小さな古着店

九重

第1話

そこは、本当に小さな店だった。

大きな商店街の目抜き通りから一本外れた住宅街の中、周囲の家に溶け込みひっそりとたっている。

なんの特徴も無い古い家。看板だって、どこかの河原から拾ってきたのではないかと思われる木切れで、玄関脇の青木の鉢植えに縛ってある。


『古着店 お直しもいたします』


丁寧な手書きの文字でそれだけ。店の名前も何もない。まるで、誰にも気づかれたくないような看板だった。

当然、店に入るお客はいない。

入り口の扉は閉まったままだ。

人通りも少なく閑散としたその一角。

今日は天気が悪く、特にものさびしさが際立つ日だった。雲は低く、風が強い。


その風の中を、若い軍人の男が歩いていた。

軍帽を目深にかぶり、高い背を丸めてうつむき加減で歩く青年。何の用事があるのだろうか。彼は風呂敷包を抱えていた。

丁度、青年が小さな店の前を通りかかった瞬間、急に強い風が吹く。

軍帽を飛ばされそうになった青年は、慌てて手を上げて帽子を押さえた。

寸でで帽子を風から守り、ホッとしながら彼は、はじめて周囲に視線を巡らせる。



その目が、ふと店の看板に止まった。

簡単に縛ってあるだけの看板は、風に煽られカタカタと音を立てて揺れている。

ジッと看板を見ていた青年の目は、しばらくして外され手元の風呂敷包に落ちた。

そのまま動きを止めていたが、やがて顔を上げると足の向きを変える。

店の方に向かった。

大きくゴツゴツとした軍人の手が、小さなドアノブにかかる。躊躇うように少し止まった手は、やがてグッと力をこめてドアノブを回した。

キッと小さな音を立てて、扉が開く。カランコロンと、ドアベルの鳴る音が響いた。


店の中は、思いの外明るかった。

薄暗い戸外から入って来たせいなのか、落ち着いた暖色の人工灯に照らされた店内は淡く光って見える。

中央にハンガーにかかった十着の古着があった。三着は男物で、残りの七着は女物だ。

部屋の右側はカーテンの引かれた大きな窓で、左側は五段の棚になっていた。

一番上の棚には、帽子。

二番目にはマフラーや手袋などの小物。

下二段には、たたまれたシャツやズボンなどが並んでいる。

そして、真ん中三段目には、布で作られたイヌやクマのぬいぐるみが置いてあった。

はぎれを縫い合わせて作られたぬいぐるみは、大小様々で、きちんと整理された衣服の中で、少し違和感を放っている。

黒い目玉ボタンが、揃って青年を見つめていた。


「――――はい」


意図せずぬいぐるみと睨めっこをしていた彼を、小さな女性の声が我に返す。

慌てて振り向けば、店の奥からほっそりとした女性が出て来るところだった。

「いらっしゃいませ」

目を合わせた女性は、ニコリと微笑む。

ストレートの黒髪を後ろでひとつに縛った姿は、十七、八の少女に見えた。

青年は、慌てて軍帽をとった。

「ここは、古着屋で間違いないでしょうか」

低い声で確認する。

「はい。衣服の修理や仕立て直しが主ですが、古着の売買も行っています」

少女はそう答えながら、青年を奥のテーブルへと招いた。

商談用なのだろう、四角い樫のテーブルはどっしりとしていて丈夫そうだ。

「店主は」

「私です」

近づきながらの彼の問いに、少女は真っ直ぐ目を合わせ、そう答えた。

青年は、驚いて目を見開く。考え込むように立ち止まったが、やがて「まあいいか」と呟いて、テーブルへと歩み寄る。

その様子を確認してから、少女はお茶の用意をはじめた。白い小さな手が茶缶の蓋を開けると、深い茶の香りが店内に広がる。

息を深く吸いこんだ青年は、ほんの少しだけ肩から力を抜いた。

抱えていた風呂敷包をテーブルの上に置き、ぎこちない手つきで固く縛った結び目を解いていく。

「これを引き取ってほしい」

現れたのは、きちんとたたまれた軍服の上下だった。

詰襟の軍衣は、黄土色で両胸に雨蓋付きのポケットがついている。ボタンは赤銅色。縫い付けてある襟章は、緋色に黄色の一本線が入っていた。上衣を横にずらし見せてくれた袴は乗馬ズボンタイプの短袴だ。

