無限の殺意

栗亀夏月

第1章 探偵と美女

・第一の殺人


1982年10月某都市。

我が事務所の誇る探偵。土田一慶がその仕事を引き受けたのは、探偵の威厳でも見栄でもない、単純に重なった偶然と、元上司に逆らったらまずいという恐怖心からだった。


俺は今食事をしている。珍しくいいレストランでだ。

目の前の肉をハイエナのごとく貪り食っているのが俺が今助手を務めている土田だ。

何日も風呂に入っていないのだろう、ボサボサの長い髪の毛と、ずっとクリーニングに出していないであろうボロボロのスーツを来ている。

「風谷くん。ぼーっとしてると肉が逃げるよ」

土田が俺を見て言う。彼の口の周りには肉のソースが着いている。

俺は周りの客の冷たい視線を全身に感じながら肉に食らいついた。

腹は空いていた。なぜなら、3日間張り込みが続いており、つい数時間前にターゲットの不倫の証拠を掴んだばかりだったのだ。


探偵土田の仕事は浮気調査、人探し、人間関係の調査、最近では迷い犬探しがメインだ。

俺。風谷俊吾は、その助手をしているがつい数年前までは新聞社に勤めていた。

ある事件について調べたくて探偵事務所の門を叩いたのだが、その事件については近づくどころか離れているような気がしていた。


食事もそろそろデザートにさしかかった折に、外からけたたましいサイレンが聞こえた。

「嫌だね。事件は、特に殺人なんて関わりたくないね」

土田がメロンをフォークで刺しながらいう。

「はい。そうですね」

適当に答えておいた。

土田はとても掴みどころのない人物だ。突然饒舌になったかと思えば、黙り込むし、興奮すると混乱したようになり、頭を毛をかき回したりする。

東北の生まれらしく色白の肌に均等の取れた顔はそこそこ男前なのだが、本人は恋愛には興味がないらしい。


さて、先程のサイレンだか鳴り止む気配がない、むしろパトカーの数が増えてるような気までした。

「ご馳走様でした。帰ろうか風谷くん」

「わかりました」

俺は荷物をまとめると会計を済ませた。

レジの前まで来ても土田は財布を出す様子がない。

とんでもない男だがこれが彼の正常である。

あとから事務所の経費にしようと思いここは俺が支払うことにした。



外に出るとパトカーが集まっているのは向かいの廃ビルだった。

俺は警察の数とその物々しさから重大な事件、おそらく殺人事件では無いかと検討をつけていた。

土田は野次馬精神で人波をかき分け、規制線の1番近くで覗き込んだ。

「あっ!お前は!」

しゃがれているが、人の雑踏音を全く敵としない大声が規制線の内側から響いた。

その声は、土田に向けられていた。

「おー。比々谷警部じゃないですか。お久しぶりです」

すると土田は、俺の方を向いて比々谷警部について説明をした。

「彼は、僕の刑事時代の先輩の一人で比々谷大志警部だ。生粋の江戸っ子でとにかくうるさい」

土田は本人に聞こえないように後半は小さな声で喋った。

近づいてくる警部は威厳に満ちていた。がっしりとした体型は柔道の有段者のようだ。

「どうした土田、探偵風情がさっそくこの事件の調査か」

警部に対して笑いながら土田が返答する。

「いやいや。僕は浮気調査や人探しの探偵ですよ。こんないかにも殺人が起こっていそうな事件は無関係です」

すると踵を返して事務所に向かおうとした。

「いや待てよ!見せてやるそこの助手くんにもだ」

警部は俺と土田の袖を掴むと規制線の内側に引きずりこんだ。

1部の人が見たらまるで逮捕、連行されているように見えるだろう。


半ば強制的に連れてこられた現場。

遺体はビルの2階の元事務所の社長室のような部屋の片隅にあった。

週一で見回りに来た警備員が見つけて通報したらしい。

俺の隣で土田はやる気の無さそうな顔をしていた。

「被害者は平子隆、25歳。現在は無職だ。死因は刺殺しかも正面から包丁のようなもので一突きだ。重要なポイントとして、被害者の傷の向きや位置から犯人は左利きと思われる。そして、1番の謎がこれだ」

