鳥籠少女は羽根を得る

早川隣

鳥籠少女は羽根を得る

 塔での幽閉生活は、安全で平穏だけれど退屈だ。

 決まった時間に運ばれてくる食事。リクエストすればしただけ届く本。

 私は日々、必要最低限の栄養素を摂取し、莫大な時間を読書に費やしている。


 ここは、王家の傍流であるヴァレンティノ家の有する屋敷の片隅にある高い塔。

 話を聞くに、中にいる者の魔力を吸い取る呪いがかかっているらしい。

 魔力とは、生命力だ。

 生命力を吸い取る呪いのおかげで、身を起こすのも億劫だ。


 せめて左足の足輪と鎖を外してくれないか、と思う。

 どうせ、どこにも逃げられやしないのだから。


 そんなことを思いながら、私は今日も本のページをめくる。


 私はヴァレンティノ家の長女、リラ。

 どうしてこんなところにいるかといえば。

 私の魔力が、世界を揺るがすほどに大きいから、らしい。


 実感は正直なところ、あまりない。

 その説明を受けたのは物心つくよりずっと前だったから。

 けれど、きっとその説明は正しいのだろうと私は感じている。


 食事を運んでくる使用人の怯えた声とか、一度も顔を見せにこない家族とか。

 そんなことから察するに、私はいわゆる忌み子の類らしい。


「嗚呼、外って一体……」


 私は椅子がわりにしていたベッドから立って、窓の前に立つ。


 目の前には抜けるような青空。

 豆のように小さく見える家々を見下ろし、小さく息を吐いた。


 ここは概算三十階を超すほどに高い塔だ。

 窓を開けることは、できる。

 また、幸運なことに身を投げ出すこともできるほど大きな窓だ。


 けれど、その高さゆえ、飛び降りるような真似をすれば無事で済まないだろう。

 まあ、そもそも足輪のせいで飛び降りても宙吊りになるだけだけれど。


「外とは一体、どんなところなんだろう」


 窓を開けた。ふわりと春の風が舞い込む。

 手入れのされていない長い髪が、風に煽られて揺れる。

 心地がいい。心が洗われるような気分になる。


 けれども、それだけ。


 ふと眼下に視線をやれば、春風に乗って鳥が羽ばたいていく。


 この風も、私の塔の外へは連れて行ってくれないのだ。

 昨日も、今日も、明日も。

 もう十八年もこんな生活をしているのに、それを認識するだけで妙に悲しくなる。


 どうしてだろう。

 どうしてそんな、わかりきったことが、悲しいのだろう。

 ああ、今日の思索のテーマはそれにしよう──。


 そんなことを考えていた、その時のことだった。


 こんこん、と。

 部屋のドアがノックされた。

 食事の時間にはまだ早い。何者だろうか。


「……どなた?」


 問い掛ければ、知らない声が聞こえた。久々に聞く、男の声だった。


「魔術院の者だ」

「魔術院?」


 私は首を傾げた。

 魔術院は確か、魔術師の総本山だったはずだ。

 所属しているのは一騎当千のエリート魔術師ばかり。

 そんな高尚な機関が一体私になんの用だろう。


「私たちはあなたの父君に乞われて召集された」

「……お父様に?」

「ああ。只今より、あなたの魔力の出力を制限するための処置を施す」


 私は驚いた。

 突然の出来事だったから、というのもあるけれど、それ以上に。今更お父様が私に興味を持っているとは思わなかったからだ。


 第一、魔力の出力を制限する方法があるならわざわざこんな塔に幽閉なんかする必要ないはずなのに。


「失礼する」


 面食らって固まってしまった私の返事を待たず、彼らは私の部屋のドアを開けた。

 仰々しいローブを身につけた男が数人入ってくる。

 彼らは私を取り囲み、突然奇妙な呪文のようなものを唱え始めた。

 最初にドアをノックした男は仰々しい素振りでローブの中からなにかを取り出す。

 それはどうやら、革製の短いベルト──チョーカーのようだった。

 抵抗する間もなく、それは私の首にはめられる。


 男たちの呪文が途切れた、次の瞬間。

 ぎゅう、と。

 なにかが縛られるのを感じた。

 首が、じゃない。

 もっと魂の内側にあるものが、ぎちりと締め付けられるような息苦しさを感じる。


「これにてあなたの魔力は封じられました。多少は漏れるかもしれませんが、その量は一般人程度に規制されているはずです」

「こんなことをわざわざするなんて……なにが目的なの?」

「なに。たった一晩、私たちに協力してくださればいいのですよ」

「……一体なにをしろっていうの?」

「妹君の代理人になっていただきたいのです。無論、一夜限りですよ」

「妹……? マリアベルのこと?」

「ええ。あなたは確か、彼女に会ったことがなかったはず」

「そうね。……知っているのは名前だけ」


 ふたつ年下の、私の妹。

 私の存在は秘匿されているから、表では実質彼女がヴァレンティノ家の一人娘ということになっているはずだ。


「あなたは、マリアベル様によく似ている。……そんなあなたにしか、できない仕事があるのですよ」

「…………内容を伺っても?」

「マリアベル様は、本日王都にて開催される舞踏会へ参加される予定でした。その場でひとつ、大きな発表があります。……それは、マリアベル様が現皇太子であるヨハネ殿下の婚約者として見初められたというものです」


 私は思わず、口をぽかんと開けて静止してしまった。

 言葉を失う、というやつだ。

 妹が皇太子の婚約者として認められた、なんて初めて聞いた。

 ヴァレンティノ家はほとんど家族の情報を寄越さないから当然と言えば当然だけれど。


「……それで、私にしかできないこと、って?」

「あなたには、マリアベル様の代わりに舞踏会へ出ていただきます」

「…………えっ?」

「マリアベル様は現在──人目のある場所に出たくないと仰っています」

「なにか、あったの?」

「何者かから魔術攻撃を受けたのですよ。それも火属性の魔術を、顔に……」

「はぁ……? 護衛はなにをしていたのよ、ケロイドが残ったらどうする気!?」

「護衛は三名おりましたが……皆、再起不能なほどの大火傷を負っています。その上、覚えているのは、術者が燃えるような緑色の目をしていたということだけ、と。……そして、まさに今、マリアベル様は火傷の痕を気にしていらっしゃいます」


