俺は鬱病患者だけど電気ケトルと会話してる

只野夢窮

電気ケトルが喋った

 家賃二万五千円の汚い安アパート、部屋に入るなりぐしょ濡れのスニーカーを脱ぎ捨てる。外では十年に一度の吹雪が吹きすさび、薄い壁がガタガタと震えている。エアコンと電気をつける。床に散らばったペットボトルとビール缶が光を反射してつまらない光り方をする。

 俺は28歳のサラリーマン。つまらない人生を送っている。

 

 しょうもない大学を出て、都内のブラック企業に勤めて生きてきた。隣県から電車に揺られること片道一時間の通勤。張り切って揃えた安物の調理器具。いつのまにかカップ麺の殻が積みあがっていた。

 どんなに辛くても、辛い味付けのカップ麺の旨さはわかった。だから鬱でもなければコロナでもないと自分に言い聞かせていた。ある日、やかんでお湯を沸かすのが面倒だったから、電気ケトルを買ったのだった。

 カップ麺のお湯しか沸かさないのだから、大した機能が要るわけもなかった。適当に家電屋に行って数千円の展示品を買った。全く武骨な円柱に取っ手と注ぎ口だけをとってつけたような形をしていて、真っ黒で、安価モデルの型落ちで、むろん用途に合わせて水温を調節するなどと言う気の利いた機能があるわけもなかった。そしてそれで十分だった。俺はそれを冷蔵庫の上の電子レンジの上に置いて、毎日のように使っていた。


 今日も俺はそれでお湯を沸かして、食べたら寝るだけのはずだった。風呂に入る気力は尽きていた。どうせ、今日は寒いからたいして汗はかいていないだろう。

「もう、毎日カップ麺を食べてたら体に悪いわよ」

 壁が薄すぎて隣の部屋の声が聞こえたのかと思った。しかしそうではなかった。左の部屋の住人はある日突然帰ってこなくなった。新聞受けに溜まったチラシが気だるげに主の帰宅を待っていた。実家があるような田舎であれば、精度の高い噂によってどうなったのかがすっかり知れ渡っているはずだったが、都会の人間関係は外の猛吹雪よりも寒い。右の部屋はもとより空室だった。上の部屋からは深夜や早朝にドタドタという足音が聞こえるばかりだ。

「まあ、もうフタを開けてしまったようだから、今日は仕方なくお湯を沸かしてあげるけど」

 年上の女性を思わせる声は、確かに俺の部屋の電気ケトルから出ていたのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る