6

 一ノ宮探偵事務所




 王人が事務所の前まで帰ってきたときには、もう日が暮れていた。

 繁華街は珍しく人通りが少なく、事務所の前の通りも、誰一人として歩く姿は見られなかった。


 ――ジョシュの奴、怒るだろうな……。

 ――アイツ、帰りが遅いと何故か女関係を疑ってくるからなあ。

 ――まあ、どうせ冗談で言っているだけだろうけど。


 王人は、ジョシュアを女性としては意識していなかった。

 同じ事務所内で寝泊まりしているが、あくまで一時的に貸しているだけと認識していた。


 ――そう言えばアイツ、いつまで部屋探してんだ? 金ないのかな。


 そんなことを考えながら、王人は事務所の戸を開ける。



 ズン



 鼻先に、重い、いや、鈍い圧力を感じる。

 いや、それは匂いだ。

 まるで鼻を圧し潰さんとするかのような、激しく不快な匂い。



 ザァ



 目元を、何かが襲い掛かる。

 いや、違う。

 何もない。

 襲い掛かって来たのは、ただの景色。

 目の前にある、ただの景色。


 ――……は?


 王人は、思考が止まった。


 ――……んだよ……これ……。



 王人の目に映ったのは――物体。

 いや、それは物体ではない。

 いや、それはもはや物体でしかない。

 それは――真っ赤に染まった、ジョシュアの姿だった。


 ――……え……何……で……。


 それは、血の匂いだった。

 それは、血塗られたジョシュアだった。


「……ジョシュ……?」


 王人はゆっくりと腰を下ろして、倒れているジョシュアに触れる。

 王人の手や服には、彼女の血がベッタリと付着した。

 思考は止まっていたが、彼は何の気なしに彼女の頸動脈に触れる。


「……!」


 動きはなかった。

 彼女は――死んでいた。


「どうなって……」


 王人は再び立ち上がる。

 事態が全く飲み込めずにいる彼は、ただただ呆然とするほかなかった。

 ……が、しかし、呆然とした矢先に目線がたまたまいった方向に、何かがあるのを彼は見逃さなかった。

 彼は急いで『それ』のある方向へと向かった。

 それは、『置手紙』だった。



『キランゲ岬で待ちます。 七月柚絵』



 それを見た彼は、事態を理解した。

 いや、理解というには、あまりに自分にとって不都合な方向にだが――。

 彼は、七月柚絵が、事件を調べている自分たちを始末しに来たのだと考えた。

 いつもの彼ならそう考えたところで他にもいくつか疑問が浮かぶはずだが、頭が上手く回らなかった。

 冷静さなど、持ち合わせていなかったのだ。


「……七月……!」


 彼は、飛び出さずにはいられなかった。



 キランゲ岬




 王人は、急いで紫龍園のはずれにあるキランゲ岬までやって来た。

 キランゲ岬は、散屍山と並んで紫龍園の観光スポットの一つであり、普段ならば観光人が幾人か見られる場所。

 だが、今日に限っては観光人の姿は見られなかった。


 ゴーゴー


 雨。雨。雨。

 いや、それはもはや嵐に近かった。

 紫龍園の天気は頗る悪く、外出している人間はほとんどいなかった。

 ここ、キランゲ岬もまた同じ。

 人は誰一人……いや、一人だけいた。



「……ハァ、ハァ、ハァ…………七月……か?」


 息を切らし、膝を抱えながら王人は尋ねる。

 目の前には、雨で姿は見えづらいが、確かに女性と見られる人物がいた。


「……久しぶり、オート君……」


 雨の所為で良く聞こえない。

 だが、微かに聞き取れたその声は、確かに聞き覚えのある声だった。


「……お前が……ジョシュを……?」

「……さあ? どう思うかしら?」


 ずぶ濡れになりながら、彼女は微笑んだ。

 その笑顔は不気味で、妖艶な雰囲気を漂わせていいた。


「……お前は……一体何が目的なんだ……? 州議会の命令なのか? 水澱ジェラスとのかかわりは? ジョシュに一体何の恨みがあって……」

「誰かしら? それ」

「『誰』……だと?」


 柚絵は、王人の言葉を無視して目を細めた。


「……懐かしいわね。昔はよく一緒に遊んだけれど……貴方は私のことを何も知らなかった……。サイト君も同じ……。彼は、当主を受け継いで上手くやっているのかしら?」

「質問に答えろよ……。お前は一体何なんだ?」

「今更、私のことを知りたいの? フフフ、でも……もう遅いわ」

「いいから教えろ! どうしてジョシュを殺したんだ!」


 王人は声を荒げた。

 だが、彼女は微笑み続けるだけ――。


「……だから……誰かしら? それ」

「とぼけるな! お前がやったんだろ!?」

「……フフフフ」

「何がおかしいんだよ!」


 雨の中でも、互いの声だけははっきりと聞こえていた。

 だからどうしても、柚絵の不気味な笑い気が王人の頭に軋むように響き渡る。


「貴方……一体何の話をしているのかしら?」

「な……何言ってんだ! お前が――」

「誰か死んだの?」