 王家の婚約者の選定理由はいくつかある。

 家柄、富、政治的な動き──大抵はそんなところだけれど。

 当然と言うべきか。容貌の美しさも選定理由に入ってくる。


 これは王家の都合というよりは、婚約者側の都合によるものだ。

 皇太子の隣にいるのは、醜女より美女がいい。世間は、そう言う。


 世間を納得させるために、多少頭が悪くとも美しい者が選ばれる。

 相応の美しさがなければ「不釣り合いだ」と叩かれ、風当たりは強くなるだろう。

 今日は婚約者としてのお披露目の会、だったか。

 そんな大切な時に、顔に火傷なんて、なにを言われるかわかったもんじゃない。


「理解はしていただけましたね?」

「……ええ。お披露目の時だけでも替え玉を使って誤魔化そうと。そういうことでしょう」

「ええ、その通り。そのために我々はわざわざ魔術院からやってきたわけですから、相応の働きをしてくださいね。ああ、これはあなたのお父様からの伝言です」


 こんな時ですら、伝言で済ませるのか。

 それは私だけじゃなくて、マリアベルへの侮辱だろう。

 ……思った以上に、ヴァレンティノ家は腐り切っているのかもしれない。


「あなたに拒否権はありません。一連の流れやマナーを叩き込むためにメイド長がお待ちですよ。さあ、こちらへ」


 柔らかながらも圧の強い言葉に押されて、私はドアの外へ足を踏み出した。


     ***


 そこから先は目の回るような忙しさだった。

 舞踏会の流れやマナー、ダンス、婚約者としての行動やコメントを叩き込まれ。

 ドレスのフィッティングで着せ替え人形にされ、数時間がかりで外見を整えられる。

 今まで経験したことがない忙しさに目を回しそうだった。


 皇太子の婚約者──将来の王妃ともなれば、これを毎日のように強いられるのだろう。

 大変だ、我が妹は。

 まともに話したこともない妹に、やや同情する。

 今日一日なら、と思えば耐えられるけれど、毎日これは正直ごめんだ。

 ようやく満足したらしき服飾担当者は私を護衛然とした騎士へと引き渡す。


「お疲れかと思いますが、舞踏会の時刻が迫っています。このまま馬車へ」

「……ええ。参りましょう」


 やや演技ぶった口調で答えれば、騎士は「それでいい」とでも言わんばかりに頷く。

 踵の高い靴に慣れない私は騎士に手を引かれるまま馬車へ乗り込んだ。

 ぱしんと馬に鞭を振るう音が聞こえ、馬車は走り出す。まだ見ぬ場所へと。


 ──本当に大丈夫かな、これ。


 首に付けられたままの革のチョーカーをなぞりつつ、思う。

 まともに外界へ出たことのない私にもわかる。


 この計画は杜撰だ。

 私はたった数時間、貴族としての指導を受けただけの箱入り娘だ。

 そんな人間を社交界に出すリスクを軽く見積りすぎている。

 ふとした瞬間にボロが出て、そこにいる女性がマリアベルでないことがばれたらどうする気だったのだろう。


 ……いいや、違う。


 本当に最悪なのは、「未来の王妃はこんなにも世間知らずな馬鹿娘なのか」と思われることだ。

 愚かな皇太子の婚約者を見て、大衆はどう思うだろうか。

 少なからず、反感を抱くのではなかろうか。

 その反感は、いつか革命を起こすかもしれない。


 実際に革命が起きた例を、私はたくさん知っている。

 読んできた本の中に、実例が両手では数えきれないほどにある。

 歴史書でなく、物語も含めればそれはもう、星の数ほど。


