冠島移住記
猫神社
第1話
東京から飛行機で二時間、電車と船を乗り継いで更に二時間の場所に位置する島、冠島。
古くは神在島とも呼ばれ、火山地帯でマグマが冷えて固まり形成された地盤と、山を抱くように見える地形が特徴的だ。温暖な気候を生かした果樹栽培、を島の生業としていた。
一年の半分以上は雨が降り、山と共に生きる土地。最近は観光業にも力を入れているらしいが、目立った特徴がないため振るわない。
そんな田舎でも、冠島は今の僕にとっては第二の故郷も同然だった。
“#地方移住 #ストレスフリーな暮らし 移住したい人と繋がりたい #古民家リノベーション #リモートワーク ”
一日一回の投稿を課しているSNSのフォロワーは既に3000人を超えている。
地方移住系インフルエンサーとしてSNSをマネタイズしろ、そう教えてくれたのは大学のイベントサークルの同期だったヨシキだ。ヨシキとは住んでいる場所が離れても一ヶ月に一回のリモート飲みを欠かさない仲だった。
「ケンジ、帰ったよー」
妻の声にお帰り、と返事をしてiMacの前を立つ。彼女はこの島の生まれで、流石と言うべきか島に馴染んでいる。
35歳のときにヨシキの紹介で出会った保育士のミノリと結婚し、樹希を授かった矢先に義父が急逝した。
弱りがちになった義母を近くで支えたいから故郷の冠島に戻りたいと言われたときは正直、こちらに義母を呼び寄せて同居すればいいと思って反対していたのだが……。
その折、ちょうど未曾有のパンデミックにより僕の務める会社でもリモートワークが推進され、地方移住やUターンが取り上げられ始めた。SNS越しに見る地方移住の景色は、僕の、有り体に言えば、郷愁のようなものを刺激したのだ。
“まだ東京で消耗してるの?”、“シンプルに、ストレスフリーに暮らそう”、“シンプルな暮らし”“地方移住”。古民家をDIYしている人や、完全リモートワークで趣味を満喫している人も見かけた。40前でそろそろ身の振り方を考える時期だ。これを機に、妻の実家のある田舎でリモートワークをして暮らすのも悪くない。
……とはいえ、この暑さには閉口するな。
クーラーの効いたリビングを一歩出ると、木造の日本家屋にありがちな遮音性の低さ、そしてこの島特有の湿気が襲ってくる。
とはいえ、この家もタダ同然で貸してもらっているのだから文句は言えない。
移住するにあたって、生活費の高騰も決め手だった。家族3人が適度な距離を取って暮らすには、僕の給料で手の届く家は狭すぎる。出産を機に専業主婦になったミノリの収入は期待できない。
それに、ヨシキの後押しもあった。ミノリとヨシキは二人ともこの島の出身で、上京してからも連絡を取り合っていたとか。ヨシキも老後はこの島で暮らす、と言っていた。信頼する仲間の後押しがあってこそ、僕はこの島への移住を決めたのだ。
暑さを追い払うように手で払いながらも玄関を開くと、蝿が寄ってくる。そう、この島には虫も多いのだ。高温多湿の環境では育ちやすいようで、ぶんぶんとうるさく飛び回るのは悩みどころだ。
同時に、むわりとした熱い空気が骨の髄まで侵食してくるような気がして目を細めた。
「ケンジさん、まだ暑いのには慣れん?」
声をかけられて顔を上げると、そこには妻の幼馴染であるホマレさんが立っていた。
ホマレさんは妻より五歳年下で、シングルで八歳のマコトくんと五歳のジュリちゃんを育てている。村長の家の娘で多少なりとも裕福なのだろうか。その姿は、二児の母には見えなかった。
「あはは、言わんでもわかるわ」
こちらの言葉を待たずにそう続ける彼女の瞳は黒曜石のように真っ黒で、背中まで伸ばした髪も一度も染めたことなどないのだろうか、艶やかだった。彫りの深い顔立ちが僕の顔を覗き込むと、白いTシャツの隙間から豊かな谷間が覗く。
「はは……東京者なので。…」
慌ててミノリに目を向けると、数ヶ月切っていない髪の毛が目に入る。東京にいた頃は髪を染めていたからか、毛先がぱさついて傷んでいた。とはいえ、小動物のような可愛らしい顔立ちと僕が惚れた真っ黒な瞳は健在だ。彼女は僕が邪念を抱いたことなど知る由もなくミノリの手を引いていた。
「中に入ろうか。ホマレさんも、どうぞお茶でも」
「うちの人、また東京からお菓子取り寄せてん。食べてき」
「えー、嬉しいわー」
「ぱぱー、おえかきしたー」
「おお、イツキ。今日は何を描いてたんだ?」
二人がお喋りに興じていると手持ち無沙汰になったのか、三歳になる娘、イツキが画用紙を手に寄ってくる。玄関の扉を閉めればあの暑さも少しはマシで、ガラス窓から照りつける日差しとうだるような湿気に追い立てられるようにリビングを目指しながらイツキの顔を見る。
他の子供がいない環境は教育的にどうなのかと心配したが、日中は島の人たちに預かってもらい、年上の子にも遊んでもらっているからか言葉も発達も早い。最近はお絵描きにハマっているようで、二枚も画用紙を持っていた。
「こっちは、おまつり!こっちはー、しまがみさま!」
──そう言って差し出した絵の片方には極彩色の、なにかよくわからない形の大きな動物がいるのが──もう片方にはキャンプファイヤーのような情景が描かれていた。
「しまがみさま?何のことかパパに教えてくれるかな?」
「んーとねー、もうすぐはちがつなんだよ!はちがつになったら、しまがみさまのおまつりがあるの!おおばばさんが言ってた!」
大婆さん、とは恐らく村一番の年寄りだという黒木さんのお婆さんのことだろう。ホマレさんの曾祖母にあたる人だ。
娘より二つ年上のジュリちゃんは歳が近いためよく遊んでくれる。今度、東京から取り寄せたお菓子でも持って礼をしにいかないとな。SNSで見たチーズケーキなんかどうだろうか。
「そうか、楽しみだな。でも、本当は島神様なんていないんだぞ?フィクションと現実の区別はつけないとな」
私は娘の頭を撫でると、快適なリビングで私用SNSに娘の絵の写真を載せて文章を打ち込んだ。ヘーゼルナッツのように可愛らしい目の娘の顔も添えて。
“#初めてのお祭り #娘作 #パパも描いて😭 #成長に感激”
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