4-2

 教会まで戻ってきた。

 だれかが代わりに払おう、という意見が出た。お金の貸し借りは怠惰を生むから、という理由で私は断った。

 私が教会まで戻ると申し出ると、木陰さんとシオンさんが「ついてく」と進み出た。釣られるカタチで、妹さんもそろりと手をあげた。

 店外は未だ気温が高い。涼しいここで待っていてもいいと遠慮したのだが、結局折れたのは私の方だった。

 引き戻す道中は、さっきよりも急ぎ足だ。

 そう遠くないとはいえ、往復で三十分に迫る。三上さんも他の三人も遅刻なんて気にしないだろうし、そも、明確な集合時間も決められていない。だから急ぐ必要はないのだけど、どうしてか焦っていた。

 焦りの正体は、やっぱりわからなかった。

 横断歩道で左右をうかがうだけで、妙に心がざわついた。


 うしろからついてくるみんなの声だけが、平和であることを示している。

 きっと私はどうかしている。

 根拠のない焦燥に駆られている。財布を忘れたことがそんなにも不安だろうか? 落としたわけでもないのに、私はそこまでマメな人間だっただろうか?

 足を運びながら考えるが、やはりわからなかった。


 そんな私の手を、ぱしりと誰かにつかまれる。

 後ろに引かれ、私は現実へ引き戻された。


「……妹さん」


 どこか不安そうな顔で私をみあげる彼女がいた。

 その数歩うしろで、ふたりがみている。

 私だけが現実の外にいるような感覚に陥る。これは私が異常なのかと自身を疑う。


「焦らなくていいよ、一緒に行こう」


 焦らなくて、いい……?

 言葉を反復して、計四回ほど。妹さんの言及が、『財布を忘れた』ことに対する言葉だということを理解するのに、数秒かかる。

 そんな自分に驚きつつも、私は肩から力を抜いた。


「……すみません。ご心配おかけしました、ありがとうございます」


 手の感触に、理由もなくあがった心拍が落ち着いていく。私は息を吸って、ゆっくり吐き出して、衝動をおさえた。

 そうだ。

 なにも焦ることはない。焦ってもなにもない。

 なら、ゆっくり行けばいいはずだ。他人に宥められるなんて、冷静じゃなかった。

 今度は気持ちゆったりとしたペースで、歩き始めた。

 まだ得も言われぬ予感はあったけれど、スーパーに向かったときのように周りがみえてきた。

 教会はすぐそこだ。あとは、小高い丘へ伸びた坂道をたどるだけ。

 それだけの距離、時間にして一分もかから──



「──、?」



 ある程度の距離になり、教会がみえたところで、私は息がとまった。頭に血が上ったような感覚が、目眩を呼ぶ。背筋にじわりとした恐怖が走る。

 あれ。

 おかしい。

 なにが。

 だって、教会を出るときに、柵は閉めたはずで、なんでいるのだろう。

 もちろん、柵はほとんど飾りみたいなものだ。年代ものゆえ、開けようと思えば来訪者にだって開けられる。

 ということは、どういうことだろう。

 だれかがやってきたということだろうか。来客だろうか。それとも珍しく礼拝にきた?

 いやしかし、教会自体の扉は鍵が閉まっている。だから訪れたとしても、中には入れない。出かける際に、私はそうやって木陰さんに──


 木陰、さんに……?


「まさか」


 足もとまる。

 落ち着けたはずの鼓動が勢いを増す。不安がここにきて牙を剥く。嫌な予感がしてたまらない。

 ゆっくり、ゆっくりと、違和感の原因を振り向いた私。その視界を逆らうように、その人は前方へ進み出た。


 こういうときの悪い予感は、得てして、的中してしまうものだ。


 澄ました顔で、木陰さんが私に向き合った。

 教会へ背中を向け、道を遮るように立つ。緩やかな坂の途中で、見下ろすように。いつも以上に穏やかな佇まいで。しかしぶつかった視線には、明らかに敵対の意思が感じられた。

