帰郷

ライリー

帰郷

「うん。今高速降りた。もうあと20分で着く。え、いいよ、途中で少し食ってきたから。親父今いるの。うん。わかってるよ。あい。はーい。」

パタッ。


 雲一つない晴れ模様ながら寒さが深く染み入る、正月三ヶ日最後の昼下がり。男は、一人故郷に向かっていた。故郷は、東京都与太谷区の自宅から片道1時間を要する、千葉県片梨市にあった。愛車のセダンは、年季を重ねて輝きを少しずつ失ったようで、整備では誤魔化せない傷や凹みも二三、見受けられる。この車は、男がホステスと籍を入れた頃くらいに購入したものである。男はまさにこの車と、運命を共にしてきたと自負している。

 男が帰郷するのは実に3年ぶりである。帰郷を渋った理由の一つは、未曾有のウイルスの蔓延である。が、インターネット技術を駆使した様々な方法があるにも関わらず、それを利用しなかったのは、明らかに別の理由がある。

 今、緊張でハンドルに手汗を濡らしながら、こうして故郷へ向かうのは、男の実父が持病を悪くして先が長くないことを知らされたからである。男は、千葉の比較的人通りの多い都市部を遠くに望む、小高い団地に住む貧しい家族の長男として生まれた。父親は、江戸が都の時代より米酒を作り続けてきた酒屋の経理を勤めてきた。時間と規律に厳しく不器用ながら、時として理解力のある父だった。母親は、受付嬢等々職を転々として都市部へ出稼ぎに行っていた。父は風格を重んじ、都市の煌びやかさを軽べつし、地方の情の豊かさを愛した。母は俗物で、夫には見せまいとはするが、宝石や顔立ちの良い男性を欲望し、虚栄心が透けて見えた。生憎当時は貧しかったが。そんな具合だから、男には両親の出会った理由には皆目見当が付かなかった。

 男のセダンは千葉県片梨市の国道に差し掛かっていた。高速道路では渋滞に足止めされることなく快適に運転できたおかげで、身体の強張りや心臓の不吉な周期音を少しの間忘れることが出来た。が、一般道に降りてからはやたら信号に引っかかり、その度にたった今何かしなければいけなかったような様な、無意味にそわそわした嫌な気分になった。男は、人生にたった一度の失敗をした時の、感傷的ながら冷静だったはずの決意を思い出した。確かな決意だった。その気持ちを今でも忘れていない気でいたのに、親子の仲直りという小さな壁にすら怯えている自分が笑えてきた。

 男には妹がいた。両親が共働きだったので、家族のうちで最も長く共に時間を過ごしたのは妹だ。妹は、男の5歳下で、男の少年時代は妹の面倒をみること及び妹を守ることを己に課せられた最重要任務とする日々だった。両親は夜遅くまで帰宅せず、近所の者がよからぬことを考えないとは限らないほど、切羽詰まった状況だった。それというのも、男が住む団地は、歴史的には最も身分の低かった者の集まりであった。身分制が廃止され一世紀経った当時に至っても、謂れのない罪を着せられたり、都会の者に煙たがられ迫害されることが日常だった。闇商売などあって当然だっただろう。そんな環境の中で、特に妹が利益優先的な視線にさらされていると感じる度に、迫害された者たちの受動的、日和見的態度への嫌悪と、迫害する者たちの優越的態度への憎悪が、感情の海の深い底の元で着実に育った。それがいよいよ海面に現れる時が来るのは、少年であった男にとって必然である。

 14歳の時、男は学校で暴力沙汰を起こし、少年院に入れられた。その頃は、父親が新事業に乗り出してこれが上手くいき、母親に子供の面倒を見る余裕が出来たのだが、男には我慢ならぬことがあったのである。


