15
「どうしたの美濃ちゃん!?」
反田さんを遠くに避難させた国上が戻ってきて、そう叫んだ。
どうしたと言われても、私も自分自身でどうなっているかわからない。
今あるのは、ただ、後悔と哀しみだけだった。
「ご、ご主人様の話では、これで全て終わるはずだったんです……!」
なのに、そんな……と狸ちゃんは、困惑した様子で云った。
その表情は、強張っていた。
どうやら、相当に想定外なことが起きているらしい。
それは、狸ちゃんの狼狽振りから容易に察することができた。
「た、狸ちゃん、どうすればいいの!?このままじゃ美濃ちゃんが……」
本当に口裂け女になっちゃう!と国上は云った。
――は?
私が口裂け女になる?
この期に及んで、国上は、何を馬鹿なことを言っているのだ。
口裂け女なら今私が、私自身の手で倒したんじゃないか。
まあ正確には、私の手ではなく、狸ちゃんの毛で、だけど。
「ど、どうしましょう……と、とりあえず早くご主人様に伝えないと」
「た、狸ちゃん!ま、前!」
「え?」
そう云った刹那、狸ちゃんが後方にぶっ飛ばされて、勢いよくブロック塀に激突した。
「何やってるの美濃ちゃん!?」
国上は、困惑と恐怖が混ざったような複雑な顔で、再び叫んだ。
――狸ちゃんをぶん殴って吹き飛ばしたのは、どうやら、私のようだった。
今度は、正真正銘私の手で。
その手や、腕、脚など制服から見えている私の身体は、所々ではあるが、夜の闇の如く昏かった。
急いで頭上と尾骨の辺りを確認する。
やはり案の定、獣のような毛が生えた二つの耳と、白く細長い尻尾が光沢を持って輝いていた。
そして、指で口元をなぞるように確認する。
――その口は、大きく裂け、両の頬まで達していた。
あぁ……どうやら本当に私が化け物――口裂け女になってしまったようだった。
醜い心の私は、遂に身体までも、否、その存在自体が醜い化け物になってしまったのだ。
否、化け物ですらない――紛い物なのだ。
人間でも妖怪でも、ましてや、神様なんかでもない――紛い物。
「み、美濃ちゃん!本当に美濃ちゃんなんだよね!?」
国上は、狸ちゃんのもとに駆け寄り、介抱しながら云った。
私は、その光景を見て、いつかと同様に何故か不快になった。
また、その声は、恐怖からか震えていた。
私は、返事ができなかった。
だって、私は、もう美濃雨奈ではないのだ。
国上が好いてくれている美濃ちゃん――ではない。
「なんとか言ってよ!」
国上は、震える声で、再三叫んだ。
その顔は、さっきまでの困惑と恐怖というより、怒っているように私には見えた。
私は、そんな彼女の顔を見て、何故か凄く高揚した。
「だ、大丈夫です、国上お姉ちゃん……今ご主人様を呼びました……」
狸ちゃんは、絞り出すような声でそう云った。
頭からは、血が流れている。
あぁ……私は、とんでもないことをしてしまった。
ようやっと、自分がやったことの重大さを理解する私。
――でも、もう私は、人間には戻れないだろう。
こんな私は、人間に戻る資格なんてない。
「ああ、その通りだよ。雨奈」
背後から生暖かい風が吹くと同時に、女の人の声が聞こえた。
何だか懐かしい、聞き覚えのある声だった。
振り向くと、月光によって妖しく這い出ている私の影から、大人の女性――らしきものが、すぅーと浮かび上がってきていた。
それは、真っ赤なコートを身に纏い、顔の半分以上を覆いつくす程の白色のマスクを着けていた。
その背丈は、私より何センチも高くすらっとしていて、マスクをしていても美しく綺麗な――女性だとわかった。
「口裂け女……」
国上は、恐怖と絶望を顔全体で表現し、震える声で云った。
声だけでなく、身体も小刻みに震えていた。
私は、そんな彼女の顔と身体を見て、またも高揚した。
「さあ雨奈、これからは、永遠にずっと一緒だよ」
口裂け女は、私に向かって、懐かしく聞き覚えのある優しい声で云った。
そして、私の影の中にすぅーと入って、その闇の中に消えた。
「うっ……」
その刹那、頭が割れそうになるくらいの激しい痛みが襲ってきた。
「美濃ちゃん!今度はなに!?」
国上は、こちらに駆け寄る体勢をとりながら云った。
「駄目!来ないで国上ちゃん!」
私は、慌てて彼女に静止するよう云った。
頭痛で理性を保っていられない。
もう今にも別の何かに頭が支配されそうだった。
狸ちゃんに加えて、国上にも危害を及ぼすわけにはいかない。
そう国上には。国上だけには。
「美濃ちゃん、戻ってきて!」
そう云ったその顔は、やっぱり怒っていたし、目からは涙を流して泣いていた。
でも、今度は、そんな顔を見ても高揚しなかった。
「私、美濃ちゃんが何を願ったのか、本当は何となくわかってたの!……だって、私、美濃ちゃんの親友だよ……?」
「でも、美濃ちゃんは、私に何も言ってくれなかった。相談してくれなかった。私を頼って、助けを求めてくれなかった。だから、病院から電話がかかってきた時、凄く悔しかったし……凄く腹が立った」
一番の友達だと思ってたのは、私だけだったの?と国上は、涙声で鼻をすすりながら云った。
「美濃ちゃんは、私に向かって、他人に興味がないってよく言ってた。でも、それは、それだけ優しいからだよ。それだけ自分の人生を一生懸命に生きてるからだよ」
「だから、他人や世間なんてどうでもいいじゃん!自分自身で、自分自身のために生きようよ……あの美濃ちゃんが他人と比較なんてしないでよ」
