3-4

 気づくと世界は、懐かしの風景に置き換わっていた。

 薄暗い廊下。木目の床が灰色の光を僅かに反射し、吹き抜ける風もさることながら、肌寒さから隔絶された記憶の一場面。

 窓に覗く向こう側では、黄色く変色した広葉樹がを受けていた。校舎の影になっているせいか、ここは一層の暗闇に包まれていることがわかる。

 廊下に貼られたポスターに目がとまる。

 近々催される文化祭のお知らせだ。テーマに『友情』などというありきたりで何度も耳にした単語が据えられている。記憶をたどり、今立っているここは三年前の秋ということがわかった。

 俺と魔法使いが出逢ってしばらく。彼女との付き合い方が板につき、人生の短さを知らしめられて最初の秋。

 今度はなんの記憶を消したのかと、俺はひとり考え込んだ。


 と、呆然と立ち尽くしたままでいたところに、突然背後からガタンと音がする。

 これだけ喧騒から遠い場所だと、物音はとても大きく聞こえる。

 振り返った先──角を曲がったところには、だれもいない。唯一目についたのは、階段下の用具庫くらい。

 近づき、ドアノブに触れようとして、手首が透けてしまう。すこしだけ驚きつつも、俺はゆっくりと足を踏み入れた。


「……ッ、」


 どすん、と背中から叩きつけられるように、壁へ追いやられる魔法使いがいた。

 声にならない痛みを訴え、ぐったりとしている。見慣れた魔女帽子はなく、乱れた髪が凄惨せいさんな現場を物語っていた。

 取り囲む二人の人影のうち、茶髪の方が抵抗しない彼女の胸ぐらを掴んだ。無理やり引き寄せ、振りかぶった拳が魔法使いの頬を殴る。

 鈍い音とともに、モップの山に埋もれてしまう。雑然とした校内の穴、そこは主に掃除用具や使わなくなった机、椅子の掃き溜めだ。埃を巻き上げながら、そこへ彼女の身体が倒れ込む。

 思わず目を背けたくなるほどの光景。止めたくても止められない、触れられざる過去。頭に血がのぼり眩暈がするほどの衝撃が貫いて、しかし足は床に貼り付いていた。


「いつもいつも見下したような態度しやがって」

「ねえ聞いてる? 前にテルノリには近づかないでって言ったよね」


 なにも答えない魔法使いに、ふたりの女生徒は苛立ちを露わにする。そして、投げ出された脚を軽く蹴った。


「……そんな男、知らない、って、言ってるでしょ」

「あ?」

「たかが同じ委員会ってだけで、つまらない妄そ──あぐッ」


 絞り出された声が否定するも、鳩尾に蹴りが入ったことで途切れてしまう。

 ふたりは声自体が気に入らないとばかりに目を細め、髪をつかんで上を向かせた。


「は、は、……こちとら、はぁっ……有名なサボり魔なのよ……」

「チッ」


 ガン、と床に顔面を叩きつけられる。再び顔を持ち上げられた魔法使いは、鼻からツゥ、と血を流していた。

 はやく終われとでも言いたげな瞳。無気力に、目の前の二人組を嘲笑う表情。唇の端は切れ、さらに赤い血を滲ませていく。それでも不敵な笑みをやめず、魔法使いはふたりを見下していた。

 それが彼女らの怒りを誘ったのか。投げ倒すように魔法使いの身体が突き飛ばされ、倒れ伏してしまう。


「ん」

 

