大阪へ帰りたい

天野橋立

(前半)大阪ベイブルースが恋しい

 シロノワールブールは、まるで公園のように緑豊かで静かな街だ。

 人口は30万人ちょっとで、大阪府内で言えば高槻たかつき市くらいのものだけど、このフイヤン国では五本の指に入る都会。歴史も古くて、旧市街の一部は世界遺産候補だ。


 新卒で商社に就職して数年、初の海外赴任でこの街へやって来た来宮沙縒くるみやさよりは、最初大喜びした。知名度の低い街で不安もあったのだが、その町並みはまるっきり外国映画の中みたいだったのだ。

 彼女の住まいとなるアパルトメントは、行く手に教会の尖塔が見える石畳の小路に面していた。夜になると、街灯の暖かな光が濡れた路面の敷石を照らす。

 お隣は赤いテラス屋根がおしゃれなビストロで、この円安ではディナーはちょっと手の届かない価格だったが、ランチならとどうにかなる。せっかくだからと、沙縒は頑張って週一で通った。

 小路を抜けた先は、雑貨や洋服の店が並ぶパッサージュ。日本風に言えばアーケード商店街だが、19世紀に造られたドーム状のガラス屋根が続くその雰囲気は、高槻センター街とは趣が違う。

 まさに「憧れの海外生活」的な毎日を送ることができる、そんな町だと沙縒は思った。何といっても、町のどこで撮っても写真が絵になる。あちこちでスマホのシャッターを切っては、日本の友人たちが見ているSNSに自撮りを上げた。


 しかし、すぐに秋が来て、冬が近づいてきた。その厳しい寒さに、彼女は音を上げた。学生時代を過ごした、京都の底冷えどころの話ではない。

 何より辛かったのは、古いアパルトメントのスチーム暖房が、全く非力だったことだった。仕事から疲れて帰ってきても、毛布にくるまって震えながらテレビを見るというのでは、体も心もちっとも休まらない。

 お風呂でゆっくりしたくても部屋に浴槽はなく、シャワーのお湯も時々水に変わる。近所にスーパー銭湯でもあればいいのだが、もちろんそんなものはない。


 南の島に行きたい、と彼女は思った。いや、そんな贅沢は言わない。大阪府泉北市の実家で十分だ。エアコンは効くし、広くはないがお風呂もゆっくり入れる。何より、まだ11月なのに気温がマイナスなんてことはあり得ない。

 週に一度のビストロのランチを心の支えに、彼女は年末の帰省を指折り数えて待った。ところが。

 伝染病の大流行が彼女の希望を無残にへし折った。成田も関空もセントレアも、日本への航空便は全て欠航となった。


「なんで日本人のわたしが日本に帰れないのよ!」

 沙縒の悲痛な声に、同じテーブルを囲むあとの二人も、暗い顔でうなずいた。

 シロノワールブール駐在の、若手商社勤務仲間。それぞれライバル会社の社員なのだが、こんな遠い町で敵も味方もない。

「寺町のそば屋で、にしんそば食べる夢見たよ、今朝」

 沙縒と同い年、業界大手に勤める河合哲かわいさとしが、天を仰ぐように嘆いた。イケメンのエリートだが、言うまでもなくこの世のすべてが思い通りになるわけではない。

 ああ、いいよねえ、京都のにしんそば、と沙縒ともう一人の女性が激しくうなずく。


 そのもう一人、長澤春奈ながさわはるなは沙縒よりも年上、外資系に勤めるいわゆるバリキャリだ。

 海外生活に慣れた、モデルみたいな外見の彼女。だけど日本食が大好きで、年に何度も帰国しては、明石の「魚の棚商店街」にある行きつけのすし屋で鯛の握りを食べまくって気力を補充するのだ。しかし、こうなっては簡単に帰国することはできない。


 三人が集まっているのは、シロノワールブールでただ一軒の日本料理店、「ゲイシャ・シマダ」だった。

 名前を見ればわかるが、今時海外でも珍しいトンデモ系の日本料理店で、まともな和食が期待できる店ではない。エビのテンプーラを頼むと、チリソースがかかった小エビがシソの葉の素揚げに乗って出てくる。

 ただ、きつねうどんだけはニチレイの冷凍食品をそのまま解凍して出してくれているおかげで、ちゃんと讃岐風のコシあるものが食べられた。


 そのうどんと、「フシミ・イナーリ」と称する、甘辛い厚揚げをくりぬいてご飯を詰めた謎の稲荷ずしもどきのセット、これがこの町で味わえる和食の限界ラインだ。

 店内の装飾はオンラインゲームを参考にしたとのことで、解像度の関係なのか床に印刷された畳の模様がぼやけてはいるが、まずまず日本風だった。

 正面の壁にはなぜだか提灯を持った千手観音――ご丁寧に、腕の数だけ提灯がある――の壁画が描かれていたりするが、この程度のことで文句を言っていてはしょうがない。


「帰りたいなあ、京都……。御所のベンチで志津屋のカツサンド食べたいよ、日向ぼっこしながらさ」

高架下モトコーのホルモン、嚙んでも噛んでも出てくる肉汁がたまんないのよね……」

 ストロングゼロの缶を前に、哲と春奈はそれぞれに嘆いた。沙縒が深くうなずく。偶然だがこの三人、それぞれ京阪神の出身なのである。ちなみにストゼロは日本からの輸入品が入っている。


「実をいうと、わたしも思いっきりベタなところに行きたくなっちゃって」

 沙縒がそう言って、宙に視線をさまよわせる。

「道頓堀とか、普通行かないじゃない? でも、youtubeで昔の大阪ベイブルース? の動画見てたらグリコのネオンとか映って、もう泣きそう」

「ああ、いいなあ、道頓堀。何年も行ったことないけど、戎橋」

「やっぱりトンボリよね、大阪の人情は」

 若手三人、妙な意気投合ぶりを見せる。

「でも、道頓堀なら、ちょっと似てる場所あるよ、このブールにも。確か南街区に」

 哲が、とんでもないことを言い出した。

「えええ? この小癪なおしゃれ都市にトンボリい?」

 春奈が疑わし気な目を向ける。

「そりゃ、あのまんまってわけじゃないけど、川沿いにネオンがあって、橋が架かっててさ。グリコはないけど、ロータス・ビスケットの広告あったし。日本で言えばビスコみたいなもんだよね、あれ」

「行こう!」

 叫んで、沙縒が立ち上がった。

「道頓堀を見に行こう! 食い倒れのおじさんに会おう!」

 残念ながら食い倒れ人形に会える可能性はなさそうだったが、ストゼロで脳がマヒしている三人は、勢いだけで店を出た。


(後編へ続く)


注:「大阪ベイブルース」は正確には「悲しい色やね」(上田正樹、1982年)です


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