 男は、生まれ育った地の、しかし近代的につくり変えられた街並みを眺めながら、物思いに耽った。

「俺は、妹であるお前のことが大事だった。お前は、俺と同じ世界に生きる唯一の家族だった。俺たちは、親父やお母と違う世界にいたんだ。でなきゃ俺たちは苦しんでこうまで人生が歪むことは無かったんだ。俺たちは寒いところにいた。どこに居ようとも、どこに行こうとも、見えない雪が降っていた。俺たちが見たり聞いたり触れたりするあらゆるものは、どれだけ美しくても、決して俺たちの存在を肯定してくれなかった。人々も木々も路傍の花さえも冷気を放って、俺たちの生命力を、少しずつ、確実に奪って行った。奴らが来た時は屈んでうずくまってないと寒くて仕様がなかった。触れられた手が冷たすぎて何度も低温やけどを負った。精神的にも物理的にも。奴らに屈して楽しようと思ったことは決してないが震えは止まらなかった。子供に特有の意地っ張りがなければ正気を保てなかったかもしれない。お前はよく泣いた。幼いお前が、奴らがどんな悪意をお前に向けているかは理解できなかったとしても、奴等の冷たさは本能的に滲み出ていたから。俺は、お前がいたから、奴らに抗うことができた。お前だけが俺の救いだった。俺たちの世界でお前だけが暖かさを持っていた。お前となら身を寄せ合えた。お前の嘘偽りのない言葉は、目に見えるものしか追わない利己心に徹底して嘘を吐き続けた言葉は、唯一俺の傷を癒してくれた。俺が失いかけていた暖かさを取り戻してくれた。俺は暖かさを失わずに済むと思った。

 やがて俺たちの世界に暖かさが戻ってきた。奴らはもういなかった。でも俺ももうそこにいられなくなってしまった。お前の暖かさがどれだけ特別かを知らずに、より大きな暖かさを求めた。そして俺はあの女と出会った。

 俺はお前の暖かさを忘れた事はないんだよ。決して軽んじたわけじゃない。お前を捨てたわけじゃないんだ。俺たちは家族だ。しかしだからこそそこにはどうしても居られなかったんだ。悲しかった。お前は何より大事だったんだ、それは惜しむべきことだ。しかし、実は、お前の暖かさがどんなものだったか、今でははっきり思い出すことが出来ないんだ。

 生来的な制限というべきか。安全にいられるような境界、ここまではあくまで日常、明日もまた同じように暮らせると思える範囲。その限界を超えるような事件は、人生で何度もあった。その時の感情を今でも覚えている。確かなものだ。しかしその記憶はどんどん具体性を失っていく。記憶の意味みたいなものもどんどん薄れていく。お前は、今の俺に、どんな言葉をかける?例えお前が昔のお前じゃなくなっていたとしても、受け入れる覚悟はしてきたつもりだよ。」

 男はそこまで考えたところで、はっと気がついたような様子で、辺りを見回した。カーナビゲーションによれば、男はもう実家まであと1kmを切ったところまで来ていた。二階建てにしては背が低く古ぼけた家々が並び、黒い野良猫が日向で寛ぎ、道は狭く、急な上り坂に差し掛かっていた。そこだけが変遷というものを頑なに拒んだように、かつて男がそこにいた時代がそのまま残っていた。男は、この坂を下って学校に通った日々を思い出した。狭い坂なので、道の端を歩いていても車が通ると(もちろん徐行で)サイドミラーが少年の華奢な横腹を擦った。今は古き時代の、目的意識がぼんやりとしながらも根っこの意志をよく再確認するだけで満ち足りていた毎日を思い出した。あの日の家族に戻ることが出来たら、どんなに良いだろうと考えた。しかしすぐに思い直して、俺は過去の誤りを正しにきたんだと自分に言い聞かせた。ギアは変えずアクセルを強く踏んで坂を登った。

 男が故郷に帰って来るのは実は3年ぶりで、この景色がそこまで懐かしいわけではない。それにも関わらず男を緊張させ、感慨深くさせたのは、男の父親と妹に21年ぶりに再会するという事実であろう。父親は、無論母親と共に住んでいるが、男とは顔を合わせまいと、帰省の時には必ず県外に一人旅に行ってしまう。妹は、男と同じく東京で結婚し暮らしているというが、男がそれを知ったのは母親からで、どこに住んでいるのかを兄に知らせないつもりらしかった。