そういうと、警部は現場を照らしているライトを壁に向けた。

そこには、数字の8を横に倒した。「∞」のマークが残されていたのだ。

壁一面に、おそらく黒のカラースプレーを使ったのだろう。

「無限、かな」

土田が呟いた。

「犯人と被害者はおそらく面識があった。そして犯人がこの無限マークを残した。これが現時点の警察の見解だ」

俺も土田もこの意見には概ね賛成だった。

というより、捜査のプロの警察が言うのだからまあ間違いはないだろうと考えた。

「どうだ。土田、何かひらめいたか?名探偵の脳みそを見せてくれよ」

やや上から目線で警部がいう。

すると、土田は急に夢から覚めたように目をパチクリさせると走り出した。

「あの、分からないです!」

「おい待て土田!助手お前も止めろ」

「は、はい!」

全力でビルの廊下を駆け抜ける土田。何人もの捜査官とぶつかりかけている。

「僕の脳は殺人を受け付けてません!」

土田の声は1階へと降りる階段でこだましていた。

「どうなっとるんだ土田は」

額の汗を拭いながら立ち止まる警部に「土田さんって昔からあんな感じだったんですか」と俺が尋ねる。

「まあな、推理するって言うより、情報を集めるのが得意な方だったからな。探偵を進めたのも俺ともう1人の上司だよ」

そういうと、走ったせいで汗を書いたのだろう。10月の夜にも関わらず警部はワイシャツ1枚になった。

「君も大変だと思うが頑張れよ」

警部が俺の肩を叩く。

「ところで名前を聞いてなかったな」

「はい、風谷俊吾って言います」

「そうか、また会うかもな。その時はよろしく」

「こちらこそ。今日は失礼しました」

俺はビルをあとにした。

この半ば強制的な事件との遭遇が、後にそれぞれの運命を大きく動かしていくことになるとは、この時俺は全く考えも及ばなかった。



・第二の殺人


「2日連続の豪華な食事なんて人生初かもしれないな」

俺の前には中華料理をハイエナのように貪り食う土田がいた。

今日の午前中に昨日の調査の報告に行ったところ、かなり報酬を上乗せしてくれたのだ。

おかげで俺と土田はいい夕食に2日連続でありつけている。

「俺、中華料理なんて初めてかもしれないです」

「そうか!僕もね実は名前なんて知らないんだ。というか読めない」

確かにこの店のメニューは中国語で書かれていた。

「 美味しければいいのさ」

口の周りに真っ赤なソースをつけて土田がいう。

俺はよく分からない貝の入った料理を食べた。


少しすると昨日と全く同じサイレンが聞こえてきた。

「おやおや、比々谷警部は僕たちのことをつけ回しているのかな」

笑えない冗談を言いながらも俺たちは会計を済ませた。もちろん俺がお支払いだ。

外を見ると昨日と同じ数のパトカー、そしてたくさんの捜査員、野次馬の姿があった。

向かいのビルは廃ビルではなく、洒落たバーなどが入っている建物だ。

「覗いてみるかい」

「昨日みたいになったらどうするんですか」

俺が土田の後ろ姿に問いかけたが、振り返り悪意を感じない少年のような笑顔を向けてきた。


人波をかき分け規制線の前にたどり着くと。

例によって怒号が飛んできた。

「あっ!お前は」

しかし、声の主は昨日とは違っていた。比々谷警部よりもすらっとしているが威厳に満ちた警察官が近づいて来た。

「彼は、僕の元上司の沖沼常三郎警部だ。岡山の山奥の出身らしくて、努力の人なんだが、ちょっと迷走することがあってね。特に女性が絡むと」

土田が俺の耳元で沖沼警部についての情報を提供してくれたが、かなり個人のプライバシーに踏み込んだものだった。

「土田じゃないか!犬探し探偵がなにしとる」

「沖沼警部。お久しぶりです。もしかして殺人ですか。それと、もしかして無限のマークがあるとか」

恐る恐るといった感じで土田が尋ねると、突然俺と土田は襟首を掴まれて規制線の内側に引きずり込まれた。


少しビルの中に入ると「なぜそれを知ってる」と厳しい口調で問い詰められた。

もごもごと上手く説明できない土田に変わり、俺が自己紹介と昨日の事件に無理やり関わらされた事を話した。

「はあ、あの比々谷がね。余計なことを」

沖沼の言い方には何かしら敵対心、ライバル心のようなものを感じた。

「ダメだよ風谷くん。沖沼警部の前で比々谷警部の名前を出しちゃ、2人は犬猿の仲なんだから」

土田がニコニコしながら言った。俺は、沖沼警部の顔を見たが、無言のうちにその事を肯定している表情だった。


例によって俺たちは、遺体の元へと連れていかれた。

遺体は3階のダンスステージのあるクラブのような場所の、裏側控え室の中にあった。

「被害者は牛山実。24歳。このクラブでアルバイトをしてたみたいだ。殺害方法は刺殺。包丁かナイフで一突きにされてる。犯人は昨日と同じで左利き、また面識もあったんだろう正面から刺されてる。そして、お前も言っていたこれだ」