 黒髪の女生徒が茶髪の女生徒に青バケツを預けられ、出ていく。それからも何度も殴られ、蹴られ、うずくまった魔法使いが呻き声をあげる。

 薄暗い室内。低い天井。

 どかり、苦痛。どかり、苦痛。

 反響して、無意識に呼吸を止めてしまう。打撃音のたび、押し殺した声が傍観者の全身をつらぬいた。

 怒りでどうにかなりそうだ。

 今すぐ間に入って、感情のままに暴れてやりたい。だが「これは干渉できない過去だ」と知っている理性が押しとどめ、結果、俺はそこに縫い付けられたように動けない。

 やめろ、と無言で懇願する。

 同時、なぜ魔法を使わないのかと訝しんだ。

 チカラはあるのに、魔法使いはされるがままに痛みを受ける。くぐもった苦痛に、彼女が背中を丸めている。

 俺はそれが、許せない。

 ただでさえ先が短い魔法使いにこんな仕打ちをする世界が、許せない。

 相反する感情が、骨のずいからきしみあげるようだ。


 ばしゃり、と。


 まれてきたバケツの水がかけられた。顔もあげなくなった魔法使いの制服が滲み、くすんだ髪色から水滴が滴り落ちた。

 一回。

 二回。

 三回目にして、ようやく水責めは収まる。


「さっさと帰れよ、サボるの好きなんだろ」

「やば、サヤ。お昼時間なくなっちゃうよ」

「ああ、うん」


 思い出したように二人がつぶやくと、最後に汚い罵詈雑言を吐き捨てて、ふたりは消えた。黒板を引っかいたみたいな笑い声が、遠くの喧騒へ紛れていく。

 もはやそいつらの声は頭に入ってこない。どうでもよかった。

 後味のわるい静寂。

 今はただ、どうにかしたくて、どうにもできなくて、身じろぎもせず潰れた魔法使いから目が離せなかった。

 できるなら、声をかけて話したい。

 なぜやり返さなかったんだと問い詰めたい。だけどそれができない。ここにいるのは、ただ幽霊のごとく眺めるしか能のない、無力な自分。

 かつて、こんな現実を、彼女はすこしでも覗かせただろうか。いや、一度だってない。いつだって、自由気ままでツンとした態度で、真っ直ぐで透明な佇まいで生きていた。

 彼女が死ぬことを諦めたように見えたのは。もしかしたら、すでに現実を見限っていたからなのではないかと、今更ながら思い至る。


 やがて、彼女がむくりと身体を起こした。

 そして虚空をみつめ、ぼそりとつぶやく。


「……ハルマ」


 ここにきてようやくハンカチで鼻を押さえ、立ち上がる。身体に意識をもどしたように、いつもの彼女がそこにいた。


「ッ、くそ女、」


 上を向いた魔法使いは毒を吐きつつ、目を閉じた。そしてちいさくなにかをつぶやくと。

 ゴキリ、と鈍い音が走り、魔法使いが悶えた。抑えた鼻から、ゆっくりハンカチを外す。


「ぁッ、……く、痛った……。はぁ、誰よテルノリって、探してぶん殴ってやろうかしら」


 それからしばらくして、鼻血は止まったようだ。魔法使いは濡れたスカートをしぼり、ワイシャツを払い、手櫛で髪を整えた。

 それからびしょ濡れな全身と用具庫を眺めて、深いため息をつく。ごそごそと懐からポーチを取り出し、中からなにかを取り出した。

 薄っぺらいカード──いや、硝子製の小皿だ。かと思うと、ソレは途端に歪み、より立体的な構造に変化した。筒状のコップへと生まれ変わるその様は、粘土がひとりでに丸まったようにも見えた。