 男が父親や妹とここまで疎遠になったのは、やはり男が14歳の少年の時の事件が原因に違いない。その頃は、国が保安強化に積極的姿勢を示し、差別を発端とした人攫いや強盗犯等々は徹底的に検挙され、町に平和が訪れつつあった。少年にとっても確かに良いことだった。しかし少年が持った印象は、やっと安心して暮らせるという安堵ではなく、底から這い上がる途中に組んでいた肩を外されて、置いて行かれたような怒りである。少年は、妹を守るという責務の為に、少年時代という大切で重要な時間を捨てたと自負していた。責務を果たすまではそんなものを望むべきではない、果たした時にいくらでも味わうことができるのだから。遊園地というやつも、家族旅行というやつも。そう思い、ついにその時がやってきた、そしてその要望を父親に伝えた。その返事はこうであった。

「お前学校の成績が悪いんだろ、いつも遊んでやがって、楽して生きていけると思うな!」

 少年は愕然とした。冷静に考えてみれば、妹を守る責務と言ったところで、それを側から見れば、ただ妹と遊んでいる兄にしか見えない。少年がその間も周りの大人の様子を窺って、危ないと判断すれば、妹を説得してすぐさま逃避したということを、父親が知っている由がない。確かに団地の少女が何人か行方不明になっていて、少年の警戒心がまったく自意識過剰によるものだとは言えないが、その任務が成功したところで、それが少年のおかげだと誰が考えるだろうか!しかし、少年はショックでそんなことを全然考えることができなかった。自分が苦しんで苦しんでいくつも犠牲を払って遂行したこの任務、家族の命に関わる大事な仕事を、どうしてこうも侮辱できるんだ!しかし上手く弁解する言葉が思い付かず、怒りだけが堰を切って込み上げて、少年の意思はいよいよ地層に出来た岩のようになって、父親にこう言い放った。

「ら、楽してないだろ、お前の責任放棄じゃ、クソ親父!」

ドン、言い終わりと同時に父親が床を思い切り踏みつけた、それに反射して持っていた上着を投げ付けた、そしてそれにハッとした少年は逃げるように玄関を出て、そのまま学校へ向かった。カバンを忘れたまま。

 そして学校に着くと、友達に筆記用具を貸せと言った。その友達は、自分の使い走りにしてきた少年の態度が気に食わずそれを断った。少年が催促すると、友達は苛立ってこういった。

「黙れよ、口開けば『妹が妹が』野郎がよ、気色悪いんだよ!」

 そして少年を右手で乱暴に突き放した。友達に取り巻いた数人の憚らぬ笑い声の中、少年の頭で父親の言葉が再生された。お前も俺の努力を侮辱するのか!誰も俺の苦労を解らないんだな!俺が楽をしているというんだな!

 少年は非常に短絡的だった。初めて人を本気で殴った。何度も殴った。やがて屈強な体育教師に取り押さえられた。そこでもポケットに入れてあったハサミを突き出して反抗したため、警察が来て少年院に連行されることになった。その段階になって、やっと自分のしでかしたことの愚かさを自覚した。しかし父親に顔を合わせたくない。そもそもあっちだって悪いじゃないか。くそ、絶対に俺の苦労を理解させてやる。しかしどのように?

 少年院は、端から男を「人生に目的を持てず感情をうまくコントロール出来ない哀れな少年」とみなして、深そうな話を延々と聞かせる大人だらけだったが、男にはむしろそれがありがたかった。そうだ、どうせ俺を理解できないんだ、そして俺は失うものもないときた!そうだ、この街を出てやろうか、もう俺は一人で生きていけるぞ!皮肉かな、さんざん大人たちに押さえつけられた挙句嘲笑された俺がこれから最も自由になるとは!だが妹は?まあ流れに任せればいいだろう、俺とあいつには選ぶ権利があるからな。生き方を選ぶ権利が。

 男は、少年院にいる間に、東京に出て起業してやろうと考えた。以前から興味があって、アテもあった。叔父が東京で小さな会社を経営していたので、そこに入って社長にのし上がり、会社を乗っ取ってやろうという考えだった。これは実際に意外にも成功した。忍耐を覚えた男は驚くほど周りを見渡して意思決定できるようになっていたためである。

 父親とは、本気で反省しているふりをした。かつてないほどきつい説教と罰も、将来見返してやるからと考えると、耐えるのは難しくなかった。男は心を鎧で覆う術を身につけたのだ。父親も、その態度を見ると腹の熱が冷めた様子だった。勉強も真面目にするようになった。将来デカいことをやる基礎になるから。そして学校を無事卒業した。その感傷に浸るわけもなくすぐ上京し、成功し、金を荒稼ぎし、人脈も付いてきた。30を過ぎても腹は出ずに背が高く、整った顔立ちをしていた男は、ひいきのクラブのホステスと恋に落ち、結婚した。全ては流れるままであった。男はまさに好機の波を上手く乗り継ぎ、最も高い波に到達していた。男は幸福を実感していた。ほらみろ!お前らよりよっぽど尊敬される大人になったぞ。俺は間違ってなかったろ!いや一度は間違えたが、それを糧にしたんだ!俺を褒めてみろ!