「ジョシュは事務所で死んでいた! 確認もした! 触れても反応はなかった! お前が殺したんじゃないのか!?」

「……触れたの? なのに――」



「何で貴方には、血が一滴も付いていないの?」



 彼は、彼女の言葉の意味がわからなかった。

 彼は自分の体に目をやった。

 確かに自分はジョシュアに触れた。

 その時、『血がベッタリと付着した』……はずだった。

 彼の手や服には、付いているはずの血が付いていなかった。


「あ、雨だ……雨で流されたんだ……」

「へぇ、そう……。でも、本当に誰かが死んでいたのかしら? 貴方はどこでそれを見たの?」

「どこって……そんなの、俺の事務所に決まって……」

「それってどこ? 貴方にわかるの? 誰の事務所?」


 彼は、柚絵の質問に答え続けるしか出来なかった。

 もはや状況が理解出来ていなかった。

 何故だかはわからなかったが、彼は言い知れぬ不安を感じていた。


「だから……俺の事務所……」

「貴方、いつから事務所なんて持っていたの?」

「それは……えっと……」


 頭が上手く回らない。

 おかしい。

 何でそんな簡単な質問が答えられない?

 何故――。


「ねぇ……貴方は………………一体誰?」


 彼の耳には、轟轟と雨と風の音が響き渡る。

 いや……もはやその音すら耳を通り過ぎていくだけだった。

 何も入ってこない。

 何もない。

 何も――。




「どうしたの? ……答えられないの?」

「俺は……一ノ宮……王人だ……」

「……? 貴方がオート君? 何を言っているのかしら?」

「何って……お前だって俺を……」

「私が誰だかわかる?」

「お前は……え? ……あれ? ……お前は……お前は……」


 何故だ?

 こんな簡単な質問の答えが出て来ない。

 あれ?

 な……何で……?


「ねぇ……貴方はだあれ? どうして一ノ宮王人の振りをしているの……?」

「ち……違う……俺は……一ノ宮王人だ……」


 あ……あれ?

 俺は……あれ?

 何だ……これ……。


「フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ」


 笑い声が……響き渡る。


「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」



 彼女は笑った。

 ただただ笑った。

 いや……彼女は……誰だ?

 彼女は……あれ?


「貴方はだあれ? 貴方はだあれ? 貴方はだあれ?」

「俺は……王人……王人……あれ? 俺は……」


 彼女が近づいてきた。

 誰に?

 俺に?

 いや、俺じゃない。俺ではない誰かに。

 いや、違う、彼女は俺に……。


「貴方は……もう……十分でしょう?」

「何を……言って……」


 俺は……いや……僕は……違う……私は……。



 彼女は、彼の顔を掴んできた。


「さあ、目覚めましょう……バックス・ウィルソンさん……」


 彼女が掴んだ手を離すと、彼の顔は間違いなく――バックス・ウィルソンだった。




 そう、この時男はようやく全てを理解した。

 いつからかはわからない。

 だが、確かに自分は今まで一ノ宮王人だった。

 記憶を辿る。

 辿れば辿る程、『いつからか』がわからない。

 自分は一体いつから……『一ノ宮王人』になっていた?


「私は……私は……確かに……一ノ宮王人で……」

「貴方は一ノ宮王人ではない。そもそも、そんな人いない。何を勘違いしていたの? いつからそう思っていたの?」

「馬鹿な……馬鹿な……ジョシュは……才人は……蓮二は……明日雛は……」

「だあれ? それ、だあれ? そんな人たちはいない。誰もいない。まだわからないの?」

「あり得ない……あり得ない……私は……私は……」


 彼女は笑う。

 男をただ、嘲笑う。


「貴方は、私の催眠術で、全てを勘違いしていただけ」

「催眠……術……?」

「そう……全ては虚構……いつからかもわからない、ただの虚構」

「虚構……? 私は……私は……一体……誰だ?」

「あらあら、催眠を強くかけすぎたかしら? もう……駄目になっちゃたかもしれないわね?」



 もう、それ以上は聞き取れなかった。

 もう、それ以降の記憶はなかった。

 私には、もう何もわからない。

 ここにはただ、私の記憶の出来事を書き記す。

 どこまでが私で、いつから一ノ宮王人だったかはわからない。

 だから、一ノ宮王人としての出来事を、ただ書き残す。

 全てが虚構の出来事だったのかもしれない。

 だから書籍として記憶通りにありのままを伝え残すのだ。

 だが、フィクションではなく確かに私の記憶の出来事だった。

 ここまでが、全て私の記憶の出来事。



 誰か私を見つけてくれ。

 私はもう……自分が誰だかわからない……。


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