 ──やはりヴァレンティノ家は腐り切っている、のだろうか?


 私は再度、そう思う。

 そもそも、今更魔力を封印した私をこんな風に使うくらいなら、最初からあんな塔に閉じ込めるべきじゃなかった。

 とっととこの首輪をつけて、マリアベルと同じだけの教育を施すべきだった。

 表に出すかはともかくとして、いつでも影武者として動けるだけの存在に仕立て上げるべきだったのだ。


「はぁ……」


 一体、なにがどうしてこうなったのか。

 馬車の窓に肘をつき、外をぼんやりと見つめる。

 夜の暗闇を写した窓は、見事にめかし込んだ私の顔を反射した。


 ……ふと、思う。


 これは本当にヴァレンティノ家の想定した出来事だったのか?

 ただ見通しが甘いだけ、といわれたらそうかもしれない。


 けれど、もしも。


 私を替え玉として使う、という手段が本当にヴァレンティノ家にとって苦渋の決断だったとしたら?


「……ねえ、護衛さん。質問をしても?」


 護衛として隣にいる騎士に問い掛ける。


「いかがされましたか?」

「先日の事件のこと、詳しく聞きたいのだけれど」


 騎士が、息をのむ音がした。

 彼の方を見れば、顔が青い。表情もどことなく険しいように思える。


「話せないようなら、無理に聞こうとはしないけれど」


 慌ててそう言い添えれば、彼は「いいえ」と首を振り、語り始める。


「……あれはまさに、青天の霹靂でした」


 彼曰く。


 その時マリアベルはサロンで行われる茶会に出席するために屋敷の中を移動中だったらしい。

 王家との縁談が既に決まっていたこともあり、ヴァレンティノ邸の中であってもマリアベルは必ず三人の護衛を伴って行動していた。


 さらに、ヴァレンティノ邸には元々かなり高度な結界が張られていたらしい。

 なんでも、お抱え魔術師作のまじない札を持っていないとたちまち生命力を奪われるのだとか。


 そんな中で、例の襲撃事件が発生したのだ。

 マリアベルの歩く廊下の先に突如人型の影が現れた、らしい。

 当然不審に思った護衛は彼女を守るべく、庇うように影と彼女の間に立った。

 しかしその影はそれを気にする様子もなく、ぎらりと目を光らせた。


 まるで炎の如き、緑の目。

 その緑眼の影は怪しげな呪文を呟くと、緑色の炎を放った。

 その炎は護衛を火だるまにした後、マリアベルへと襲いかかる。


 ──マリアベルが、殺される。


 炎に全身を焼かれながらも、護衛たちはそう考えた。

 そうして彼女を守るために動こうとしたらしい。


 けれど──緑色の炎は、マリアベルを前にした途端、小さく萎んだ。


 成人男性の拳ほどの大きさに縮んだ炎はマリアベルの頬を焼き、決して小さくない火傷跡を残して消えた。


 護衛たちを覆った炎も徐々に小さくなり、その場には人体の焦げる匂いだけが残る。

 当然人型の影があった場所にはなにもいない。


 ……事件はこうして起こり、現在の私の状況へ繋がっているようだ。

 私は指を口元にやり、考える。


 ──やはりこれは、おかしい。


 話を聞く分には、ヴァレンタイン邸の警備は万全だったはずだ。

 傍流とはいえ王家の血が流れた一族、そのお抱え魔術師が張った結界がそう簡単に破られるとは思えない。


 ──「苦渋の決断」の方だったのね、きっと。


 私はひとり、納得する。

 そして同時に、次の疑問が浮かび上がった。


 ──だとしたら……襲撃者は誰?