 しかし、男が結婚して10年経つ頃、妻から離婚を切り出された。男が仕事から帰宅し、妻が子供を寝かしつけて、二、三言葉を交わして、食事に取り掛かるところだった。唐突だった。その時に放った言葉が男の心にこびりついた。

「あなたって本当に周りが見えてないのね。確かにあなたは優秀で配慮も出来る人だと思うけど、人の気持ちを本当に大事にしてるとは思えないの。正直そんなあなたはもう好きじゃないわ。私がこんなだとあなたも嫌でしょうから、もうここら辺で...」

別れない?

 それから男は体調を持ち崩し、会社の赤字の責任をとって社長を辞任し、家と子供を妻に明け渡した。妻の言葉に深く反省させられたけれど、その真意は、いくら考えても思い当たらなかった。出会った時から、何故そうまで心を惹かれあったのかすらわからなかった。そこからは、年に一度しか使わなかった別荘を売り、その金で与太谷区の住宅街のしがないアパートの一室に移り住んで、子会社の社長にこぎつけてなんとか暮らす毎日だった。野心はもう持てなかったが、愛車との楽しみは捨てなかった。しかし無茶な運転をして随分損なってしまった。時々どんよりと曇った冬の日に、アパートの錆びた階段の影で意味もなく佇んでいた。駅前の無駄に混んだ通りを抜けて無表情に古びた家へ帰る人を見ながら、息を凍らせた。わざわざ外に出るのは、室内でじっとしていられる気分ではないからだが、厚着をしていても芯まで寒気がした。男はそこで幸せについて考えた。取り止めのない考えばかりが浮かんだが、その情景の中には新しい家族も、古い家族も存在しなかった。きっと俺にはそれが欠けている。そして、少年時代の空白を埋めるために、父親と妹を訪ねることにしたのだ。


 男はセダンを有料駐車場に停め、坂を登り団地のある丘までやってきた。母親は父親と妹をすでに家に呼んで食事を済ませている手筈である。勿論男が家に来ることも知らせてある。父親の危篤があるとはいえ、妹がこの形の帰郷を認めたのは意外だった。男が事件を起こしてからは口を利くどころか顔も合わせなかったからである。犯罪者紛いの兄を親のように慕って育ったなどということが、どうして心に修復不可能な傷をつけずに済ませられるだろうか?

 男はアパートの階段を2階へ登り、ついに実家のドアの前に立った。男は事件の時の父親の顔を思い出した。前にも後にも見たことがないほどに眉間に皺を寄せ、爪が食い込むまで拳を握り締め、言葉にならぬ怒声を団地一帯に聞こえるまでに轟かせた父親に対して、俺はどんな顔をしていた?

 男の心臓は不吉な周期音を立て続けている。立ち止まっているとそれが余計に気になるが、気にすればするほどそれが悪化するということを理解していたので気にしないようにした。そうすると今度は眩暈がしてきた。男は自分に喝を入れるように両頬を叩くと、昔飽きるほど見た実家の風景を頭の中にイメージした。そして意を決してインターホンのボタンを押した。

 インターホンはプォンプォーンという間抜けた音を鳴らし、やがてドアが開いて、母親の見慣れた姿が現れた。そこでやっと、男は気持ちを落ち着けることができた。母親の顔は、例年そうしているように、にこやかな笑顔をつくっていた。しかし、頬が引きつって口角が無理に押し上げられているのがすぐにわかった。入って行くと、昔とほとんど変わらない居間が少し見えた。父と妹はそこにいて、俺を待っているのか。男は首に汗をかいていることに気づいた。