そう言いながら警部は控え室の壁を指さした。

黒いカラースプレーで無限のマークが書かれている。

土田は興味深そうに周辺を歩き回ると質問を始めた。

「目撃者はいないんですか。昨日の廃ビルと違って人も多いですよね」

「今探してるんだか、誰も名乗り出ない。おそらくステージでショーがあった時間と殺害時間が被ってる可能性がある」

そうか、時間が被っていればとりあえず3階の人通りは少なく目撃者もいない可能性があるのか。俺は少し納得した。

「次に、同一犯で間違いないですか」

「多分な、手口も同じ、残されたマークも同じとなれば、答えはひとつだ」

「連続殺人ってことですね」

土田の言葉にはすごみがあった。この大都市で連続殺人。これまでの依頼にそんな恐ろしい事件はなかった。

「平子と牛山の接点は見つかってますか」

「今調査を始めたところだ。皆目見当もつかん。にしても、土田ちょっと興味が湧いてきたんじゃないか」

すると、土田の顔はなんとも憎めないいつもの顔に戻った。

「はっは!警部、僕はただの探偵ですよ。依頼されなきゃ動きません」

そういうと土田は敬礼のポーズをとった。

「では、失礼しました!」

もしや、この男走るんじゃないか。

俺がそう予想した頃にはもう手遅れだった。

廊下を走り、全力で階段を下る土田の後ろ姿があった。

「風谷くん。大変だな」

「はい。いつものことです。失礼しました」

俺は土田のあとを追いかけた。



・目撃者のダンサー


私は、ダンサーをしている。しかし、今日はステージの途中で足首を捻ってしまい。仕方なく、ステージ裏の控え室に戻ろうと廊下を歩いていた。

すると何やら男性ふたりが言い争う声が聞こえた。

私は、突然の出来後に少し恐怖した。

しかし、舞台衣装のままじゃ寒いし足首の負担を軽減するためにもダンスシューズも脱ぎたかった。

「クソっ!やめろ」

という男の叫びが聞こえた。その後、小さな悲鳴にも似た断末魔が聞こえた。

私は膝がの震えが止まらなかった。

ただでさえ、足首が痛くて庇っているのに、今にも倒れそうになるのを堪えながら控え室に近づいた。

「あの、誰かいるですか」

消えそうな声で私が控え室の扉を開けたその瞬間だった。

「キャッ!」

大男が私にぶつかった。思わず声をあげてしまった。

その時男の顔を見てしまった。私は殺されるんじゃないかという恐怖からその場な膝から崩れ落ちた。

幸い男は私には目もくれず廊下を走っていった。

その手には血の着いたナイフか包丁のような物が握られていた。


私は震える足を無理やり立ち上がらせると、控え室を開けた。

そこには、血まみれで倒れている男性の死体があった。

私の頭は驚きと恐怖の間で嵐の森のように揺れた。

声も出せず、荷物だけ持つと控え室を飛び出し。裏口から外へ出た。

ステージ衣装の上からコートを着ると、忘れていた足首の痛みが思い出されて、思わずそこにしゃがみ混んでしまった。


それからどれくらい時間が経ってしまっただろう。たくさんのパトカーのサイレン。せわしなく走るたくさんの捜査員。

私は出て行って、犯人を見たという勇気を無くしかけていた。

もしかして、顔を見られたことが危険と考えて私を殺しに来るかもしれない。

そう思うと私の脳裏にへばりついているあの男の顔がますます鮮明に思い出されて、その度に頭を抱えた。


「お嬢さん。大丈夫ですか」

突然目の前に現れたのはボロボロのスーツを着て、色白の肌で、髪を伸ばした男性だった。

歳は30と少しくらいだろうか。警察の人かもしれないと思ったが、警察とは違う独特な雰囲気を持っていた。

「ええ、気にしないで下さい」

こんなところにいたら怪しまれるに決まっている。立ち上がり下宿に帰ろうとした。

しかし、膝に力が入らずこの男性の腕につかまってしまった。

「おや。大丈夫じゃ無さそうですね。そろそろ助手が来ると思うんで、それまで待ちましょう」