店の少女は、ちょっと言葉に詰まった。

「立派な軍服ですね」

急須に茶葉を入れお湯を注いでから、そう話す。

「ただの古着だ」

青年は素っ気なく答えた。

確かに彼の言う通り、軍服は着古した感じがした。よく見れば、襟章の緋色は色褪せているし、右袖に大きなかぎ裂きがあった。縫って補修してあるのだが、縫い目がガタガタで布が引きつっている。

思わず口元に笑みを浮かべた少女は、縫い目をそっと指でたどった。

「母が縫ったのだ。母は不器用で」

少し焦りながら青年は、言い訳を口にする。

「でも、一生懸命縫ってあります。見ればわかります」

笑みを浮かべたままの少女の言葉に、彼は黙りこんだ。

小さめの湯呑茶わんにお茶を淹れた少女は、茶たくをつけて青年にすすめる。

まだ立ったままだった青年は、ゆっくりと腰を下ろした。

お茶を一口、口に含めば、十分に蒸らした甘味が口の中に広がる。それを堪能しつつ青年はコクリと呑みこんだ。

彼の前で、ひとしきり軍服を見ていた少女が、静かに顔を上げる。

「お客さまの服ですか」

「……いや。父のものだ」

「そうでしょうね」と、少女は再び軍服へと視線を落とした。軍服のサイズは青年より一回り小さい。それに、使い込まれた布地は、この軍服がかなりの年数使用されてきたものなのだと語っている。

「本当にお売りになるのですか」

言外に本当の持ち主であるはずの父親の許可は得てあるのかと、少女はたずねた。

「かまわない。……これは、父の遺品だ」

聞いた少女は、わずかに瞳をゆらす。

「すみません」

「気にする必要はない。最初に説明しなかったのは、こちらだ」

謝る少女に、青年は首を横に振った。

「遺品は、取り扱ってはもらえないのだろうか」

気がかりそうに青年は聞いてくる。店によっては、縁起が悪いと言って遺品を引き取らないところもあるからだ。

今度は、少女が首を横に振った。

「そんなことはありません。でも、よろしいのですか。思い出の服なのではありませんか」

少女の問いかけに、青年は困ったような笑みを浮かべた。

「思い出の服だが、仕方ない。……これがあると、母がいつまでも泣くのだ」

驚く少女を見ながら、青年はもう一口お茶を呑む。

小さな茶碗は、あっという間に空になり、少女は慌ててお茶を注ぎ足す。

「ありがとう」と言いながら、彼は、またお茶を口にした。

「やっぱり美味いな。……そうだな。私が父の軍服を手放す理由を聞いてもらっても良いだろうか」

ためらいがちに青年は聞いてくる。

少女は「はい」と頷いた。


青年の父が出征先で戦死したのは、三カ月前のことだそうだ。

遠国から遺体を持ち帰ることは叶わず、家族が行ったことも見たこともない外つ国の地に、父は埋められた。

遺体の代わりに家族の元に届けられたのが、軍服だった。

丁寧に洗われ、きれいにたたまれた軍服には破れ一つなく、とても死に際に着ていたものとは思えない。

「母の縫ったかぎ裂きのあとがなければ、母も私もこれが父のものとは信じなかっただろう」

実際には、彼の父は夜間敵の奇襲に遭って亡くなり、寝巻を着ていたために軍服は無事だったのだそうだ。

「父と同じ部隊だった人が届けてくれたんだが、その人は律儀な人でね。出征先での父の様子を事細かに教えてくれたんだ」

普段家では寡黙な父は、どうやら同じ部隊の仲間とはそれなりに話していたらしい。

生き延びて故国に帰って来た父の仲間は、それが自分の義務だと言わんばかりに、父の思い出話をした。


『酔うと、彼はいつも自分の軍服のかぎ裂きを見せるんですよ。そして、「俺の妻は、裁縫は苦手だが料理は上手い」とか「裁縫は苦手だが片づけは得意だ」とか「裁縫は苦手だがしっかりものだ」とか言って……のろけてばかりで』


