君と寝起きの朝と雨上がりのカルテット
雨乃よるる
あと
雨が好きだった。
どうしようもなく疲れてしまったとき、この世が憎いと思うとき、外を見て、雨が降っていると安心するのだ。どうして、安心するのだろう。
わたしの代わりに空が泣いてくれている気がするから。
明るい光を見るのにうんざりしたから。
低く垂れこめた灰色の空が、わたしと同じような暗い顔をしているから。
雨の音が好きだから。
この最低な世界を雨が呪ってくれている気がするから。
どれも正解なような、少し違うような気がする。雨の日の、湿気を帯びた重くて暗い空気が、心の中の何かを満たしてくれていた。晴れの日のきつい日差しの中にはない優しさが、雨にはあった。雨粒たちと一緒に、この世界からはみ出しているのは、授業をさぼったときみたいで楽しかった。きっとみんなにはない世界を、わたしと雨は共有していた。
わたしは、夜も好きだった。
夜の暗闇も、街の街灯も、ちらちらするLEDも、人間を信じていないような表情をしていた。人工的に作られた明かりが人間を疑っている、というのが面白かった。わたしも、人工的なライトたちも、本当は、人間なんてみんな嫌いだ、と思っている。でも、自分が周りに生かされている存在だということを知っているからわたしたちは黙って、可もなく不可もない仕事を全うする。それ以外の生き方を知らない。
夜は、人間嫌いたちが一斉に人間にあっかんべえをする時間だと思っている。夜ならだれも見ていないから、黒い空の下で羽を伸ばす。小さな家の明かりの中で夕食を囲んでいる幸せな人間たちは、そんなことも知らない。
「好きだった」。過去形である。今も、雨や夜が嫌いなわけではない。でも、あのころのような感情は消えつつある。今から、その変化の記録を書きたいと思う。でも、実際にあったことをそのまま書くわけにはいかないから、ほとんどが比喩表現だ。
二年前、くらいだろうか。ちょっといくつか悩みを抱えていたわたしは、お気に入りの場所を見つけた。少し暗い森だった。その森は、いろんな魔法を抱えていた。
とはいっても、人が空を飛べるようになるわけではない。少しの間、幻想を見せてくれるのだ。
私が初めて見つけたのは、「世界の木」だった。木の幹にそっと触れると、目の前が真っ黒になる。叫び声が聞こえる。
目の前の闇は、鉄みたいに重くて、ガラスみたいにどこまでも澄んでいる。世界の奥底まで見透かせそうなきれいな黒だった。黒くて透き通った石のようでもあった。
時々止んでは、また聞こえてくる叫び声は、何かよくわからないことを言っている。その叫び声は、とっても孤独だった。甲高い音が、いつまでも暗い闇の中で反響していた。
だんだんと、言葉が聞き取れるようになってくる。僕に優しくして。僕に優しくしないで。そう、交互に叫んでいた。
その闇と、叫び声が、自分を肯定してくれる気がした。だから私は、「世界の木」によく訪れるようになった。
そのだいぶ後に、今度は「色の木」を見つけた。木の幹にそっと手を当てると、さあっと、何かよくわからないけれど、色とりどりのものが流れ出した。視界でも虹のテープみたいなのがはじけたし、耳元でもさらさらといろんな色の音がした。そして、口の中にもいろんなフルーツの入ったパフェみたいな味が広がった。
ここに来ると元気になれる気がして、何度も「色の木」を触りに来た。
訪れた中で何度かだけ、どす黒い赤が見えたことがあった。それは、実はこのカラフルな世界観の下地になっているもの。ここは、白い画用紙ではなく赤と黒の上に絵の具を重ねてできたものだ。そのことを知ってから、私はますます「色の木」が好きになった。
「色の木」の隣には、「雨の木」があった。幹を触ると、私は頭に何かを感じた。雨だ。無数の雨の粒が、空からゆっくり、ゆっくり落ちていく。
雨粒も、足下の水溜まりも、虹色。
白い光は、いろんな色の光が混ざってできているらしいが、まさにそんなかんじだった。シャボン玉の表面みたいなちょっとした虹色が、世界のあちこちにつけたされている。きつい真っ白の日差しでも、たくさんの色に分ければ、こんなに優しい光になるのだ。
私は、雨の世界を少しずつ歩いていった。空が晴れたり曇ったりしながら、飽きないようにいろんな表情を見せてくれている。
ところどころ、木や建物の陰になっていて、光の当たらない場所があった。その一角には虹色も存在しない。ただ暗くてひんやりしていて落ち着く場所だった。私はよくその陰のところに腰掛けて、心が冷たくなっていくのを感じていた。冷たくなって固まってしまうのではなくて、黒く透明になっていく。その黒は「世界の木」と同じ色だ。好き嫌いがわかれる色。私はその色をとてもきれいだと思う。
「雨の木」は、私のお気に入りの場所になった。
私の抱えていた悩みが深刻なものになりつつあったとき、「夜の木」を見つけた。
木の幹に恐る恐る触ってみると、いつの間にか一つの部屋の中に私はいた。
紫色の光が印象的な、暗い、暗い部屋だった。
叫び声とは少し違う、馬鹿にしたような笑い声。その笑い声の主は、何やらいろいろな物を壊しているみたいだった。
写真たてに入った少しふるい写真を投げ捨てた。
大きな食卓の足を折った。
自分の手首を切った。
あちこちに散乱していた本を手に取って投げ捨てた。それが、もともと電気の付いていなかった蛍光灯に当たった。
部屋の中でずっと暴れ回っている彼は、「死ね」とつぶやいている。消え入りそうな小さな声で、何度も。「死ね」という言葉が、これほど切ない願いをともなって響くのは、新鮮だった。
彼は、そこら辺に置いてあったぬいぐるみを蹴飛ばし、何もかも壊していく。
おもむろに、彼は、彼の手元のカメラを手に取った。それで散らかった、というより荒らされた部屋を撮影していく。そうしている彼は、とっても楽しそうだった。
折れた食卓の足をパシャリ。
ひび割れた写真たてをパシャリ。
ぐちゃぐちゃになった本をパシャリ。
割れた蛍光灯のガラスをパシャリ。
「死ね」と書き殴ったノートをパシャリ。
ボロボロのぬいぐるみをパシャリ。
安っぽいデジカメを部屋のあちこちに向けて、シャッターを押していく。そうしている彼のことを、私はとてもすてきだと思った。
彼は、自分の手首の傷も撮影した。
私も、自分のことを写真に撮ってみることにした。自分の一番、ぽつんとしている部分を撮影した。私が自分の望む自分でいられるところ。相手の望む自分をかぶらなくていいところ。
そして、その写真を誰かに見せるため、久しぶりに森の中から出て行った。
足元がまだふらふらした。森の中はずいぶん暗いところだったので、外に出ると眩しい。どうやら雨上がりの朝らしかった。寝起きのときと同じ感覚で、まだ自分の見ているすべてが夢の中にあるようだ。
空を見上げると、厚い雲の間からひとかけら、青い光が見えた。青空。言葉にしてしまうと簡単なものが、重さを持って迫ってくる。あおい、そら。不思議な言葉だと思った。
君と寝起きの朝と雨上がりのカルテット 雨乃よるる @yrrurainy
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