 ヴァレンティノ家をよく思わない輩がいる、ということだろうか。

 例えば、自分の娘を皇太子の婚約者にしたかった貴族が犯人だと考えればその暴挙にも説明がつく。


 しかし、その場合マリアベルを生かしておく意味がわからない。

 彼女を殺してしまえば自動的に次の婚約者を探さなければならなくなるし、王家にアピールする隙も生まれる。

 聞いた限り、襲撃者はマリアベルに対してだけ明らかな手加減をしていた。

 だとすれば、そこにある感情は「生死を問わない」ではなく「死んでもらっては困る」だ。

 襲撃者にとっては、マリアベルに死なない程度の怪我をしてもらう必要があった。


 ──一体、どういうこと?


 私は深々とした溜息をひとつこぼし、首にぴったりと巻き付いたチョーカーをなぞった。


     ***


 思いの外、ことは順調に進んだ。

 昼間のうちに叩き込まれた令嬢らしい仕草をフル活用し、会話の大半をお付きの騎士に任せ、程々に皆様と交流したあと控室に戻る。

 あとは皇太子殿下と共にホールに戻って婚約の口上を読み上げれば私の任務はおしまい。


 ……と、気を緩ませかけた、その時だった。


 ホールから出て、控室へ向かう廊下。

 薄暗いその道の奥に、人影が見えた。

 上等なスーツに、魔術師らしいローブと帽子を身につけた男性だった。


「ねぇ、」


 護衛に声をかける、その瞬間。

 私はひゅ、と息を呑む。


 護衛の騎士は、固まっていた。

 金縛りか、と思ったがどうやらそうでもないらしい。


 私は咄嗟に顔を上げ、廊下に佇む人影を見た。

 丁度同じタイミングで、彼もこちらに目を向けたらしい。

 燃えるような緑の目が、爛々とした光を湛えて私を見ていた。


「この状況下でも動けるところを見るに……やはり君は『偽物』のマリアベルのようだな?」


 低く、地を這うような声が私の鼓膜を震わせる。

 それなりに距離を取っているはずなのに、なぜかその声は耳元で囁くかのようにはっきり聞こえた。


「な……なにを言っていらっしゃるの? 私はマリアベル・ヴァレンティノ、ヴァレンティノ家の一人娘です……!」

「さて……今の状況がわかって言っているのかな?」

「今の、状況……?」


 私は周囲の様子を確認する。

 ……とは言っても、人気のない廊下でわかることはそう多くない。

 わかるのは隣の騎士がまるで時が止まったかのように固まっていることだけ。


 ──時が止まったかのように?