 口元に微笑みを浮かべ、はじめからこうなることをわかっていたと言わんばかりに、彼は立ち塞がるのだった。


「──なに、を、しているんですか」


 静かに問いかけたはずの声に、震えが混ざった。

 冷静な自分が、呆気なく消えていく。

 わかってしまう。理解してしまう。深い思考の必要すらなく、悟ってしまう。この構図がすべてを証明していた。

 三上さんは、なにか良くないことをしようとしている。木陰さんはそれを知っている。

 傍らで眉を寄せていた妹さんも、状況を把握していく。私を中心として空気がぴりついていくなか、彼はあくまで穏やかに声音を発した。


「わるい、ミノリ。いくら君でも、ここから先へは行かせられない」


 その言葉の節々から、彼の真剣さが伝わってきた。頭の奥、蝋燭ろうそくほどだった熱が、存在を増す。

 あなたの夢は終わったはずだ。私たちのあいだに、『魔女を追いかける』という議題はなくなった。ひとつの答えへと至ったことは、私と彼の共通認識だった。

 それを掘り起こした挙句あげくに、今度はなにをしようとしている?

 私は視線を鋭くした。


「いい加減、現実をみたらいかがです? まだあなたは──あなたたちは、夢に浸っているのですか」

「……ヒトは、簡単に『夢』と口にする。子供のころから洗脳するかのごとく『夢は大きく』だなんて言い聞かせる。だけど、強引に抱かせた『夢』から輝きを奪うのは、いつだって強制してきた者たちだ。いくら子供とはいえ、そりゃあ現実を見限るさ。そういうウソを、真実を、ボクらは敏感に捉えてしまう。それでも、無慈悲に苦境へと追いやる奴らは後を立たないのが現実」

「何が言いたいのですか」

「ミノリはそんな大人たちと同じなのかな。亡きヒトを想うという当然な夢でさえ捨てるべきだと、そう断じるかい?」


 遠回しな話し口調。

 手のひらの汗を握りしめて、私は怒りを沸々と高めていった。


「理不尽な大人とは違うつもりです。でも、死んだあの子のためにそこまで捨て身になれる度胸は、はなはだ疑問です」


 夢とは便利な言葉だ。

 解釈の差はあれど、一定の綺麗な響きをもっている。だけど、どんなに取り繕ったって、三上さんの願望は歪で倫理観に欠けている。

 求めるのはいい。

 探して手を伸ばすのも問題ない。

 だけど、犠牲になる結末だけはあってはならない。

 ここまでくるともはや夢でも願いでもない。『呪い』こそが適切な表現だ。


「三上さんには、友人も、妹さんも、親だっているのに、それらをすべてゴミ箱に放ってまで願うこととは思えない。何も成せず、何も取り返せず、もしもただの無駄死にで終わったら……そうしたら、置いてかれた私たちはどうすればいいかわからない。魔女が死んでから、魂が抜けたみたいに無気力になった彼を、私は覚えています。今度はそれだけじゃ済まない。下手をすれば誰もが悲しい思いをする。ただ透明な『死』がひとつ増えるだけ……! なら……なら、そんな賭けに命を差し出す価値なんてッ、」

「君は、ボクに夢を諦めさせたよね」


 言葉をさえぎり、彼が話す。

 空気を鋭利な響きで切り裂いて、中心へと投げかけてくる。俯瞰するがごとく瞳、曇りなき存在感、空気に晒した両手のひら。

 肌にあたる微風は夏そのものなのに、対立は去年の冬を思い出させる。


「たしかに、私はあなたに夢を諦めさせました。三上さんと同じ選択をしたといえます」

「つまり、ボクが魔女の復活のために犠牲になることを、君は拒んだわけだ。エゴともいうべき感情で否定した。その意味を汲み取れないボクじゃない。君はこう言いたいんだろう。『最愛でもない誰かのために命を使うな』って。その理屈で言うならば、君には彼を止める資格はない」

