酔剣

たいやきまん

第一話 酔剣

 酔っている。泥酔といってよい。


 日暮兵庫ひぐらしひょうごは松本藩の政庁でも、借りてきた猫のようにおとなしい人物として知られている。いや、知られていると言いうよりも、政庁の誰もがその存在に気づかない位におとなしい人物だと言った方が的を射ている。


 ところがこうした人種というのは揃って酒を呑んで酔うと虎になる。日暮もわずかな酒量で酔うことができ、虎になってからが長かった。


 今宵も日暮は、東町の花街でしたたかに呑んだ。馴染みの酌婦を相手に藩政の愚を説き、上司に恵まれぬ吾身の不憫を吠え立てて、挙句はいつものように店主の怒りを買い、叩き出されて店を出た。


 千鳥足は体の傾きが推進力である。日暮のずんぐりした体が、不規則に前後左右に傾く姿勢を支えて歩が進む。前に進むだけではない、右に進み左に進み、時には後方へずいぶん後ずさることもある。東町の賑やかな灯りを後背に、揚土町を酔いにまかせて去勢を張って横切ると、やがて女鳥羽川と総堀に挟まれた縄のように細く長い土手に差しかかった。辺りは急にひっそりとする。松の木立がかさかさと風に揺れて鳴る。すわっ、その総堀へ日暮の体が転がり落ちるかと見れば、不思議とずんぐりとした体は、トントントンとバランス良く道の中心に戻っている。さてはまた今度は蛙の鳴く女鳥羽川の流れに落ち込むかと案じても、やはりずんぐりとした体は無傷のままなのである。昔も今も、千鳥足とはこんなものである。


 さて空には十三夜の月が、雲間からぼうと照るが、人影を暗闇に映すまでにはいたらない。薄闇の中で、対向してきた侍と、日暮の肩が触れた.


[おい!」


 侍が、日暮を呼び止めた。日暮はその声を聞き捨てにした。いや、侍の声など、まるで日暮の意識に届いていない。侍は三度、声を荒げて日暮を呼び止めた。それでようやく日暮は立ち止まり、侍の声に振り向いた。


「何だ。何か拙者に用か」


 呂律の回らぬ口ぶりだが、言葉は意外と落ち着いている。酒の酔いが、日暮を平素の数百倍も勇気づけている。


「おい貴様、肩が触れたぞ」

「おう、そうか。ならば貴様、謝れ」


 日暮はずんぐりとした躰を侍の声の正面にむけて、仁王立ちに立った。足を地面に踏ん張って立つため、酒の酔いで起こる重心の振れが、日暮の上半身だけを、まるで振り子のように揺さぶっている。


「ウーイ」

 しゃっくりが出た。

「ぬかしたな貴様、後悔するぞ」


 侍の気配が薄闇のなかで体を開き、刀の柄に手を掛けた。侍もまた酔っている。その上に短気な性分である。剣の腕もたつ。


 侍が刀を抜き、青眼に構えた。爪先を地面に滑らせ間合いを詰める。それでも日暮の振り子運動は止まらない。またしゃっくりが出た。薄闇の中で、侍の人影が構えを上段に直し、じりじりと間合いを詰めてくる。


 日暮も侍と同様に刀の柄に手を掛けた。その動作で体の傾きに弾みがつき、フラフラと千鳥足が戻った。侍に間合いを詰めたと思えば後ずさり、右に回り込むかと思えば、今度は左に回り込んでいる。日暮が剣術など遣うわけがないのだが、侍にすればまるで日暮の構えに隙が無い、ように見える。(こやつ、出来る)と侍は見て取った。


「あいや、待たれよ。これは拙者に分が悪い」


 相手の侍はそう言うと、刀を鞘に収めた。


「貴公が、あの秘剣といわれる『酔剣』の遣い手であったとは、御見逸れいたした。今宵のところは酒に酔った上での酔狂として御赦し願いたい。真に申しわけござらん」


 侍はそういい残すと、そそくさと闇に紛れて、立ち去ってしまった。


「ウーイ」

 酒の力はオソロシイ。


    第一話 酔剣 完

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