第19話
地下駐車場にあったエレベーターには、地下四階から地上一階までのボタンと、扉の開閉ボタンしかなかった。エレベーターの内装は清潔で、収容人数は九名。地下から地上を繋ぐためにしては、少し大きすぎるように感じた。
低く唸るような上昇音が止まり、両開きの扉が開いた。
一階の広いフロアでは、随所でスーツを着込んだ男女が携帯電話を操作していたり、立ち話をしていた。エントランスの応接セットでは、机に資料を展開して会議する人々も見えた。
フロアの奥には来客への応対を担当していると思しき女性が二人、コの字型のカウンターで淑やかに座って手元の端末を操作している。
よく磨かれた床で靴音を鳴らしながら、リリアが受付の二人に近寄った。声をかけられて顔をあげた女性は一瞬だけ緊張した表情を見せたが、声の主を確認すると柔和な笑みを作った。
「リリア様、ご無事でなによりです。先ほど、二台のバイクを回収いたしました」
「仕事が早くて助かる。それはそうと、ベリルはいるか?」
「ベリル様でしたら昼前から出張に行かれました。十七時には戻るとのことです」
「ほう……今は不在か」
「はい。戻られたら、ご連絡するようお伝えいたしますか?」
「不要だ。では、上で少し休ませてもらおう」
気遣いをきっぱり断ったリリアが、受付の横にあるエレベーターに乗り込んだ。俺もエレベーターに同乗して振り返ると、リリアに応対した受付嬢と目が合った。扉が閉まってすぐに見えなくなったが、受付嬢は直前に見せた営業スマイルではなく、どこか不安げな表情をしているように見えた。
搭乗したエレベーターには、一階から十階までのボタンがあった。リリアが逡巡もなく行き先として最上階のボタンを押すと、シルヴァが驚いた声をあげた。
「えっ、十階はオフィスと取締役室しかないでしょ? 休むんじゃなかったの?」
「その前に確かめなくちゃならんことができた。まずはベリルに会いに行く」
「どういうこと? あのおじさんは外出中って言ってたじゃない」
「そうだな。それが本当ならば、私もすぐに休みたいのだがね」
「まさか、嘘をつかれたってこと?」
緩慢な浮遊感を与えながら、地下からあがってきた時よりも静かに、俺達を包む箱は最上階にのぼっていく。
密室には、不穏な空気が漂っていた。
「受付にいた女のことだろ? 作り笑いは大した出来だったが、キーボードに添えた手が震えてた。それに、エレベーターに乗る俺達を凝視していたしな。嘘かどうかわかんねぇが、いかにも後ろ暗いことを企んでそうだったぜ?」
「よく見ている。シルヴァは人を信じすぎるきらいがあるな。悪いことではないが、本当に信頼できる人間は、もう少し絞っておいたほうがいい。前にも言った気がするがね」
「あの人は味方でしょ? つまり、それって裏切り……間違いないの?」
「裏切りかどうかは知らん。だが、ベリルは恐らく社内にいる。地下駐車場に奴の高級車が停まっていたからな。あの男は出張する時、必ず愛車で移動する。会社にいることを隠させたのは、誰かと会うと不都合な状況――或いは私個人を近寄せないために、息のかかったフロントの彼女に在席していることを隠すよう命じたのかもな」
鐘が鳴るような高い音が響いて、浮遊感が消失した。身体の感覚が戻ると共に、閉め切られていた扉が両側に畳まれた。
「まぁ考えるだけ無駄だ。正しかろうが間違っていようが、確かめれば済む話だ」
エレベーターから廊下に出た。薄いカーペットを全面に敷き詰めた床と、濃い白色の壁紙が張られた壁面が突き当たりまで伸びていた。エレベーターのそばにある窓ガラスを覗くと、絵に描いたようなオフィスで、フォーマルな服装の男女がパソコンに向き合っていた。
「まさかと思ったが、ここは普通の会社なのか?」
「この最上階と、一階から三階の合計四フロアに関していえば、君が言うところの普通の会社だ。レイ・ソフトというソフトウェア開発会社。反政府組織の隠れ蓑とするために、私が立ち上げた」
「マジかよ……つまり、ここの会社員っぽい奴らも、全員自分達が反政府組織であることを知ってんのか? こんな大勢が」
「それだけ多くの国民の反感を買う政治をしているという証拠だ。この建物にいる者達を集めても、ニーベルング全体の一パーセントにも満たないがね」
これまでで最も信じられない一言だった。ちらと覗いただけだが、オフィスには百人程度の社員がいた。一階はともかくとして、二階、三階もオフィスだとするなら、それだけでも三百人になる。これが一パーセントなら、ニーベルングの構成員は約三万ということになる。
三万人。もはやそれは立派な軍隊だ。