それで……私と一緒に生きてよ、と国上は、呟くよう云った。
「美濃ちゃんは、ありのままでいてよ……変わらないんじゃなくて、変わらずいてよ。美濃ちゃんの良いところも悪いところも、自分で認めてあげてよ。だって……それが人間でしょ!」
そう、それが人間だ。
私は、自分の両腕を見た。
でも、私は、もう……。
「私が……私がいたのに……。私、美濃ちゃんと二人でやりたいことたくさんあった。行きたい所もたくさんあった。服を買いに行ったり、メイクし合ったり……。美濃ちゃんとまだまだたくさんお喋りしたかった。美濃ちゃんが勧めてくれた本の話もしたかった。もっとたくさん読んでみたいと思った。お婆ちゃんになっても一緒にいたいと思った。でも、なんで……」
死んじゃったら何もできないじゃん……と国上は云った。
私は、何とか理性を保って、言葉を返す。
返さないといけなかった。
「……く、国上ちゃんには、たくさん友達もいるし、私も所詮その中の一人に過ぎないと思ってた。何でもできて、可愛くて優しくて、みんなから好かれている国上ちゃんに引け目を感じていた。ずっと私なんか釣り合わないと思ってた。何で私なんかとって思ってた」
いつかどっかに行っちゃうって信じてた……と私は云った。
お互い初めて本音をぶつけ合っている気がした。
「そんなことないよ!私はそんなできた人間じゃない……。それに、美濃ちゃんは、私にとって……。だって、あの時美濃ちゃんは、私に……」
しかし、国上が云い終る前に、私の限界がきたようだった。
抑え込んでいたのものが、腹の底から逆流するように頭まで登ってきて、そして、私を支配した。
そんなものを願っては、人じゃなくなる。そんなものは、人間ではない。
……わかってる。
でも、それでも、それだからこそ、私は国上を……。
国上は、私の憧れだった。
美しく綺麗で可愛くて優しくて強い女の子。
そんな優しい国上ちゃんなら、いつもみたいに許してくれるよね。
「み、美濃ちゃん、大丈夫!?」
「国上お姉ちゃん、行っちゃ駄目です!」
さっきの私と、狸ちゃんの言葉を無視して駆け寄ってくる国上。
いつも心配してくれる国上。
いつも気づいてくれる国上。
いつも声をかけてくれる国上。
私だけを気にかけてほしい。
私だけを見てほしい。
――やっと自分の本当の気持ちがわかった気がした。
布仙さんや狸ちゃんばっかりずるいよ。
布仙さんや反田さんに限っていえば、どうせ私の精神世界の人間だよ。
そんな子達、わざわざ心配して、律儀に助けなくていいじゃん。
それに……それに……その子達は……。
――国上陽依は、私、美濃雨奈にとって、日陰――心の闇を照らしてくれる太陽の光のような存在。
――そして、私は、全てを思い出した。
私の封印していた記憶を、感情を、気持ちを。
あの駅で、何を願ったのかを。
あとは、国上が――否、国上だけが欲しい。
私は、走ってくる彼女に向かって、右手をかざした。
すると、国上は、意識を失った。
今の私は、何でもできる気がした。
頭で思い描いたこと全部。
お腹の底から力が溢れてくる感覚だった。
ある種の全能感を覚えていた。
倒れ込む国上を胸で優しく抱きかかえた。
もう彼女を一生離さない。
「国上ちゃん、これからは、永遠にずっと一緒だよ。二人っきりで永遠にずっと遊べるよ」
気絶して目を閉じている国上の顔に――目を閉じていても、美しく綺麗な顔に、私の顔を近づけながら云った。
そして、私は、胸ポケットから例の青色のヘアピンを抜き取り、それで前髪を留めた。
「み、美濃お姉ちゃん……そんなことしたって、国上お姉ちゃんは喜ばないよ……」
狸ちゃんが掠れた声で何か言ったようだったが、私にはもうどうでもよかった。
もう国上以外の言うことなんて聞きたくなかった。国上以外の声を聞きたくなかった。
私は、赤色の傘を右手に創造し、脚元に向かって、竜巻が起こるように念じた。
その強烈な風が私と国上を包み込む。
そして、その風によって空高く舞い上がると、傘をパラシュートのようにして宙を飛んだ。
左手で国上を抱きかかえながら、天空から夜の街を見渡した。
夜空に輝く月光に照らされて、美しく綺麗な幻想的な景色だった。
青い光を放つ月――ブルームーンを背景に、傘でふわふわと舞う私。
やっぱり、夜の闇は好きだ。余計なものを見えなくしてくれる。
「うーん。とはいっても、これからどこに行こうかなあ」
もちろん、私の家なんかには帰りたくないし、かといって学校も変だし。
公園――美薗白百合公園なんかどうかなあ……。
「あ、そうだ!駅だ、駅にしよう!」
あの駅で電車に乗るんだ。
そうして、ずっと先まで、いつまでもいつまでも国上と二人っきりで、どこまでもどこまでも一緒に――。
「いようね。国上ちゃ……陽依ちゃんっ!」
うふふふ。あははは。
嬉しいな。楽しいな。
妖怪ってやっぱり楽しい。やっと妖怪になれた。
否、私は、本来が妖怪で、今まで人間に化けていたんだ。
そう思うようにした。
そう思えるくらい、しっくりきていた。
今までの私は、私ではなかった。
今までの私は、その全てが嘘だった。
これが本当の私。
これが本当の心。
私の願いを叶えてくださり、ありがとうございます、神様。
否、ありがとう――お母さん。
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