「ご飯ちゃんと食べたの?リンゴむいてあるから食べなさいよ。」

「いいって、腹減ってないから。」

二人はこんな会話をどんな心境で聞いているのだろうか。または聞く気などないかもしれない。

 短い廊下を通って居間に着くと、そこには父親はいなかった。

母親が遠慮がちに言った。

「お父さんはねえ、さっき散歩に行くなんて言ってね...体が悪いのに...すぐ帰ってくると思うけど...」

男は、居間の中央に陣取ったちゃぶ台の上に、メモ書きのようなものがあるのに気づいた。裏を見ると、走り書きで(父親は相変わらず達筆だ)こんなことが書いてある。

「ましなつらになってから来い。」

そうでなければ話す気はない、ということだろう。父親らしいと思った。

 妹はいた。昔と同じようにちゃぶ台の窓に近い方に正座していた。あの事件以来、肩身の狭い思いをさせたはずだ、実際にひどいことを言われただろう、知らない人間に。全く何も知らない人間に。心から反省しているよ、そして償うよ、今度こそちゃんと守るよ。しかし、

「久しぶり......」

こんな言葉しか出ないとは。言うことは予め用意してきたはずなのに、ここにきた途端それを話す気がなくなった。違和感が絶えずあった。全て自分勝手な言い分なのではないかと思えた。今俺は一体どんな表情をしているんだろう。相手の表情は?本当にこんな言葉を待っているのか?

 いや、一番の理由は、結局自分が傷つくのを恐れているから、だな。

「あの、ごめん...今更だけど...」

なら退路を断ち切ってしまえば良い。心が不安定なら選択肢を捨ててしまうほうがかえって良い。自信なんてものは要らない。余計なことを気にする必要はない。

「本当に反省してるし...嫌われてても良いんだ...これからは家族を大切にしようと思う...だからその前に今お前のありのままの気持ちを...」

「いいわ」

妹がぽつりと言った。

「私はあなたを本当に憎んでいる訳じゃないのよ。それに、お父さんが言うことはいつも本心じゃないわ、それがわかってないから...」

妹は男の表情を見て、何かに気づいたように口をつぐんだ。

「着いてきて。いい場所があるから。」

そう言うと、後ろをろくに見ずに玄関を出て、すたすた歩いて行った。男は少し遅れをとった形になり、小走りでそれを追った。居間と廊下の側で立ったままの母親は不思議そうな顔をしていた。

 妹の歩き方は妙に速く、そして静かだった。そのせいで男は時々妹の姿を見失いそうになった。(どうしてお前はそんなによそよそしいんだ。たとえお前が俺を憎んでいたとして、あの事件のことで俺を罵倒したって、もしくは俺のことが幼い頃からずっと嫌いだと言ったって、どんな言葉だって俺は受け止めるのに、なぜ俺にその気持ちをぶつけようとしないんだ。なあ、冬花—)

—冬花。冬に咲く花。—

 男は急にゾワッとした感じを覚えた。冬花?その名は確かに妹のものだったはずだ。しかし、それが音声化された途端、全くよそ者の、表情すらおぼつかぬもののようだった。

 男は更に、周りの風景が全く見覚えのないものに変わっていることに気づいた。小高い丘の団地を海岸の方へ下って行ったはずだったが、いつの間にか深い森の中にいた。暗く危険な香りのする森だ。男は、森の中に入っていった瞬間をどうしても思い出すことができなかった。ただ、妹の姿を追っていたことだけが確かであった。今もそれだけを頼りにするしかないと思った。

 やがて二人は、森の中の小さな祭壇のような場所に着いた。男はやはりここにそういったものがあるとは全く聞いたことがないし、子供の頃に遊びに行った記憶も無かった。男は次第に漠然とした恐怖を感じた。自分が何かに騙されて、退っ引きならない事態に来ている気がして、急いで辺りを確認した。そして、振り返り様に見知らぬ老婆を発見した。痩せこけ、頬が垂れ、髪は薄く白く、しかし目ははっきりと物事を捉えている様は釈迦をおもわせる。老婆は男を見て、嗄れた声で話し始めた。

「ここはまさに、お前が望んでいた、心の空白を正しく埋める場所だ。そして私は、まさにお前の、心の奥深くに沈んでいる記憶そのものだ。」

 男は急いで妹の姿を探した。しかしどこにも見つからなかった。老婆が続けた。

「落ち着くのだ。お前は、私の質問に答えるだけで良い。もう一度言うが、私はお前の忘れた記憶、そのものなのだ。そして、今ここにあるもの、木々も小鳥も枝も石ころも、そして先刻までお前が追いかけていた妹の姿も、全てお前の中にあるものなのだ。」