 私は固まっている騎士の手を取る。

 手首に指を当ててみても、脈動を感じない。

 しかしその体温は温かく、瞳孔が開いている様子もなかった。

 死んでいるわけではなさそうだ。


「時を……止めたの……?」

「ああ」

「そんな、魔法じゃあるまいし。そんなこと、できるわけが──!」


 男は笑みを噛み殺したような表情で帽子を脱いだ。

 銀色の長い髪が、帽子の中からさらりとこぼれ落ちる。


「初対面だというのに、自己紹介が遅れたな。俺は『魔法使い』。名をシルバー・バレット」

「魔法……使い……?」


 私は驚愕した。

 この世界に魔術師はごまんといる。

 魔術師になるための養成学校もあるし、基礎教養の一環として魔術を掲げている国もあるほどだ。


 しかし、「魔法使い」となると話は変わってくる。


 魔術の基礎知識として、こんなものがある。

 ──魔術は、遙かなる上位存在である魔法使いの起こす奇跡を、人の手で複製したものである。

 ──つまり魔法使いは全ての魔術師の祖であるといえる。

 ──けれど、魔法使いが歴史に名を残したことはない。強大な力を持っているはずなのに、だ。

 ──故に、幻の存在なのではないかという学説が優勢だ。


 私は魔法も魔法使いも信じていなかった。

 奇跡を人が崇めた結果、偶像として現れた存在こそが「魔法使い」なのだと考えていた。


 しかし、目の前の人物は「自分は魔法使いだ」とのたまった。


「これは、魔法だ。時を止めることくらい、魔法使いにとっては赤子の手をひねるようなものなのだよ」


 ふ、と妖しい笑みを浮かべて、男は続ける。


「ヴァレンティノ家の長姉・リラ。お目にかかれて光栄だ。俺は君に会いにきた」

「……! もしかして、あなたがマリアベルを……!?」


 マリアベルが怪我をすれば、代役として私を出さざるを得ない。

 そうなれば引っ張り出された舞踏会で、私を見定めることができる。

 そんな意図で妹が傷つけられたのだとしたらあまりにもマリアベルが可哀想だ。

 きっと、誰よりもこの舞踏会を楽しみにしていたでしょうに。


「ああ。けれど安心してほしい。あの炎の影響は十日もすればなくなる。最後に遅効性の治癒魔法をかけておいたからな。マリアベルの顔も、護衛共の全身も元通りだ」

「なぜ、そんなことまでして私に……?」

「当然だろう、君には魔法使いの素質がある」

「な……そんな、こと、」

「災害レベルの魔力量は魔法使いの基礎。君はそれを持っている」


 薄く笑って、男はこちらへ歩いてくる。

 時間は止まっているはずなのに、かつんかつんと、靴が床を叩く音がいやに響いた。

 彼は私の前に立ち止まると片手をこちらに差し伸べる。


「なに、ヴァレンティノ家が忌み子を監禁してると小耳に挟んでね。どんなものか見てみたかった」


 白い手袋をした指が、私の頬を撫でた。

 思わず後退りをすれば、帽子を持ったままの手で抱き止められる。

 ぐ、と引き寄せられれた。

 鼻先が触れ合いそうなほど近くに彼の顔がある。

 美しい人だ、と思った。

 まるで彫刻のような、陰影のある顔立ち。

 髪と同じ銀色の睫毛に縁取られた目は緑色にキラキラと光り、私の目を見つめている。


「……思った以上に。素質がありそうだね?」


 にこ、と男は笑う。


「俺は弟子を探しているんだ、魔法を後世に伝えるためにね」

「……私に、弟子になれって言うの?」

「うん。まあ、無理にとは言わないけどね。……ただ、あんな狭い世界に閉じ込められるなんて、つまらない人生だと思わない?」

「………………」

「……そうだな。今日はひとつだけ、魔法を教えてあげよう。きっと君には必要なものだ」


 そう言って彼は、私の額に自らの額で触れる。

 その瞬間、頭の中に膨大な量の知識が流れ込んできた。

 まるで波のように蠢くそれは私の心の奥にある扉をこじ開け、その中に収まった。


「まあ、簡単な呪文だがね。この魔法が必要になったら、唱えて。この言葉がきっと君を救うだろう」


 そう言ってから、彼は私の耳元で「その言葉」を呟いた。


「……じゃあ、君の妹の怪我が治った頃にでも迎えに行くよ。その時に返事を聞かせてくれ」


 シルバーはそう言って、パチンと指を鳴らす。

 その瞬間に彼の姿は煙のように消えてしまう。

 その数秒後、隣に立っていた騎士がびくりと肩を動かしたのがわかった。


「大丈夫ですか、マリアベル様! 一瞬妙な感覚がいたしました、魔術攻撃の類かもしれません、すぐに控室へ……!」

「え、ええ。でも、きっと大丈夫」


 彼──シルバー・バレットが本当に私との接触だけを目的にしていたのなら、これ以上なにも起きないはずだ。

 私は控え室に戻り、化粧を直されつつ昼間教えられたことを何度も反芻する。

 その後の婚約の発表も、付け焼き刃にしては上手くこなせた。

 これで、あの男が言った通りマリアベルが回復すれば問題はないだろう。


 ──本当に大丈夫だろうか。


 奥歯を噛み締めているうちに私は塔へ送還され、変わらぬ日々に押し込められることとなった。


     ***