 当然、目を奪われる俺になど気づくことなく、魔法使いは慣れた手つきでその場を片付けていく。こうしてまじまじと見るのは久しぶりだった。

 コップを手に持った魔法使いは目を閉じ、息を吸って、止めた。

 すると、彼女に変化が訪れる。


「──、」


 濡れた服。冷たさを吸い重さを増した布が、徐々に水気を逃していく。

 上の方から、染みが消え去り、もとのシワのない制服へともどっていく。同時に、コップの中は水が溜まっていった。

 水を滴らせていた髪も、ドライヤーを当てたまではいかないが、さらりと流れるくらいまで乾きを取り戻す。

 妹の記憶を奪った魔法を思い出させる。だが、今回のは物理的なものなのだろう。あっという間に魔法使いの服装は自然さを取り戻していた。



◇◇◇



 水道でコップの水を捨てた魔法使いは、その足で技術室へ向かった。

 技術室は一階の端っこにある。用具庫から校舎のなかを突っ切るように、歩いていく。昼食を食べ終えた生徒が行き交う廊下。そこを、無関心そうに背中が進む。

 こうして普通に歩いてる彼女は、なんだか新鮮だ。

 さきほどの一部始終は未だに許せないけれど、何気ない顔で動く魔法使いをみると、すこしだけ胸を撫で下ろしてしまう。

 魔法使いが目的の場所へ着くころには、周辺から人の気配は消えていた。この棟は音楽室や調理室などが集まっているため、自然、生徒の溜まり場からは遠くなる。今ごろ、穏やかな昼休みを過ごす連中は体育館か図書館、もしくは自分の机で居眠りだろう。

 こんな辺鄙へんぴな場所を溜まり場にしているのは、俺と魔法使いくらいなのだ。

 きゅ、と上履きを鳴らして立ち止まった彼女の頭上には、『技術室』のプレートが掲げられていた。

 白い木製の戸は開け放たれている。

 魔法使いは身体を傾け、なかを覗き込んだ。


 中庭へ向かうルートはいくつかあるが、主にはふたつだ。

 ひとつは、中庭の端に通った渡り廊下。対面の棟へと向かうためには有用な通路で、隅の細いスペースから校舎の壁伝いにあるけばあのベランダへとたどり着く。

 もうひとつはここ、技術室を突っ切るコースだ。

 こちらは技術室の主である先生が善意で解放してくれている。つまりおおやけに解放された道だ。今にしてみれば、俺たちの存在を知っていて開いていたとしか考えられなかった。

 さて、魔法使いは一度覗いていた身体を戻すと、懐からいつもの魔女帽子を取り出した。

 真っ黒でツバの大きい、とんがり帽子。それを目深くかぶると、がさごそと身なりを整え――ぱちんと指を鳴らす。

 その行為は何度か目にしたことがある。たしか、他人から気づかれにくくなる魔法だったはずだ。


 満を持して、魔法使いは技術室へ踏み込んだ。

 心なしか足音も抑えて、ゆっくりと中庭側の引き戸へ向かう。

 ついていくと、テラスに備え付けられたベンチにはすでに三上春間の背中がある。

 扉の前で指を振る魔法使い。カタンと開くロックのまわし。そしてゆっくり扉をひき、彼女は日陰のベンチへ向かう。

 今の彼女は気配を消した状態。このまま近づいて驚かす算段だろうか。

 しかし、その目論見はあっさり打ち破られた。


「今日は遅かったね」


 残り数メートルというところで、過去の自分が声をかけた。

 視線は変わらず本に落とされたままだ。こいつは気配だけで、魔法使いを感じ取った。

 昔の自分はこんなにも勘が働くやつだったのかと、すこし驚いてしまう。


「……野暮用を、ね」


 魔法使いはぶっきらぼうにそう言って、ヅカヅカと隣へ腰をおろした。

 すこし不機嫌を露わにしたが、すぐにそんな雰囲気は霧散する。


「いい天気ね」

「ああ、いい天気だ」


 そうして、いつもの時間がはじまった。




 緑のカーテンは相変わらずだった。

 昼下がり、日光の降り注ぐ中庭。ぽっかり浮かんだようなこの場所は、今日も不規則な避難所を創りだしている。

 喧騒は校舎に阻まれ遠い。

 ぺらりと捲られる本の一頁、時たま挟まれる炭酸の音。

 現実の惨さを忘れさせるほどの平和がやってきて、俺も『三上春間』も、もちろん魔法使いも羽根を伸ばした。この時間は、過去の映像としても幸福に満ちていた。ぼんやりと見守る未来の俺でさえも、ずっとこのまま続けばいいのにと願ってしまう。


