ココロのモノサシ

ポテトギア

ココロ

 俺の視線の先には、空っぽになったペットボトルがある。さっき飲み干した炭酸飲料だ。距離はきっと一メートルも無い。目の前にある物との距離など、定規で測らずとも大体わかるものだ。

 それは国際単位系だとか何とかで定まっている、普遍的な『基準』があるからだ。もしも、そんな基準が無かったら、きっと物との距離なんて分からないだろう。


 そんな事がなぜ言い切れるのか。それは、この世に存在しているからだ。


 基準の定まっていない『距離』というものが。



「……夜か」


 カーテンの隙間から窓の外を見ると、暗い夜空に三日月が浮かんでいた。月との距離だって、人類は既に測定している。距離なんてどうでもいいくらいに果てしなく遠いが、それでも分かっている事には分かっている。


 そんな月明かりが照らす夜道を散歩するのが、俺の最近の日課だ。ほとんどの人が寝静まった夜の町は、荒んだ俺の心に安らぎを与えてくれる。どうしようもなくくだらない世の中にも、癒しの一つや二つはあるものだ。


 少しばかりの小銭をポケットに突っ込み、黒いパーカーを着て外に出た。時計の針は23時を過ぎた頃。家族は皆眠っているため家全体に静寂が広がっており、玄関を閉める音がいやに響いた。そこから逃げるように早足で離れていく。


「ちょっと寒いな……」


 1月半ばに差し掛かったこの頃だが、冬の寒さはずっと居座ったままだ。そろそろ退いてくれてもいいだろうに。

 もっとも、半年ほど前から不登校な俺は、今のように夜の散歩以外で外に出る事は無い。なので気温の変化による影響はさほど大きくない。部屋にいれば大抵何とかなるし。


 それでも外にいる今は十分寒いため、フードを目深にかぶって首周りや頭をカバーしつつ歩き出した。歩き慣れたいつもの道には、俺以外には一人もいない。俺が夜に散歩をする理由の一つがこれだ。人のいない道というのは歩きやすい。単に道幅が広くなるとかそういう理由ではなく、精神的に。誰もいない方が、落ち着くのだ。


「またそんな恰好してるんだ。不審者と間違われてもおかしくないよ?」


 誰もいない夜道はとても静かだ。

 だからこそ『こいつ』に話しかけられると、嫌でも気づいてしまう。


「……ちょうど昨日に補導されかけましたが何か」

「なんだ、それでも着てるんだ」


 声のかけられた方を振り向けば、俺と同じくらいの背丈の、長い髪の少女が立っていた。

 ぼそりと返しながら、自然と声のトーンが低くなるのが分かる。俺は彼女が苦手なのだ。


「夜に出歩くだけで注意されるなんて、人間たちのルールは窮屈でしょうがないね。夜だって立派な『一日』の中だっていうのに」

「自称闇の堕天使様にはさぞ窮屈でしょうね」

「自称とは失礼だね。私こそが闇を統べる漆黒の堕天使だ!」


 腰まで伸びた艶やかな黒髪にアメジストのような紫色の瞳。そして右目には眼帯。初めて会った時は怪我でもしているのかと思ったが、彼女と二言三言話せばすぐに杞憂だと分かった。彼女だって俺と同い年ぐらいの年頃の若者。もあるだろう。自分は堕天使だとかのたまっているのもそういう理由なはずだ。


 深夜の散歩を始め出した1ヶ月ほど前。満月の綺麗な夜に、俺はこいつと出会った。俺は天使とか堕天使なんてオカルティックなモノ信じないが、夜空を背にして歩く彼女の姿はやけに様になっていたと今でも思い出せる。きっと深夜徘徊の申し子なのだ。


 まあ何であれ、俺はこいつが苦手だ。

 こいつといると、ただでさえ測り切れない『人との心の距離』が、さらに分からなくなる。


 人と人との心には距離がある。心の距離が近くなればなるほど『親しくなった』と言えるだろう。でも、一体どこまでが他人でどこからが友人なのか、俺には分からない。

 物理的な距離のように絶対的な『基準』の無い人の心なんて、俺には測れない。長い間ひとりで閉じこもっていた俺には、心の距離の測り方が分からない。


 だから俺は、全ての人との距離を出来るだけ一定に、均一に保つようにした。誰に対しても同じ『距離』で接するよう心掛けた。

 心の距離なんて得体の知れないものを測り間違えて傷つく事が無いように、『距離』を離して過ごしている。


 なのに―――


「ねえ、今日はどこ行くの?」

「いつも通りの道。てか今日も付いてくるの?」

「暇だし。別にいいでしょ?」


 サッと背を向けて歩き出した俺の横にスッと並んで歩く少女。そっと曲がり角を曲がるとするっと後に続く。散歩をしていると3日に一回は彼女と出会うのだが、いつも俺の後をついて来る自称堕天使の厨二少女。彼女は俺の苦労を知りもしないで、『心の距離なんて知ったことか』と言わんばかりになれなれしく接して来る。おかげてこっちは距離を測りかねていると言うのに……


「そいえば今更だけどさ、君は何で深夜に散歩なんかしてるの?」


 本当に今更だな。でも言われてみれば、出会ってからしばらく経つけど、俺の身の周りの事は何も話してなかった気がする。いつもはこいつが闇の世界うんぬんの厨二トークを披露したり、近所の店や周りの景色について少し話すくらいだった。


 もしかしてこいつはこいつなりに、『距離』を測ってたとでも言うのだろうか。こんな時間にひとりで歩き回る俺には何か事情があると考えて、少しずつ踏み込むべきかとかを考えていたのだろうか。


「もしかして君も私と同じ『使命』があったりするのかな?」

「……は?」

「その陰湿なオーラから察するに、強大な闇の力でも隠し持ってたり……」


 違った。ただ同類だと思われてただけのようだ。

 少しでもこいつの評価を上げた俺が馬鹿だった。こいつはやはり何も考えてない。そしてしれっと馬鹿にしたのも聞き逃さなかったからな。


「……別に。夜の町を歩きたいからだけど」


 それでも何故か答えてしまった。俺は誰かに話を聞いて欲しいのだろうか。思えばここ最近誰とも話してないが、だからといって『距離』も測りきれてない他人に自分の気持ちを吐露するのもどうなのだろう。


 もし彼女との距離が縮まってしまって。何かのきっかけで離れてしまった時、傷つく事になる。そうならないために、俺は全ての人との距離を一定に保ち続けているというのに。


「なーんか、また難しい顔してんね。並々ならぬ事情があると見たぜ」

「また……?」

「うん。はじめて会った時もそんな顔してたよ」


 言われてみれば確かに、こいつと初めて会った時も同じような考えが頭をよぎった気がする。初対面だというのに、まるで10年来の友人かのようになれなれしく接して来たのだ。そして俺も、こいつとの『距離』を離そうと今以上に素っ気無い態度を取り続けていた。自分で言うのもなんだが、当時と比べて、今は少し丸くなったつもりだ。半分諦めに近いけど。


「ま、今は話せないっていうなら、無理に言う必要は無いけどね」


 彼女はそう言って、再び歩き出した。回想に入りそうになっていた俺は、一歩遅れて歩みを再開させる。


 それからいつもと同じ道を歩き、いつものようなよく分からない厨二トークを聞かされた。結局、俺の事情については聞いて来なかった。聞かないでくれた、のだろうか。


 少しだけ、ありがたいと思った。

 そしてほんの少しだけ、申し訳ないと思った。

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