「じゃあ、あなたは許容するのですか! 三上さんが魔女に利用されることを容認するのですか! それが本心なのですかッ!」

「ああ。それが君の振りかざした正義で、同時にボクの譲れないラインでもある」

「…ッ、そんな屁理屈、通るわけが、」


「いいえ、押し通すわ!」


 予想外の声に、背後を振り返る。

 力強く言い放ったのは、なんとシオンさんだった。彼女はいつもと変わらず、不敵な笑みを浮かべたまま、私と妹さんのとなりを横切る。

 そして──木陰さんのよこに並んだ。


「え……?」


 絶句する私の内心と同じ声が、となりからこぼれた。


「諦めなさい! ここからは何人たりとも立ち入らせない!」

「な、なんで!」


 腰に手を当てるシオンさんと、動揺する妹さん。

 ふたりの対立が固まった。


「お兄ぃは何をするつもりなの? 教えてよ、知ってるんでしょ!」

「さてね、私たちはただ善意で動いているだけだから、具体的な策は知らされていないわ! でも、あなたたちは近づいちゃダメ。それだけはわかるの!」

「どうして……? か、帰ってくるんだよね?」

「さあ?」

「約束した! お兄ぃは戻ってくるって言った! そばにいるって、誓ってくれたよ!」

「愚か。その誓いがすべてを物語っているじゃない。優しいウソね。いい? あのガラスを三上春間という男に返すのなら、こうなる可能性を考慮すべきだった。だからはっきり言ってあげる! あなたにその覚悟はなかったの!?」

「──ッ、!」


 妹さんの顔が蒼白になる。

 目を逸らしていた真実に気付かされたみたいな、核心を突かれたみたいな、そんな表情。そして現実から目を背けるように、突然駆け出す。強引にでも突破しようとしたのだろう。

 しかし──体格差には、どうしようもない。


「おっと」

「お兄ぃ!」


 小柄な身体を捕まえられ、勢いを利用しこちらへ放り出される妹さん。それを受け止め、衝撃で小さく呻いてしまう。

 私は転びかけた身体を支えながら、非難の目を向けた。


「っと、ごめん。手荒になっちゃった」

「別に構わない! 私が許す! あなたたちも理解なさい!」

「理解って……このまま死に別れろと?」


 シオンさんの眼光が、細められた。

 本気の目だ。

 はじめて、彼女の本当の感情を目にした気がした。背中にぞくりとした感覚が走り、警戒心が高まる。

 こちらを寄せ付けぬ圧倒的な価値観で、情報屋・片勿月しおりが語りだした。


きたるべき刻がきたということよ、ヨシノ。迷い、悩んだ末に導き出した答えと覚悟を否定することこそ、悪の所業と言わざるを得ない! あなたも認めなさい、エセシスターミノリ! 何もかも綺麗ごとで決着をつけようなどと思わないことね!」

「あ、あなた、どうしてそこまで……!」

「こう見えて私、悪役も好きだから。ちょっと楽しませてもらう! 無論、そんなものは建前だけど! 私には私の正義があり、ソレに殉じているに過ぎないわ!」

「そんな理由でヒトを──」


 きゅ、と服のすそが握られた。

 拳をにぎる私の傍ら、妹さんが不安そうに顔を俯かせていた。悔しそうに、唇を噛んで。それほどまでに、言葉は突き刺さったようだ。

 かつてないほどに切なげな表情で、今この瞬間に大人になろうとしていた。

 打ちひしがれるしかない。

 耐えられるものでもない。

 彼女は今にも泣きそうな顔で、苦しみながらも成長していく。現実という不条理なシステムを受け入れていく。それが人間としての当然の生き方だと、証明する風に。

 やはり──彼らと私たちは、違う。

 シオンさんが告げる。


「考えてもみなさい。彼を取り巻く非日常には、必ず魔女の面影があった。宝石騒動、ステンドグラス事件、そして風鈴による神隠し。全ての事象の大元は、ガラスの魔女」

「何が、言いたいのですか」


 木陰さんが答える。


「三上が選んだ自己犠牲は、魔女の思惑どおりかもしれない。そう言っているんだ」

「そんな、こと、」


 ない、と果たして言い切れるのか。

 自問して、私は口をつぐんだ。


「ボクが魔女の復活に焦がれたこと。ボクが夢を諦めたこと。その後シスターと和解したことも、三上が情報屋と知り合った事も、そして……こうして立ち塞がったことも、きっと魔女の計算のうちなんじゃないかと、ボクは思う」


 以前の私であれば、否定していただろう。「そんなのは希望的観測だ」と。どれも、私たちが悩み、もがき、生きるなかで選び取った些細な一手だ。それをすべて、あの女の子が糸を引いていた?