話しながら、仲間の男は涙ぐんでいた。

聞いていた青年も泣き出しそうだったが、意外にも母は気丈に耐え、丁寧に礼を言って軍服を受け取った。

「その時の私は、母が泣かなかったことに安心しながらも、どこか寂しい思いを感じていた」

しかし、彼の寂しさは思い違いだったのだと、後日知ることになる。

「……母が、夜中に父の軍服を取り出し、毎晩声を殺して泣いていることに、私が気づいたのは、それから二カ月も過ぎた後だった」

日に日に顔色を悪くし、元気をなくし、やつれていく母を不審に思い、ようやく青年は気づいたのだ。

「母は、ほとんど寝ていなかった」

このままでは、病気になってしまうと危惧した青年は、母とも話し合い、父の形見の軍服をしまうことに決める。

容易に取り出せない二重底のタンスに丁寧に入れて鍵までかけた。

「なのに、もう二度と父の軍服を見ないと約束したはずの母は、いつの間にかそれを取り出し、やっぱり泣いていた」

叱りつけ、鍵を隠したが、それでもだめだった。

昼間は青年の話を聞き「そうね」と頷き納得する母は、しかし夜になると無意識に夫の軍服を取り出し、泣いてしまうのだ。

天井裏や、床下など、母には知らせず軍服を隠したが、母はそれでも見つけた。

「思い出せば、子供の頃母と隠れ鬼をして隠れおおせたことが、私には一度もなかった」

青年は、苦しそうに笑う。

このままでは、命まで危ないと医師に言われて、青年は父の形見の軍服を処分することにしたのだそうだ。

風呂敷に包んで、家を出て、遠くに捨てようと歩いていた時に、この店の看板を見たのだと。

そう言って青年は、お茶の残りをあおった。


少女は、黙って青年の話を聞いていた。

茶こぼしに茶殻を入れ、新しいお茶を淹れてくれる。

「お願いだ。どうかこの軍服を引き取って欲しい。金なんかいらない。引き取ってくれるだけでいいんだ」

頭を下げる青年。

少女は「……わかりました」と、答えた。

青年は、パッと顔を上げる。少女と目が合って、静かに微笑まれば、彼の顔は心持ち赤くなってしまう。

「ただし、条件が二つあります。まずひとつ目ですが……代金をいらないと仰られましたが、そういうわけにもまいりません。一週間後、この店に代金を受け取りに来てください」

落ち着いた声で、少女は、そう言った。

聞いた青年は一瞬驚くが、次には何故か気の毒そうな顔をする。

「それは、かまわないが。一週間後になどしなくとも。……どうしてもと言うのなら、代金は受け取るが、そんなに高い金をもらおうとは思っていない。今払えるだけで充分だ」

人の出入りのないひっそりとした古着店。

青年は、この店には軍服一着に払えるだけの手持ちの金もないのかと、心配したらしかった。

「ち、違います」

少女は、憤慨して赤くなる。

「違うのか」

「当たり前です」

どうやら、青年の早とちりのようだ。

でも、それなら何故一週間後なのだろう。

そうは思うが、失礼な誤解を謝る方が先だった。

しきりに恐縮する青年に、少女はコホンと咳払いをひとつする。

「それはもう結構です。……それより、もうひとつの条件ですが、今日これからお時間はありますか。私の話し相手になって欲しいのですけれど」

「……話し相手」

思いがけない条件に、青年はオウム返しに聞き返す。

「はい。ご覧の通り閑古鳥の鳴く店ですので、私は退屈しているのです。お客さまとのお話は、何よりの私の楽しみです。……そうですね。もしお嫌でなかったら、お父さまとの思い出話など聞かせていただけませんか」

言われてみれば、そうなのかもしれなかった。

店は静かで、少女以外に人のいる気配はしない。

窓を隠す厚いカーテンは、中と外とを完全に遮断しているかのようにどっしりとしていた。

青年は、少し迷う。

しかし、そのくらいのことで軍服を引き取ってもらえるのならと、最後には首を縦に振った。

「良かった。では、お茶うけをお持ちしますね。から茶ばかりでは話も弾みませんから。甘いものは大丈夫ですか。美味しい芋ようかんがあるんですよ」

大丈夫だと青年が返せば、少女は嬉しそうに笑う。芋ようかんを取りに奥へと姿を消した。

思わぬことになったが、少女の後ろ姿を見つめる青年の心は、なんだかほわっと浮き上がっていく。

母の件で、毎日を欝々と過ごしていた彼も、こんなに人と話すのは久しぶりのことだった。

そのせいもあったのだろう、この後、彼はお茶を五杯もおかわりし長々と話し込んでしまう。

聞かれるままに父や母との思い出を語り、芋ようかん食べた。

「父は、言葉が足りないところがあって、……いつだったか俺が子供の頃、クマのぬいぐるみを買って来たことがあるんだ。俺は、てっきりそれを自分へのプレゼントだと思ったんだが、後で考えてみたら、その日は母の誕生日だった」