男性は私を座らせると、近くでビルの入口の方を伺っていた。

その様子はなんとも落ち着きがなく、それが逆に安心感を与えた。

「お名前はなんと言うのですか」

私は緊張がほぐれて、喉が開くようになってきたため質問した。

「僕は、土田一慶と言います。探偵をしてまして、これから来るのは助手の風谷俊吾くんです」

スラスラと説明すると、また落ち着いなく辺りを見回した。

「私は、杉森美香子と言います。そこのビルの三階でダンサーをしてます」

私はこの人になら名乗っても大丈夫だろうという、不思議な確信からそう言うに至った。

「はあ、ダンサーの方でしたか。道理でお綺麗な訳だ」

しかし、私はダンサーであるということを伝えたことを少し後悔した。土田の目が変わったのだ。まるで獲物を見つけた鷹のごとく鋭い目になったのだ。

「でも、どうしてこんなところにいらっしゃるんですか。ビルの中は大変なことになってましたよ」

「それは…」私は少し考えた後、「ステージ中に足首を痛めてしまいまして、早退したんです」

「にしても、杉森さん。何かに怯えてるようでしたけど」

彼の質問はだんだん警察のように厳しくなってきた。

私は見たことを全て白状しようか迷っていた。

「土田さん。こんなところに、探しましたよ」

神の助けとでも言うだろうか、おそらく助手の風谷俊吾が現れた。

20代後半くらいで、爽やかな顔立ちだった。大きな劇団に所属している役者のような雰囲気をまとっていた。

「そこの女性はどうしたんですか」

「ああ、足首を痛めてしまったらしいんだタクシーでも止めてくれ」

土田の言葉で風谷は大通りへと歩いて行った。

「杉森さん。少し歩けますか」

「ええ、少しなら」

私は、コートのフードを被って大通りに歩いた。


タクシーと風谷が大通りで待っており、私は土田にお礼を言うとタクシーに乗り込もうとした。

すると、土田が私の手の中に名刺らしきものをねじ込んできた。

私は驚き声を出しそうになったが、土田が自分の口元に指を当てて静かにするようなポーズをとったため、静かにした。

「杉森さん、もし良かったら明日事務所に来て下さい。お話伺いますよ」

私の耳元で土田がささやく。

私は、呆然としてしまい何か答えたのか、それもと無言だったのかそれすらも忘れてしまった。

気がつくと下宿の近くの道で下車していた。



・風谷考察する


俺はあの瞬間をどう言い現せば良いか分からなかった。

土田と裏路地にいた女性。あとから名前を知ったが、杉森美香子と言うらしい。

彼女を見た瞬間、まるで女神が空から舞い降りたのだと思った。

それほどに美しいのだ。

土田はたんたんとエスコートし、名刺まで渡していたが、俺なら自分の身なりや髪型が気になって仕方なかっただろう。

彼女はダンサーらしいが、スラッとしている体型に、鼻は高く、顔の均等がとれておりまさに美人だった。

初めて宝石を見た時の心のざわめきにも似た不思議な感覚を感じていた。


タクシーで彼女が走り去るとすぐさま土田に彼女について尋ねた。

名前、ダンサーであることなど。ごく僅かな情報を得たあとこう質問した。

「なぜ、名刺を渡したんですか」

「僕の勘なんだけどね。彼女、事件について何か知っているような気がしたから、一応渡しただけだよ。それに、ダンサー仲間が結婚する時に婚約者の身辺調査を依頼してくれるかもしれないしね。まあ、帰ろうか」

飄々と事務所の利益のためと語った土田だったが、俺は推理を巡らせた。

ステージの途中で足首を痛めたなら、控え室に帰るのではないか、そして犯人を目撃したのではないか。

そうだとすれば、俺たちは警察よりも先に重要な人物に接触できたことになる。

名刺を渡した土田の判断は結果として良かったのかもしれないと思った。

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