俺の中にあるもの。

 男は、周りの木々から陽の光が溢れてくるのに気づいた。森の表情がいつの間にか明るくなっているように見えた。心持ちも変に穏やかになっていた。

「いいか。私が質問したことに素直に答えるんだ。答えは自ずと出てくるはずだからな。」

男は、頭の中がすっと静かになって、さざ波が立つ沖合で、自分が大きな波に呑まれる瞬間をいつまでも待っているような気分になった。答えは自ずと出てくる。

「では始めよう。」

 老婆はしわしわの手を胸の前で合わせ、暫く沈黙した。そして突然「破ッッ!」と轟いて、両手を勢いよく叩き合わせた。男は一瞬反射的に痙攣したが、すぐに自分の心の変化に気づいた。男は轟きによって発生した嵐と大津波に呑み込まれ、海中深くに吸い込まれた。しかし男は抵抗せず、流れに身を任せた。やがて波が消え、男が仰向けに浮上すると、眼前に失われたはずの記憶を発見した。あとはこれを一つずつパズルのピースのように繋ぎ合わせていくだけだ。

 老婆が問うた。

「まず、妹の本当の名前は?」

 男が答えた。

「優華。冬花ではない。」

 老人が続けた。

「優華はどんな生い立ちか?」

「優華は俺の父親の友人の子供。友人が亡くなったので父親が代わりに育てた」

「優華の最後は?」

「俺が12歳のとき、川遊びをしていた時に川に流されて行方不明になったままだ。そのとき俺は一緒にいなかった。一緒にいたのは父方の親戚の叔父だった。」

「その叔父は?」

「その時は無事だったが、それ以来消息が途絶えた。」

「冬花は誰の名前?」

「俺の元妻で、優華の姉。」

「なぜ優華の姉とわかった?」

「離婚する際に優華の生い立ちを話し、自分の生い立ちを明かしたから。」

「冬花はどんな生い立ち?」

「優華の5年先に生まれた。当時としては裕福な家庭で育った。しかし8歳の時に行方不明になった。そして人身売買で運ばれている際に父親に助けられた。父親は警察官だったが、その際に銃撃により死亡した。冬花は運良く逃げ切って警察に保護された。そして親戚に引き渡された。しかし扱いはひどく、暴力が絶えなかったため、14歳の時、丁度俺が少年院にいた時、家の有り金を数万円盗んで逃げ出し、東京で下働きして生活するようになった。そして31歳のとき、俺と出会った。」

「冬花はどんな人間だったか?」

「真面目で賢く気配りが出来、いつも身なりを良くしていたが時に飾らぬ無邪気さがあった。特に俺がたまに料理を振る舞った時は必ず残さず食べ、屈託のない笑顔を見せてくれた。しかし、悲しいことや辛いことが起きるたび、彼女は冷たくてけっして溶けない結晶を抱えているんだと感じたのを覚えている。たとえ気丈なふりをしていても、物事が良い方向に動いても、何か翳りのようなものを抱えていると。」

「その翳りとは?」

「幼い頃の記憶。更に優華のこと。彼女は俺と優華が義兄妹だったことを知っていたから。」

「うむ。記憶は確実に戻り始めているぞ。ここで一呼吸おくとしよう。自分が今あるべきところへ向かって流されているということを、よく噛み締めるのだ。」

 男は記憶のパズルを抱えて、仰向けのまま宙に浮かんでいた。パズルは完成にかなり近づいている。背中に風を感じる。天に向かう風だ。天候はいつの間にか晴天に変わっている。男は風に乗って上昇する...