すっかり気もゆるんだ青年は、言葉遣いも砕け、いつの間にか一人称は俺になっている。厳めしい軍服に惑わされがちだが、思ったよりも彼はずっと若いのかもしれない。

「父もその時に、はっきり言えば良いのに黙っているから、俺が気づいたのは数日経ってからだった。だいたい親がぬいぐるみなんか買ってくれば、子供は誰だって自分のものだと思うに決まっている。後で盛大に文句を言ったんだ。どうしてクマのぬいぐるみなんだって。……そしたら父は、言うにことかいて、『ぬいぐるみの顔が母に似ていた』からだなんて言うから、今度は母がへそを曲げて――――」

確かにクマのぬいぐるみに似ていると言われて嬉しいご婦人はあまりいないだろう。

笑いながら話を聞いていた少女は、店の棚に並んでいるクマのぬいぐるみの一つを指さし「あんな感じの、ぬいぐるみですか」と聞いてきた。

「そうだな。大きさは右から二番目で、表情は左端のやつに似ているかな」

懐かしく思い出しながら青年も指さす。

閑散としていた店の中に、話し声と笑い声が響く。

それは、この後の用事を思い出しハッとした青年が、時計を確認し慌てて飛び出して行くまで続く。

思いがけなく、楽しく温かなひと時を過ごした二人だった。


そしてそれから一週間後。

青年は、約束通り小さな古着店を訪ねてきた。

今日は先日の曇り空が嘘のような快晴で、空は青く高い。

ただ、風だけは同じように強く吹いていた。

玄関脇の看板は、相変わらずカタカタと音をたてている。

扉を開ければ、ドアベルがカランコロンと響いた。

あの日と同じ店内。

中央のハンガーにも変わらず古着がかかっている。

しかし、よく見ればその数は九着に減っていた。

「はい」

声が聞こえて、奥から少女が出て来る。彼女は、青年を見るなり嬉しそうに笑った。

その笑顔を見た青年の心は、じんわり温かくなる。もう一度中央の古着に目をやった彼は、減っていたのが女物の一着だったことを確認し、そのことに何故かホッとした。

「やあ」

「お待ちしていました」

あの日と同じく樫のテーブルに招かれ、椅子を勧められる。

ふくよかな香りのお茶を淹れてもらう間、青年は何気なく店内を見回した。

その目が、ふと棚のぬいぐるみに止まる。

小さな違和感を感じた青年は、以前のぬいぐるみの配置を思い出し、違和感の原因を悟った。


「増えている」


そう、ぬいぐるみが一個増えているのだ。

一番左端に、その隣のぬいぐるみとよく似た表情のクマのぬいぐるみが、ちょんと追加されていた。

黄土色の布で作られたそのクマは、同色の軍服を着ている。詰襟に、緋色に黄色の一本線の入った襟章までついた軍服だ。目は赤銅色のボタンで作られていて、短い足には乗馬ズボンタイプの短袴をはいている。


