それで何科に行けばいい?
「……聞き間違いだよな」
そうだ、そうに違いない。だって電気ケトルが喋るはずがないんだから。それってエビデンスを示すまでもなく自明なことですよね?
「ほら、お湯が沸いたわよ」
フリーズした俺を急かすように喋る電気ケトル。
「なるほど、俺は何科を受診したらいいんだ?」
「早くしないとお湯が冷えるわよ」
そうだ。電気ケトルに保温機能はない。保温機能があるのは電気ポットだ。俺は一人暮らしで、誰をもてなすこともなく、カップ麺のお湯を沸かすばかりだから、電気ポットなぞに用があるわけがない。いや違うそうじゃない。
「私に言わせれば、電気ケトルが喋るよりもあなたの生活のほうがあり得ないと思うわ。けれどもそれについて話すのは後にしましょう。お湯が冷えるから」
なるほどこいつはお湯が冷えるの一点張りで突き通すつもりか。面白い。いや、面白くはない。けれども、まあ、腹が減っているのは事実だ。その上どんな病院もこの時間じゃ閉まってるだろう。だからどのみち今すぐ受診というわけにはいかない。しかしこいつの言う通りにするのも面白くはない。なにせ電気ケトルであるというのを差し引いても、こいつは俺の家に勝手に入り込んでいる他人なのだから。俺は無言でお湯をカップ麺に注ぐことで妥協とした。「激辛タンタンメン 辛さ限界MAX」。
「それで。俺の生活のほうがあり得ないってのはどういうことだ」
「言った通りの意味よ。土日も祝日もへったくれもありゃしない。朝の7時20分に家を出て夜の10時ごろに帰ってくる。それを週6日、下手すると週7日、間違いなく残業100時間を超えた生活をして、カップ麺を食べてシャワーを浴びて寝る。ねえ、どうして転職しないの?」
「そんなのは電気ケトルに説教されることじゃねえよ。だいたい、貯金だってほとんどないのにどうやって転職するんだ。ああ知ってるよ、残業が月に100時間を超えれば会社都合退職になってすぐ失業保険が出るだなんてことは。俺が何度も調べたんだから。一番辞めたいのは俺なんだよ。で、失業保険が切れる前に転職できなかったらどうするんだ。フリーターになるのか。それで若いうちはまだいいだろうな。そのまま40、50と年を重ねて如何する。生活保護を受けるか? ホームレスになるか? なあ、人間の命がかけがえがないなんてなあ嘘だ。俺の父親は俺が自殺を仄めかした時、とにかく仕事を辞めてもいいから生きていて欲しいと言った。けれど口だけさ。本当にそう思ってなんかない。家に40や50になってもニートやフリーターの息子がいたら、誰だって内心邪魔だと思うはずだ。そして早く働けと言うに決まってる。いいか、かけがえがない命ってのは自分で働いて税を納めて他人に手間をかけさせないやつのことだってみんな知っているんだ」
「あなたの言う”みんな”っていうのは、誰なの?」
「みんなってのはそりゃ、誰もがそうだってことだ。例外はあるかもしれないが、ほとんどの人間ってことだ」
「インターネットのやり過ぎよ。そんな極端な意見ばかりをSNSで見るのは止めた方がいいわ」
ダン! 机を殴る。
「時間がないのにSNSを見る時間だけはあるんだ! 金も時間もない俺から無料の娯楽すら取り上げるつもりか!?」
電気ケトルが黙る。気まずい沈黙。それをいいことに伸び切った麺を啜る。食べ終わると底に仕上げのコショウ袋が入っている。畜生。
「うん、じゃあ、明日の朝俺を起こして見せろ。あんたが俺の幻聴じゃないんなら、俺の意識がなくても喋れるよな」
俺は受診するための有給を取れないから、とりあえず寝て起きてみることにする。きっとこれは疲れから見た奇妙な夢か幻聴で、明日の朝には電気ケトルが喋っただなんて笑い飛ばせるに決まってる。
「明日は日曜日よ」
「俺には関係ないんだ、って言っただろ?」
はあ、とため息をついた電気ケトル。
「わかったわよ、じゃあ、明日の朝7時ね」
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