 馬鹿げているし、狂っている。

 またか。

 また、魔女の差し金なのか。

 そこまでしてあなたは生きたいのか。自分の死後、最も仲を深めた相手を殺めてまで、生に縋っているのか。


「魔女の差し出した手を、あの男は取ると決めた。そう選んだ。ねぇヨシノ。あなたたちはまだ、兄を見たいワケ?」

「……あんな、お兄ぃ……?」


 宥めるようにかけられる声。

 紡がれる言葉は、どれも正論に聞こえた。


「生きたまま時間の止まった兄に、ずっと苦しみ続けろと、そう告げられる? 置いてかれた悲しみを背負ったまま、夢も希望も諦めて、出口のない現実のなか、心の空白を埋めるモノさえ望めない、生ける屍がごとく人生を生きろと、強制できる?」

「そんな、こと……」


 できそうにない。あまりにも。

 たしかに、『死』を乗り越えるのが正しい生き方だ。だけど彼に与えられたガラスの魔女の喪失は、あまりにも現実離れしていて、大きすぎる。

 そんな三上さんに「魔女を忘れろ」と強制するのは……身勝手で、無責任すぎる。

 きっと、彼は追いかけずにはいられない。

 俯く妹さんから、空へ視線を移した。こんなときでもさんさんと照りつける太陽。鬱陶しい深い青色。こんな現実冗談であってほしい。夢ならば熱が溶かしてくれるかと思ったけれど、頭が納得してしまう。


 ──ガラスの魔女は遠すぎる。


 私はあの子を知らない。

 私は彼らの時間を知らない。

 私はあのふたりについて、何も知らない。


 屹然とした態度で立ち塞がる彼らにみえているもの。やるせなさや無力感に追いやられるしかない私たち。

 きっと、この四人でさえ、決定的な差があるというのに。魔女と三上さんは、どこまで行ったら追いつけるのだろう?

 意識の片手間、どこかのだれかへ問いかけたい。純然たる答えがほしい。

 教えてください。

 三上春間──叶わないと知りながらも、正解を求める生き方との差を。

 目を閉じて、再度、ゆっくり視界をひらく。

 真剣な顔で、私をみる木陰さんがいた。


「ミノリ。君は、三上のなんだと思う?」

「……友達です。親友といってもいいくらい、私は彼を信頼しています。あなたの次くらいには」

「そうか。でも、三上と魔女はもっと深い。君と三上より、僕とミノリより、ずっと先で縁を結んでいる。それこそ運命と呼べるくらいに」


 否定できなかった。

 できるわけがなかった。ああ、わかってしまう。彼の言いたいことが。ふたりの立ち位置が。選択が。


「君は、魔女を超えられるかい?」


 超えられない。


「それが答えさ。ボクは夢を諦めたが、手放した訳じゃあない。全部三上に預けた身だ。だからこうして背中を押すのが、『自分』であるために課したルール。一度くらいは、魔女を信じてみようと思う」

「無論、この私も応援すると決めたわ! 想い人が死して約三年、あそこまでの一途を見せられたら、さすがに折れるってものよ!」

「……なんなんですか、あなたたちは……」


 どうして、そんなに強いんですか。

 なぜそんなにも眩しい生き方をするのですか。


「言うなれば。僕らは三上の決意そのものだ」


 私と妹さんにないもの。

 突出したある種の不器用さが、ヒトとしての色彩をつくりあげていた。一片の曇りも許さず、汚れを知らない透き通った在り方。見方を変えれば、レールを踏み外した異端者。

 愛するすべてを守るのではなく。ただひとつの星を掴むために歩く旅人。

 それが──平坦に平均に生きようと努力する私たちとの、決定的な差であり、溝だった。


 アスファルトから立ち昇る陽炎。

 夏の気温とわずかな揺れ、視界のなにもかもが、埋めようのない距離を思い知らせる。

 私か、妹さんか、はたまた両者か。

 息を呑む気配が、その場にもたらされる。


 間違っている、と正しいもうひとりの自分が言い聞かせる。なのに、言葉を失うくらいに、彼らを綺麗だと感じてしまった。


「ミノリ、君に」

「ヨシノ、あなたに……いいえ、魔女以外の何者にも──」




「彼を止める資格はないよ」

「彼を止める資格はないわ」




 痛々しいほど真っ直ぐなふたりをまえに、立ち尽くすしかなかった。

 行き場の失った激情を飲み込んでしまうような蒼が、空から地上を見下ろしていた。

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