青年は口を開き、でも、何を言えばいいのかわからなくなって、閉じた。


お茶を淹れ終えた少女が、そんな彼の様子を見ながら棚に近寄り、そのクマを抱き上げる。

大事そうに持ってきて、青年の前に置いた。

身長三十センチくらいの可愛いクマのぬいぐるみ。


「軍服のお代です」


少女はそう言うと、ぬいぐるみをクルリと回した。

青年は、息をのむ。

クマの着ている軍服の背中には、大きなかぎ裂きがあった。

ガタガタの縫い目で、でも一生懸命補修してある、かぎ裂き。

「いただいたお父さまの服で作りました。軍服は生地が厚くてたいへんで、思ったより時間がかかってしまって……」

苦労話を、楽しそうに話す少女。

青年は、まだ言葉が出ない。

少女は、もう一度ぬいぐるみに触り、クルリと回した。

赤胴色のボタンの目が、青年の正面に来る。

「これを、お母さまに渡してあげてください」

磨き直したのだろうボタンの目は、鈍く光をはじいた。

「…………母に」

顔を上げた青年は、まだ呆然としながらどこか不安そうな声を出す。

「でも、そんな。これがお代だなんて、でも、それじゃ、君の儲けは」

「先日の楽しいお話だけで充分です」

少女は、きっぱりとそう言った。

そんな話があるだろうか。

青年はもう一度ぬいぐるみに視線を落とし、その後少女に視線を向ける。

「……何故、母に」

「お母さまの具合は、いかがですか」

青年の問いには答えず、少女はそんなことを聞いてきた。

わずかに躊躇った後に、青年は答えを返す。

「夜中に、泣かなくなった」

父の軍服を処分してきたと告げた青年に対し、母は「そう」とだけ答え、その後、夜中に泣くことはなくなっていた。

しかし――――


「でも、お元気にはならない。……そうでしょう」


少女に言い当てられて、青年は驚きに目をみはる。

「なんで、わかるんだ」

少女は、哀しそうに笑った。

「大切な人を亡くした悲しみは、とても深く大きいものです。それが突然であればあるだけ、その死を乗り越え生きていくことは、とても難しい。……お母さまはそれができなくて、だからあなたは悲しみを引き起こす軍服を処分した。……大きすぎる悲しみから目を逸らし、忘れようとすることは、もちろん乗り越えるための手段の一つです。悲しみから遠ざかり、時が癒してくれるのを待つことは、間違ったことではありません。……でも、世の中には、それが出来る人と出来ない人がいます。真面目で不器用な人ほど、悲しみから逃げることが、出来ない」

少女はそう言うと、クマのぬいぐるみの背中にある大きなかぎ裂きに、そっと指で触れた。

真面目に、不器用に、一生懸命縫って補修した、ガタガタの縫い目のかぎ裂き。

「軍服をなくしてもダメなんです。それでは、お母さまを救えない」

少女は、静かにそう言った。


「だったらっ、……俺は、どうすれば良いんだ。……どうすれば」


青年が慟哭する。

テーブルの上に出していた手を、グッと握りしめた。

小さく震えるその手に向かい、少女は、クマのぬいぐるみをゆっくりと押し出す。

テーブルの上を滑ったぬいぐるみは、青年の拳にコツンとぶつかり、倒れこんた。

「なくせないのならば、変えればいいんです。……悲しみを悲しいだけの思い出ではなく、悲しいけれど温かな思い出に。それを見た時に、悲しさだけではなく、嬉しさや楽しさ、懐かしさを思い出せるようなものに」

軍服を着たクマのぬいぐるみは、まるで青年の手に甘えるようにもたれかかっていた。

その姿は、どこかユーモラスで愛くるしい。

「お話を聞いて、できるだけ昔お父さまが買ってこられたというぬいぐるみに似せて作ったんです。……どうです、似ていますか」

不安そうにたずねてくる少女。

言われてみれば、ぬいぐるみは、在りし日に青年が父から贈られたと思い込んだものに、よく似ていた。

首を縦にして頷く青年に、少女はホッと安堵の息を吐く。

「どうか、これをお母さまに渡してください。そうすればお母さまも、そのぬいぐるみを思い出してくださるはずです。先日のあなたのように、懐かしい出来事を思い出し、その時々のお父さまを思い出されることでしょう。……亡くなってしまった悲しいだけのお父さまではなく、生きて、笑う温かなお父さまを」

少女の言葉を耳にしながら、青年はクマのぬいぐるみを両手につかんだ。

そのまま自分の目の高さまで、持ち上げる。

軍服を着た小さなクマは、黙って青年を見つめていた。

「………………父は、あまり笑わなかった」

ポツリと呟かれた青年の言葉に、少女は「まあ」と言って、肩を落とす。

心なしか、青年の手の中のクマもがっかりしているみたいに見えた。

静かな店内に、何とも言えない微妙な空気が流れる。

やがて、クックッと、青年は笑い出した。

少女も、ホッと笑みをこぼす。


「ありがとう。このぬいぐるみ、いただくよ。母が元気になるかどうかはわからないけれど、……でも、これを作ってくれた君の心が、俺は嬉しい。少なくとも俺は、このぬいぐるみがあれば、母と頑張って生きていける」


