第23話
城の外側を順調に蜘蛛のようにのぼっていく。鉤爪は存外に丈夫な造りのようで、爪を差し込む場所さえ間違えなければ、深く刃が刺さり身体を固定できた。
幸い背中を撫でる風は弱く、妨害するものと言えば、のぼる度に響く鉤爪の微かな音くらいだ。だがこれも、城門を守護している兵士達の耳に届くほど大きくはない。
僅かな足場を探してのぼるのは楽な作業ではないが、妨害がないため落ち着いて確実に行動することができた。
けれども、メルトが懸念していた体力的な問題だけは残っていた。これはもちろん彼女には関係なく、ノールに限った問題だ。
建物の一階部分。城門の橋がある高さを越えた辺りで、ノールの呼吸は荒くなった。すぐ隣で一歩上を進むメルトが心配そうに目を向ける。
「ノール、がんばって。あと半分だよ」
「ああ……。そりゃもちろん……充分にがんばってるぜ」
額から汗を流しつつ、必死の形相のまま口元だけで笑う。
「けっ……これが壁か……俺が越えようとして、ずっと越えられなかった壁……いや、俺は今まで、壁に挑んですらいなかった……親の言いなりになって、それが俺の全てだった……他に何もない、他人の復讐のためだけに生きる、心のない人形だった」
うわ言のように淡々と語りながら、時折気合をいれて語気を強める。気合が入る時は、決まって鉤爪を一つ上に進めていた。
「だが……今日、俺は壁をのぼってる……ようやく見つけた、越えなければならねぇ壁だ……こいつを絶対、のぼりきってみせる……!」
普段のノールならば、既に限界を迎えていてもおかしくはない。しかし胸の内で燃える熱い魂が、彼の手と足を止めさせない。
笑いを浮かべたまま、多量の汗を額から噴き出す。制止するよう命じる身体の警告を無視して、ノールはメルトよりも上に躍り出た。
「見てろよ……俺が、全員救って――――」
突如、ノールの身体が遥か上空から水面に引っ張られた。鉤爪の刃が充分に刺さっておらず、その状態で上に進もうとしたことで身体の固定が解除されたのだ。
余裕を偽装した笑みは一瞬で消え去り、体力の消耗とは別に、冷たい汗が額から溢れ出る。
「やべぇ……ッ!」
支えを失い、手と足が壁面から乖離する。
ここで落ちてしまえば、着水音で兵士に侵入が知られて、全てが台無しになる。
落下を止めるため、鉤爪を突き刺そうと、ノールは腕を振るう。
無茶苦茶に暴れた刃は石材に弾かれる。身体の急降下は止まらない。
しかし、ノールは片腕を引っ張られる形で危機を脱した。
縄で繋がれた先にいるメルトが、焦った様子もなく柔和に微笑んでいる。
「よく耐え切ったね、ノール。ノールの強い心がここまでの力を与えたんだって、あたしはそう思うよ」
「あ、ああ。助かったぜメルト。けどよ、褒めるならせめてのぼりきった後にしてくれ」
「なに言ってるの? ノール、ひょっとして気づいてないの?」
「なんのことだ?」
「足元、見てみてよ」
指摘されて、ノールは落ちかけた先である足元に視線を移す。
そこに水はなかった。無意識に壁をのぼり続けていたノールは、下方を確認したことで、現在自分が張り付いている位置がどこなのかを理解した。
しばらく呆然としたノールだが、今度は口元だけでなく顔全体で誇らしげに笑った。
「ふっ、そんじゃあ同時に降りるとするか。メルト、合図してくれ」
「わかった。よーしっ! じゃあ、せーのっ!」
メルトが鉤爪の手袋から素手を抜く。ふたりの身体は支えを失い、重力に引かれて落下する。
その時間は一瞬だった。
既に資料室の上に到達していた彼らは、無事にバルコニーの床に着地する。ノールも鉤爪の手袋を外すと、音を立てないよう慎重に地面に置いた。メルトの鉤爪は、両方とも城の壁に突き刺さったままだった。
メルトが薄暗闇に包まれる資料室を覗く。深閑とした空気は、そこに見回りの兵士がいないことを示していた。並んだ書棚と使用者のいない机が、闇の中に浮かんでいる。
「巡回してる兵士はいないみたいだよ」
「そうか。大方、俺達は橋から来るとでも思ってんだろ」
愉快そうに言って、ノールは本を取り出す。あるページを開いて、メルトに見せた。
「見ろよ。本にはどうやって城に攻め込むかまでは書かれちゃいねぇ。もしかすると、あの野郎は城門の前で決着をつけるつもりだったのかもしれねぇな。けどよ、俺達はここにきた。奴の予想を覆してやったってわけだ」
「だけど、まだ終わりじゃないよ」
「ああ。もちろんだ」
本をしまい、ノールはホルダーからナイフを引き抜く。
決然とした雰囲気をまとい、メルトを見据えた。
「ここからはもう策がねぇ。一応は忍んで進むが、見つかっちまったらトラヴィスの部屋まで一気に駆け抜ける」
「わかった。敵は、あたしが倒すよ」
「信頼してるぜ」
いよいよ八年間続いた因縁が終わろうとしていた。結果に関わらず、必ずどちらかが倒れて、ノールとトラヴィスの関係は絶たれるのだ。
無論、メルトはノールの勝利を信じている。
