こされたのか。


 まだ生きたいと願う魔女?


 魔女の根絶を願う龍?


 答えは──。




 ○




「…………」


 少女は目をそっと開く。眼下には、廃墟だったものが散らばっていた。


(派手にやったな)


 彼女の髪が風にたなびく。少女は空中に浮いていたが、彼女自身が魔法を使っているわけではない。


 少女はもはや気配を隠そうともしない、背後に佇むモノに声を掛けた。


「……何をしに来たんだ、“獣遣い”」

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