統一国家を潰すなど、たとえ特別な能力が使えるとしても兵力差で話にならないと思っていた。しかしその数字を聞いて、国家転覆を目論む彼女が本気なのだと、ようやく心の底から理解した。
「どうした。そんなに驚いたか?」
「あぁ……しかし、お前は軍に顔が割れてんだろ? こんな街中で、窓から姿を目撃されたらどうする? というか、四階から九階はオフィスじゃないんだよな? そこだけ毎日暗かったりカーテンで隠してたりしたら、流石に怪しまれるんじゃねぇか?」
「その点は安心していい。この建物の窓には細工がしてある。我々が独自に開発したカモフラージュ・ウィンドウと言って、内側からは外部が見えるが、外部から見た際には偽の社内風景の映像が見えるようになっている。毎日、ランダムなパターンでな。通称、カモ窓だ」
「……改めて思ったが、とんでもねぇ連中だな、お前ら」
得意気に自社製品の紹介をするリリアと、驚愕を通り越して呆れる俺を置いて、シルヴァとヘカテが廊下を先に進んでいた。
「悠長に雑談してる場合じゃないでしょ? もし本当にあいつが裏切ってるなら、何されるかわかったもんじゃない」
「ああ。既に手遅れかもしれんが、さっさと確認にいくとしよう」
先行して、廊下の途中にある丁字路を曲がろうとするシルヴァ。
「ただし、」
一旦は切った言葉に付け足されて、シルヴァはぴたりと足を止めた。ヘカテも歩くことをやめて、背後のリリアに注目した。
佇立する二人に鷹揚と歩み寄りつつ、
「たとえ奴が取締役室にいたとしても、余計なことは絶対に喋るな。もちろん、アレスもな」
リリアは冷酷な声色で、俺達にそう命令した。
廊下の丁字路を曲がり、取締役室と書かれた白塗りのドアの前に立った。室内を覗くためのガラスは内側から白色の衝立で塞がれていた。
リリアが手の甲で三度ノックした。返事を待つが、内側から近寄ってくる足音は聞こえない。彼女は無言のままドアノブを掴み、音を立てないよう優しく回すが、すぐに手を離した。鍵がかけられているようだ。
黙したまま俺と他二人が見守るなか、彼女はもう一度ノックした。
「ベリル。何をしているのか知らんが、私に隠し事ができると思うとは大した度胸だ。そこにいるのはわかっている。早くドアを開けろ。でなければ無理矢理に開けるぞ。修理費用を会社につけてな」
外出は愛車ですることが常と言っていたが、今日は気まぐれで徒歩や公共交通機関で出かけている可能性もあるはずだ。本当に社内にいるとしても、目の前の部屋にいる確証はないのではないか。だというのに、気配のないドアの先に、リリアは確信めいた口調で呼びかけた。
何故わかったのだろう。
彼女の勧告から数秒を置いて、ドアから鍵の外れる効果音が響いた。
「わかっているな?」と、俺と他二人に先の命令を反芻させて、リリアは開かなかったドアに手を伸ばして、取締役室に入室した。
面積の割りに、取締役室には調度品が少なかった。奥のデスクにはノートパソコンが一台、ディスプレイが二台並んでいる。部屋の窓では付近のビル群が山脈のごとく連なっており、一際高い建物――アンドリヴァ国軍の拠点たる庁舎も見えた。
俺達を出迎えたのは、黒色のスーツを着た短髪の男。年齢は五十台半ばくらいだろうか。痩せた体型で身だしなみが整っている。毅然としていれば、取締役の肩書きに見合う貫禄が出せそうだった。
だが、俺達に視線を巡らす男は、頼りなく眉根を中央に寄せていた。
「一人か。留守を装っていたから愛人でも連れ込んでいるのかと思ったが、そちらは間違いだったようだ」
「……少し、集中したい仕事があったのです。リリア様がこちらに向かっていることは聞いておりましたが、急な案件でしたので」
「急用か。そうならばそうと、細かくフロントに伝えておけば良かっただろう。虚言を吐かれれば誰だって疑う。それとも、私を騙せるとでも思ったか?」
「い、いえ。騙そうだなんてそんな……っ! 時間がなく説明が面倒だったので今回のような対応をしてしまいましたが、大変失礼極まりない判断でした。以後、このような行動は控えます」
「ああ。誤解するようなマネには注意しろ。私は手段を選べない性格なのでな」
喜怒哀楽を殺した色のない声で警告する。全身が強張っているベリルが、一瞬だけ視線を右下に逸らした。そこには、彼にしか見えない角度のディスプレイがあった。
リリアがデスクに片手をついた。
「で、その急用とやらは片付いたのか? 何かを気にしているようだが」
「え、ええ。たったいま、完了したことを確認いたしました」
「ほう。それは良かった。我々の活動のためにも会社には安泰でいてもらわねば困るからな。それに、ここは第七二区画における最も重要な拠点でもある。なにせ、見ての通り敵の基地が見える立地にあるのだからな」