「……」

「……」


 ──魔法使いの横顔を、俺は凝視してしまう。

 君は、とても隠すのが上手い。哀しいほどに、泣きたくなるほどに、上手だ。

 脳裏をよぎる数分前の記憶。ウソであってほしい過去の真実を、きっと魔法使いはだれにも告げなかったのだろう。

 君は強い。とても澄んでいて、自分だけの生き方を持っている。たとえ刹那の年月だろうと、こうして『三上春間』に傷をつけた。決して消えない、深い、深い呪いとして。

 それだけに……このなにも知らない自分の姿は、己の不甲斐なさを象徴しているようで死にたくなる。

 運命とやらは悪戯だ。どれだけ足掻こうとも、抗おうとも、その機会を与えるのはいつだって気まぐれ。そのせいで三上春間は、きっと多くのことを見落としてしまっているのだろう。

 俺は、君が幸福に生きてさえいれば、なにも要らないのに。

 ……この世の中は、かくも生き難い。

 折り重なった正義とエゴ、一歩踏み外せば敵と見なされ、溶け込めば不協和音。

 だけど、日常に設けられた不恰好なベンチは、ふたり専用の空間で。どうしようもなく幸福に満ちていて。互いの息づかいも、距離感も、共有した秒針の運びも──すべてが、息苦しさを忘れさせる。

 やはり俺は、魔法使いとの時間が好きだ。


「口、どうしたの?」


 蒼矢サイダー何口目かの魔法使いが、ぴたりと動きをとめた。顔をしかめると、キャップを閉めて黙り込んだ。

 意識を向けるように、三上春間が本を閉じた。横目で問う瞳を彼女はみつめ返し、けれどすぐに俯く。口を拭うが、赤みは消えていなかった。


「ちょっと、虫が突っかかってきただけよ」


 無言で考え込む三上春間。魔法使いの返答に踏み込むべきか図りかねているようだ。

 その様子をみて、なるほど、と俺は合点がいった。

 気づかなかった、ではなく。気づいたけどなかったことにされた。こうして風鈴のみせる光景として再生されているのが何よりの証拠だ。

 きっと、魔法使いは弱さを隠す。気に入らないことを隠す。いつかの彼女は屋上で明かした。

 『あなたの前だから虚勢を張っていた』と。

 魔法はそれほど万能ではない。魔法はそれほど綺麗ではない。穴あきバケツの異能を行使する自身を取り繕うために、ウソの姿を貼り付けた。

 おそらくコレもそのひとつ。そうして消された記憶の一片だ。


「そんなことより。今日はあなたに訊きたいことがあるの」

やぶから棒だね」


 魔法使いは意識してか、腕組みをして目を閉じた。話題をそらすついでに、言葉を整理したようだ。ゆっくりと瞳をあけ、彼を見つめる。


「夢、ってある?」


 前向きに生きろと強制する大人たち。そのだれもが好みそうな響きを、彼女が口にする。

 もうひとりの三上春間は数秒固まったあと、すらりと返答をかえした。


「ない」


 その答えに、魔法使いはうんうんと頷く。


「それでこそ」


 口元に笑みを浮かべるあたり、満足のいく言葉だったらしい。

 どうやら、というか想像どおり、魔法使いはひねくれものだ。俺と同じく、綺麗事のように語られる人生の歩み方を、心の奥で適当に流している人種だ。

 この点は今の俺も変わらない。むしろこの時期よりもはるかに、未来への展望は薄まっている。

 ……もちろん、考え方を否定しているわけではなかった。ただ周囲の人たちほど、輝かしい希望は持てないだけ。この穏やかな日々がいつまでも続いているだけで、俺はよかったのだ。