「良し。」

老婆が続きを始めた。

「何故優華が生きているという幻を見続けていたのか?」

「俺は優華が叔父と川遊びに行ったことを知らなかった。優華が行方不明になったことも知らなかった。警察が捜査を始めたことも知らなかった。優華が帰ってこなかった翌日、母は、優華はすぐ帰ってくるよと何度も言っていた。しかし、俺はその前の晩、寝室にいつも通り優華が眠っている気がしていた。次の朝も早起きして、朝ごはんを食べて、鏡の前で身支度をしていた。俺にとってはとても現実的な感覚だった。」

「では、お前が見た優華とは一体何者か?」

 男は、右手を額に当て少し沈黙した。今まさに人生にとって重大な局面に差し掛かりつつあることを感じた。

「優華が幻になる直前だと思う、その夜に変な夢を見た。とても鮮明な夢だ。

 俺は四角く真っ白な部屋に一人立っていた。家具も装飾も窓すらもない部屋だ。俺の目の前に特徴のないドアだけがあり、呆然としているとそれは開いた。ドアが開くのを待ち望んでいたという方が正しいかもしれない、妹が朝食を運んで入ってきた。いつの間に俺の後ろに四角い木製のテーブルがあり、そこには既に2人分の食事があり、俺の向かい側に冬花が座っていた。もちろん冬花に出会ったのは大人になってからで、学生だった頃から知っているはずがないが、優華の姉であることだけは一目で分かった。それと同時に冬花という名前が浮かんできたのだ。

 やがて優華と俺が席に着くと(というより気付くと既に座っていた)、両手を合わせて、いつも俺達がやっているやり方でいただきますを言った。その後は、二人は一言も喋らずに食べていた。俺も喋らなかった。全ては当たり前の習慣のように遂行された。おそらく共に食事をするということ自体が大事だったのだろう。

 食事が済むと、テーブルが消えていて、いつの間に俺達は立っていて、三人の間に細く高い塔が立っていた。見上げるといつの間にか天井が無くなっていて、空は血を染み込ませたように赤くなっていて、塔の頂点は何処までも高く、太陽にまで届きそうだった。冬花がすうっと深呼吸した後話し始めた。今でも一文一句を声音まではっきりと記憶している。時に毅然として、時に迷う様子で、しかしはっきりとこう言った。

『同じ時代に同じ光を受け同じ影を背負うものとして、迫害される者の血に依って、御天道様に誓いましょう。私達は3人で一緒に生きるの。何処にいても、たとえ身体が朽ちたとしても、3人の心は共に生きるの。夢が覚めたら、このことは忘れてしまうけれど、3人の心は必ず新しい光を見つけて、必ず影を克服するの。そしていつか、この3人の内誰かがこの夢を思い出して、全員の心を背負って幸せになるの。そうしたら、3人の人生は報われる。』

 冬花が言い終わると、男は冬花の瞳から涙が出ているのに気づいた。少し驚いて優華の方を見ると、優華も涙を流していた。俺も何故か悲しくなって、下を向いて額に手を当てて涙をこぼした。そうか、俺たちは救われるんだと思った。

 俺が泣き止んで、前を見ると塔が光り始めて、俺たちを中に溶かし始めた。一瞬で姿形を失い、塔の力で押し上げられ、太陽に近づいて行くところで目が覚めた。その時はどんな夢だったかを知ることができなかったが、そうか、そういうことか、なんてことだ、ああ...」

 男はその場に平伏し、額を大地に擦り付けた。

 男は己を恥じた。延べ14年、寝食を共にし、歓喜も苦難も分け合い、身を寄せ合って生きてきた癖に、家族というものを全然理解しなかった自分を、大馬鹿者と罵った。腹の底から大声で。自由に生きる権利なんて馬鹿な事だ、優華がずっと必死に伝えてたんじゃないか、なんで気付かなかったんだ...

 顔は涙でぐしゃぐしゃになり、嗚咽が止まらなかった。数十分はそんな様子だった。

「良い。」

老婆が安心したような声で言った。

「それで良い。やっとお前の運命は幸福な方へと動き出したぞ。それをちゃんと理解するのだ。私はいつも遠くで見ているぞ...」

老婆が言い切らない内に老婆の周りに靄がかかり始め、やがて森全体が立ち昇る煙となって消えた。男は、あの老婆は俺の祖母だったかもしれんと考えながら、近くの公園に行き蛇口を見つけ、両手に水をすくい、顔をよく洗い流した。そして父親が待つアパートへと向かった。


 メルセデス・ベンツ、Mクラス280E。俺の心はこいつと共にある。車種は古く、車体は傷付いたままだが、それは新しい輝きをみせている。

 新たな幸せを乗せて、車輪は駆動し始めた。

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帰郷 ライリー @RR_Spade2

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