だが、万が一の可能性も否定しきれなかった。その不安を拭うため、彼女は彼に尋ねる。
「ねぇノール。初めてあたしに復讐に協力するよう頼んだ日のこと、覚えてる?」
「あぁ? いきなりなんだ。こんな時に昔話かよ」
「あの時さ、どうして復讐なんかに協力しちゃったのか、しばらくわからなかったんだ。あたしが強くなりたかったのは、誰かを倒すんじゃなくて、誰かを守るためだったのにね」
「まぁ、物好きな奴ではあるな」
「一つ言えるのは、最初、あたしは協力しようか迷ったんだ。首を縦に振ろうか横に振ろうか決められなかったあたしに、ノールがなんて声をかけたか覚えてる?」
「んな昔のこと、俺が覚えてるわけねぇだろ。こんな話してて、見つかったらどうすんだ」
「……ごめん」
期待していた回答をもらえず、口を噤むメルト。しかしそれが許される状況ではないと思いなおして、トンファーを構えてノールの後ろにつく。
資料室の様子を窺っていたノールが、首を回して彼女の顔を見た。
ふたりの視線が、一直線に交わる。
「おいメルト」
「ん?」
こんな風に向き合ったことが以前にもあったと、メルトは当時の情景を思い出す。
初めてノールに協力を求められた、あの日の記憶。今と変わらない金髪をした幼い彼は、協力すべきか迷うメルトに勇ましく言い放った。
「俺についてこい」
彼からすれば、それは何気ない一言だったのだろう。
けれども、誰かを守るためだけに生きると決めたメルトにとっては、これほど嬉しい言葉はなかった。誰かの支えとなることを決めたメルトだが、本当は支えてくれる誰かが欲しかったのだ。
彼を守り、守られること。一番好きな彼の行く先をそばで見ていたいという願い。それが、彼女に強さと勇気を与えて、もう一つの生きる理由となった。
決戦を目前に控えたノールは、あの日と同じ台詞を声にした。それを耳にしたメルトの心の奥底から、絶対的な自信と勇気が湧きあがってくる。
彼女はもう、どんな困難が道を阻もうとも負ける気がしなかった。
「どこまでもついてくよ。……えへへっ」
「なに笑ってんだてめぇ。気味のわりぃ奴だな」
「なんでもないよっ! ノールの背中は、あたしが守るからねっ!」
最終決戦の最中であるというのに、不釣合いな明朗な笑顔を見せるメルト。そんな暢気な彼女を不思議に思うノールだったが、
「なら、おめぇの進む道は俺が拓いてやるよ」
彼女を見つめる彼の顔にも、場違いな笑みが浮かんでいた。
資料室の扉を慎重に開き、二階の広間の様子を窺う。石材を敷き詰めて造られた巨大な空間は、冷たい暗闇に包まれていた。暗順応によってうっすらと見えるようになった部屋を歩き、三階に続く階段へ移動する。
雑音はノールとメルトの息遣い以外になく、兵士が巡回している気配もない。しかし念を入れて、音を立てないよう忍び足でふたりは階段をのぼっていく。
一段一段、進む度に〝終わり〟は近づく。
ノールの想像する〝終わり〟は、ただ一つ。それは理想の結末というわけではない。その結末を迎えることは必然だと、彼は信じている。
メルトの想像する〝終わり〟もまた一つ。彼の予見する結末が、そのまま彼女の迎える結末だ。
運命に否定され、本に否定され、トラヴィスに否定された〝終わり〟の形。常軌を逸した力に拒まれようとも、彼と彼女は光ある未来を信じた。
その終点、ノールとメルトは、遂に最後の扉の前に立った。
三階にも見回りの兵士の姿はない。見上げるほどの大きな扉が、不気味なほどに静かな通路の中央に佇んでいる。
両開きの扉の片方に手を触れて、ノールは隣に並ぶメルトの顔に目を向ける。彼女の存在を確認すると、軽く頷いてから扉に対して体重を傾けた。負荷をかけられた扉が、緩慢な動きで口を開いていく――。
はずだった。
扉は微塵も動かない。違和感に襲われたノールが更に力をかけてみても、メルトに助力を求めてみても、王の間に続く扉は一切動く気配がない。
「これが結末か……」
彼が呟いた直後、明かりのなかった三階通路の燭台に、次々と炎が灯っていく。橙色の光が外側から中央に向かい、規則的に現れていく。
同時に、階下から鉄を鳴らす音と慌しい足音が聞こえてきた。音は無数に折り重なってすぐに大きくなり、二階へ続く階段の下から多くの兵士が出現する。兵士達は迷うことなくノール達の所に駆け寄った。その手には、一様に抜き身の剣が握られている。
ふたりが階下からの敵襲に視線を奪われていると、動かなかったはずの王の間へ続く扉が唐突に開いた。室内には昼間のような明かりが灯っている。その光の中から現れたのは、階下から駆けつけた者と同じ鎧兜の兵士達。
そして――
「第三章、いかがでしたか? ひっひっひっ!」
王の間で待ち伏せをしていた兵士達の中心に、ノールとメルトを見下して嘲笑するトラヴィスの姿があった。
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