「考えてみたわ。夢ってやつ。進路希望には空欄で返すけど」

「要は、魔女の秘密ってことか」

「知りたい?」


 身を乗り出して、彼女が不敵な笑みを向ける。

 それが癪でもあったのか、三上春間は毒づいた。


「君の夢は、『夢』というより『野望』ってカンジがする」

「き、聞くまえからなによぅ……でもいいじゃない、『野望』。ふふっ」


 魔法使いがくすりと笑った。

 緑の天蓋を魔女帽子の下から見上げ、気分を良くしたみたいに復唱する。


「野望、野望……夢は儚いものって印象が強くて、叶いそうにないけど。野望ならしっくりくるわね。是が非でも達成してやるって響き」

「それを誰かに聞かせるとなると、もう『誓い』だな」

「野望を達成するという誓い? あなた詩的な表現するわね」

「本を読んでたからかな」

「ま、あながち間違いでもないかも。ハルマの指摘はとても的確。私の夢は他人が掲げるほど大層な代物じゃあないし、聞かせるのはあなたがいい」


 ニッ、と不敵な笑みを浮かべる魔法使い。

 対する彼の方はというと、結局そうなるんじゃないかと呆れていた。


「ちなみに俺の拒否権は」

「あるわけないでしょ」

「ですよね」


 早々に諦める三上春間。

 すこしだけ魔法使いの方へ身体を向けると、手のひらを差し出した。

 どうぞ、と。

 その仕草に魔法使いは軽く笑って、躊躇なく誓った。


「いつか、本当にいつか……私は真正面から、あなたに名前を明かしたい」


 ああ、思い出した。

 実を言うと、当時の俺は本名は知っていたりする。しかしこうして風鈴の音に見せられているということは、きっと全部――。


「……ソレ、誓いになるのか? 名前を明かすなら今でも良い気がするが」

「それじゃ味気ないじゃない。物事には順序ってものがあるの。それに私は特別な思い出がほしい。わかる?」


 首を傾げる俺に、魔法使いは詰め寄った。


「私は魔女で、あなたはそんな人間と時間を共有する相手。今でもとっても素敵な時間ではあるけれど、すこしでも新鮮で印象深い思い出にしたい」

「その目的と名前を教えないことになんの関係が?」

「私、あなたに『魔法使い』って呼ばれること、結構好きだもの。わかったら名前を探らないこと。迂闊にも気づいてしまったなら頭を打ち付けて忘れること。いい?」


 彼は「理不尽だ」という表情をした。俺もそう思う。だけど並べ立てられた言葉はどれも魔法使いらしい響きで、胸を打たれた。

 名前を知ってもらうこと、ではなく。名前を告げる過程に重きを置いた誓い。

 ヒトとヒトが関係性を構築するにあたり、当然のように交わされる規則。名前を明かし、名前を明かされる、初対面の短い交換。それが、ガラスの魔女と俺にはなかった。

 魔法使いはこれでも同じ学校に在籍する生徒である。彼女が釘を刺したように、知ろうと思えばやりようはいくらでもあるだろう。だがそれでは意味がない。

 ――出逢った夕暮れの教室で、俺はすでに名前を明かしているけれど。魔法使いは『魔法使い』という呼び方だけを返していた。

 三上春間という個人にとっては些細なことだ。

 彼女が彼女として生きているのなら、呼び方なんて差し置くくらいには。だけど、彼女はそういった些細な不明瞭こそ居心地がいいらしい。

 覇気がないだけの少年と、大きい帽子を目深くかぶった魔女。

 ベンチに腰掛けるシルエットは、なるほど確かに現実的ではない。特別な日々の連続であったと胸を張って言える。それを魔法使いもが望んでいるのならば、俺はきっと、多少なりとも喜びを感じるだろう。