 それから十日ほど、私は気が気じゃなかった。

 あの日自称魔法使いが言ったことが本当なのかわからなかったからだ。

 運ばれてくる食事を受け取る際に、使用人に聞いてみた。


「マリアベルは大丈夫?」

「……申し上げられません」

「それは上から口止めされてるの? それとも芳しくないからなにも言えないの?」

「…………」

「いいの? 沈黙は、私に都合のいいように解釈するけど」


 自分で思ったよりずっと低い声になってしまった。

 ひ、と使用人が息をのむのが聞こえる。


「……も、申し上げます。マリアベル様のお怪我は快方に向かっています。もうほとんどかさぶた程度で……」

「ああ、そうなの?」

「ええ、当初は一生傷が残ることを覚悟するほどの怪我でしたが……」


 どうやらあの自称魔法使いの言うことは間違っていないらしい。

 あの男の言うことをある程度信用するならば──本当に迎えに来るんだろうか。

 夕食を摂って、皿を下げさせて、本を開きつつ窓の外を見る。


 私の足首には変わらず、枷と鎖が嵌め込まれていた。

 これ以上魔力を吸うといくら私が化け物だからといって死んでしまいかねない、とチョーカーが外されたのはありがたかったけれど……マリアベルの変わり身になるためとはいえ自由の味を知るとどうも窮屈に感じる。


「……さっさと迎えに来なさいよ」


 虚空に言葉を放った、その時だった。


「呼んだかい」


 あの日聞いた声が、窓の外から聞こえる。

 私は弾かれたように本から視線をあげ、窓に駆け寄った。

 そこには、夜空を背にシルバー・バレットが立っている。


 ……立っている? ここは三十階相当の高い塔だけれど……。


 その疑問は、彼を注視すればすぐに解消された。

 彼の背中から、黒いコウモリのような羽根が生えているのだ。

 それがばさばさとはためいて、彼の体を宙にとどめている。


「俺を呼んだということは、覚悟は決まったということでよろしいかな?」

「……!」


 さまざまな思いが私の中を駆け巡った。

 この塔は、外界から隔絶されている代わりに安全と平穏を補償されている。


 ──けれど。


 私はそれに、いい加減飽きているのだ。退屈なのだ。

 他人の都合で意思を無視されて、好き勝手に利用されるのもごめんだ。

 だから、私は。


 ──彼の言葉に、一縷の希望を抱いたんだ……!


「────ええ。待ってた、シルバー・バレット」

「そうかい。……ならば、唱えたまえ。あの呪文を」


 余裕の笑みを浮かべたまま、シルバーは言葉を続ける。


「君の翼は、どんな形をしているかな?」


 すう、と息を吸い込む。

 唱えるのだ、あの呪文を。


「──『私の翼は、縛られない』」


 その言葉を発した、刹那。

 自分の足を戒める枷が、ピシリと高い音を立ててひび割れた。


 私を中心に風が巻き起こる。

 その風に純白の羽が舞い、私の背中が熱くなる。

 じりじりと背中に新たな器官が生成されているのを感じて、私は思わず苦しげな息を吐く。

 私の背中ではためくそれは、私の世界の全てだった部屋いっぱいに広がった。

 私は振り返って自らの背から生えたそれを見る。


 そこにあるのは、純白の羽。

 まるで天使のようなそれは、私の呼吸に合わせてゆっくりと上下する。


「嗚呼──素晴らしい。素質があるとは思ったが、これほどとは」


 シルバーが笑みをより濃くして拍手をした。


「さあ、おいで。純白の翼を持つ我が弟子。未来の魔法使いよ、その手と翼で自由を掴みなさい」


 手が、差し伸べられる。

 背中に意識をやれば、不格好ながら翼はばさばさと動いた。


 私はベッドに本を置いて、ゆっくりと窓へ近付く。

 窓ガラスにそっと触れれば、たちどころにひびが入って砕け散った。

 壊れかけていた足枷もそっと取り外せば、私の身は自由になる。


 大きな羽根をできるだけ縮こまらせて、私は窓をくぐった。

 あまりにも強い風に髪が煽られ、宙に揺れる。


「さあ」


 なおも急かすように、シルバーは言う。

 私は、こくりと頷き──窓枠から飛び降りる。

 当然のことながら、私の体は重力に従って落下していく。


 しかし──それもやがて、止まる。

 背中の翼を動かしたことで、不格好ながら重力に抗うことができたのだ。


「お見事」


 必死で宙に留まっている私の手を、シルバーが握る。それだけで少し飛行がしやすくなったような気がした。


「では行こうか、まずは世界を見よう」

「……ええ」


 私は頷き、シルバーの手を握り返す。

 夜空に瞬く星々の下、私たちは塔を離れた。


 ──私がずっと欲していたものが、きっとこれから見つかるんだろう。

 ──自由、というものが。


 私はそんなことを思いながら、空を駆けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鳥籠少女は羽根を得る 早川隣 @Tonarishobo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