青年は、明るくそう言った。

ガタンと勢いよく椅子から立ち上がる。

「そうと決まれば、善は急げだ、今から早速母に渡してくる。……君も一緒に来てくれるかい」

青年の誘いに、少女は目を見開いた。

「私も」

「ああ。母に君を紹介したい。……あっ、その、特別な意味じゃないぞ」

若い男が年頃の少女を母に紹介するというのは、結婚を前提にする場合が多い。

青年は、真っ赤になって言い訳した。

少女もつられて赤くなる。

「一緒に行ってほしい」

「はい」

小さな少女の声が、はっきりと店内に響いた。


そしてやって来た青年の家は、垣根に囲まれた広い敷地の一軒家だった。

「家自体はそれほど大きくはないんだ。ただ、両親が揃って庭木いじりが趣味で」

今から三十年前、結婚して新居を購入しようとした青年の両親は、庭の広さだけでこの家の購入を即決したそうだ。

確かに、犬柘植の生垣に囲まれた向こうに山法師が頭をのぞかせている庭は、立派そうだ。

先ほどまで強く吹いていた風は、今は静かになっている。

風が強い日は木々がうるさくて困るのだと、青年は教えてくれた。

表玄関から中をのぞいた青年は、家の中へと向かって「母さん」と声をかける。

しかし、その声に返事はなかった。

「あれ、ひょっとして裏庭かな。すまない。裏木戸に回ろう。靴を脱いだり履いたりするより、このまま行った方が早いんだ」

そう言うと青年は少女を導き、垣根伝いに歩き出す。

彼の手には、クマのぬいぐるみを包んだ風呂敷包がしっかりと抱えられていた。

ここまで来る道すがら、大切に何度も抱え直す彼の様子に、少女はいささか苦笑気味だ。

裏に回った青年は、竹で出来た裏木戸を開けた。

「父も、帰って来る時はいつもこっちから入って来ていたんだ。……あ、母さん」

少女を招き入れながら中に入った青年は、予想通り裏庭に母の姿を見つけて、声をかける。

そこに居たのは、やつれた五十代くらいに見える女性だった。

白髪まじりの黒髪を結い上げた青年の母は、沈丁花の木の横で驚いたように振り返る。

首筋から背中にかけての線が、消え入りそうなほどに儚かった。

少女の胸は痛くなる。

「母さん、ほら、これを見て」

青年は、風呂敷包を差し出し母の元に走って行く。

「父さんの軍服だよ。彼女に作り直してもらったんだ」

まるでもらったおもちゃを母に見せる子供のように、青年は得意げだった。

彼の母は、困惑しながらも少女を見て会釈する。

少女も慌てて頭を下げた。。

そんな二人の様子も気づかぬ勢いで、青年は母の前に風呂敷包を広げ、クマのぬいぐるみを出して見せる。


母の目が、大きく見開かれた。


「勝手をしてごめん。でも、母さん――――」

青年は、それから少女との出会いと経緯、そして少女が語った「悲しみ」の話を母に伝えた。

あまり順序立てされず、思い出すままに話す青年の話は、全てわかっている少女が聞いてもいまいちわかりずらい。

それでも、その話は――――青年の母を思う心は、母に伝わったようだった。

青年の母が、痩せた手を伸ばし、その手に青年はクマのぬいぐるみを渡す。

ギュッとぬいぐるみを抱きしめる母。

それまで息をつめて、二人の様子を見ていた少女は、ホッとして体の力を抜いた。

つられて足が少し動く。

ジャリっと足元の小石が音を立て、青年の母は少女の方を向いた。

まだ裏木戸を入ったばかりの場所に立っている彼女と、母の間は五メートルくらいの距離がある。

青年の母は、少女に向かい深々と頭を下げた。

「あ、紹介がまだだった。ごめん。なんだか興奮してて。母さん、彼女が――――」

「それよりも入ってもらいなさい。ごめんなさいね。そんなところに立たせたままにして。どうぞ、

青年の母は、そう話す。

細く穏やかな女性の声だった。


そして、彼女が「入って」と言った途端。

少女が、開けたままにしていた裏木戸から、一陣の風が中へと吹き込む。

木々のこずえをざわつかせ、風は、青年と母の側に立つ、沈丁花の木をゆらした。


ザザザッと音がして、青年と母は強い風に思わずおもてをうつむかせる。

その耳に――――


『ただいま』


声が、聞こえた。


ハッと母子は、顔を上げる。

木々は、ざわざわと鳴っている。

もう、声は聞こえない。


それでも――――


「母さん、今――――」

「ええ。ええ」


二人には、それが誰の声かわかった。

涙ぐむ母親。

そんな母を支えながら、青年は少女の方を見る。


風が少女にまとわりついていた。


少女は、静かに微笑んで、そこに立っていた。

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