常日頃から言ってそうな台詞をベリルに伝えると、彼の眉間に作られていた皺がいくらか和らいだ。
「アレス、こっちに来い」
振り返ったリリアに名前を呼ばれ、俺は彼女の隣まで歩いて立ち止まった。
「折角だから紹介しておこう。アレス、この男がこの会社の代表取締役を勤めているベリル=ヴァルフライだ。私がニーベルングを結成した数ヵ月後に、路頭に迷っていた彼と出会ってな、色々援助して今の地位を任せるようになった」
「紹介に預かったベリルだ。アレスくん、よろしく――」
デスクの反対側から回ってきて、ベリルは俺に手を差し出した。
その手を、間に割って入ったリリアが遮った。
「挨拶は必要ない。私は建前というのが嫌いでな。同じ組織の一員ではあるが、君達は別の世界の住人だ。関わる機会はないだろう」
遠慮のない言葉に、ベリルは気まずそうな顔で手を引っ込めた。握手を求められた俺としては、どうでもよかった。
彼に対する不信感がまったく拭えていなかった。態度を鑑みるに、リリアは疑惑はある程度解いているようだが、俺にはどうも彼の〝急用〟という漠然とした説明が腑に落ちない。委細を確かめるべきとも思うが、閉ざした口をこじ開けために有効な方法がすぐには思いつけなかった。
取締役室で吸い込む空気は重く、肺の空気を吐き出す行為にさえ体力を奪われる。
静まり返った状況を打破したのは、入室からずっと黙っていたシルヴァのあげた声だった。
「――ちょ、ちょっとっ! あれっ! 窓っ! 窓のほう見てっ!」
愕然と慄く声に、部屋にいた全員が一斉に窓の外に焦点を合わせた。
「あれは……ッ!」
思わず漏れる驚愕。
ヘカテはつまらなそうに見ているが、それは彼女の性格ゆえだ。リリアは神妙に口を真一文字に結んでいる。ベリルは口を半開きにして硬直していた。
「……なんだ、あれは……あんな兵器を、アンドリヴァ軍は保有していたのか」
「とある情報筋によると、最新型の兵器だそうだ」
アンドリヴァ・ナイツの狂人から仕入れた情報を共有しながら、リリアの瞳は窓の一点に集中して動かない。
ガラス越しに映っている巨大物体――高速道路で目撃した時と同じように、四機のヘリに支えられて上空にのぼっていく敵の最新兵器から、誰も目を離すことができない。
「アーク・ロードをベースにしているようだが、あれはもはや兵器というより移動要塞だ。アレが一体いるだけで、敵対勢力を拠点ごと消し炭にできる。実際、ここに来る途中で馬鹿げた性能の片鱗を見せつけられた」
「交戦したんですか、アレと」
「交戦と呼べるほど大仰なものではない。ただ一発、ミサイルを撃たれただけだ。馬鹿げた超遠距離からな」
リリアはため息をついて、短い時間だけ瞼を閉じたあと、窓に釘付けになっていた俺とシルヴァとヘカテに向き直った。
俺達を束ねる頭目の瞳に、決然とした光が湛えられていた。
「休憩を与えるといった手前申し訳ないが、悠長にしている場合ではなくなった。君達は車に置いてきた武器を回収して七階の武器庫に向かえ。装備を整えたら指示があるまで八階で待機だ。ベリル、君は社内にいる来客をいますぐ全員帰らせろ。五分以内だ。いいな? それが済んだら九階の会議室に行け。私も何人か出席者を選定したら行く」
一息で複数の命令を伝えて、リリアは取締役室を早足で出ていった。
飛ぶように電話に飛びつくなり、ベリルは内線をかけ始めた。忠実に命令を遂行する姿を一瞥して、俺達も部屋を出た。
駆け足気味で歩いて、丁字路を曲がったところでリリアに合流した。隣を歩くシルヴァに、彼女は銀色のキーホルダーを投げ渡した。
「車のキーだ。特に私のライフルは丁重に扱ってくれ。ああそれと、武器庫からライフル用のフレア・バレットを持ってきておいてくれ」
「それはいいけど、いきなり武装だなんて、これから何するつもりなの?」
「あの移動要塞と戦う未来は、可能であれば避けたい。|魂の閲覧(リーディング)してみたが、アレと対峙した際に生き残る未来は一つも視れなかった」
「師匠がッ!? それじゃあ勝てるわけないじゃないっ!」
「かもしれん。だが、向こうからどこかに消えてくれたからな。思わぬ事態となったが、我々からすれば望外の幸運だ。奴がいつ庁舎に戻るのか不明ではあるが、この機会を逃す手はない」
階下に進むエレベーターに乗ると、リリアは七階と四階のボタンを押した。
俺達が乗り込むのを待ってから扉を閉めて、彼女は鮮明に言い放った。
「今夜、庁舎を落とすぞ」
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