 それを証明するように、彼は答えた。


「……じゃあ、これはその証だ」


 ごそごそと、傍らに隠すように置いていたモノを取り出す三上春間。それをみて、魔法使いが目を丸くする。

 炭酸のペットボトルなら二本くらいは入りそうな紙袋。中身はそれほど大きいものではないだろうが、底の膨れ具合からして、それなりの重さがあることが見て取れる。


「え、は……私に?」


 おずおずと受け取る魔法使い。彼の顔と袋で視線を行ったりきたりして、困惑していた。「なんで」と頭上に疑問符を浮かべる彼女へ、三上春間は言った。


「俺は君の誕生日を知らない」

「……」

「知り得ている情報は、天秤座であることくらいなんだ」


 短く、けれどはっきりと付け加えられた言葉に、ぱちくりと魔女帽子の下の目がしばたく。

 そして、何も言わず袋の口をつかみ、びり、と音を立てた。


「ちょっ」


 止める間もなく開封してしまう魔法使い。渡した本人は顔を覆い、ため息をついた。

 確認すら挟まないあたり、とても彼女らしいと俺は思う。まぁ、目の前で反応を拝まなければならないコイツにとっては災難でしかないが。

 紙袋から取り出した手のひらには、ふたつの品が乗っていた。

 ひとつは細長い箱。フィルム越しに細長い杖みたいな物体が覗いている。透明さに夜を落としたような紺色の軌跡が交ざり、装飾が施された輪郭の奥で交差していた。

 渡した張本人でさえソレが何なのか掴めなかった──記憶にないから。しかし一緒に転がりでた黒インクの瓶をみて、すべてを察する。

 閉じ込められた記憶が、「お前の過去だ」と浮上してくる。わずかな頭痛とともに、俺の過去が訴える。

 まるで数年ぶりに水を得たような感覚。


「ガラス、ペン……」


 ぼそりと口にした魔法使いに、かつての自分が首の後ろをさする。


「なんで、コレ、」

「インクは黒だけで申し訳ない。そこは謝る。もし他のインクが使いたかったら自分で買い足してくれ」

「……」


 魔法使いは唖然としている。目を見開いたまま、澄んだ色のガラスを見つめた。

 対して、どういう反応なのか図りかねて目をそらす三上春間。

 そんなふたりを眺める自分。

 日常の喧騒から外れた、中庭の静寂。ぽっかりと空いた穴のように。カシリとズレたレールのいち空間のように。そよ風が頬を撫で、無言の静寂が辺りをみたす。

 遠くで休み時間の終了五分前を報せるチャイムが聴こえる。しかしどちらもそこを動く気配はない。

 十秒。

 一分。

 三分。

 隙間時間は、ふたりだけの思い出だ。欠けた未来の俺自身も、今では鮮明にこの出来事を思い出せるくらいに印象的だ。

 だが、なぜこの記憶を消したのかがわからない。思い出せない。解答用紙の解答欄だけが靄で覆われていて、この先に意味があるとわかってしまう。

 見逃すことは許されない。俺は彼女から目を離せなくなっていた。

 その魔法使いは抱えたガラスペンとインクを大事そうに握りしめたあと、傍らに置く。

 そして。長く感じられた沈黙を静かに薙いで、立ち上がった。


「……魔法使い?」


 魔法使いが彼の前に立つ。

 顔に影が落ちる。


「……」


 無言。

 魔女帽子をみあげ、三上春間が小首を傾げた。

 訝しむその表情は理解できる。緑の天蓋のした、一層深い翳りで彼女の顔は確認できないが、無言で見下ろす佇まいは傍目にみても不自然で。ガラスを司る魔女には失礼な贈り物だったのではと、俺でさえも憂慮した。

 しかし、事実は異なる。

 隠された過去。そこにはなんであれ理由がある。もう思い出さないように。もしかしたらそんな願いすらも込められていたのかもしれない。だが、こうして目の当たりにされる以上、きっと振り返ることを彼女も望んでいるはずなのだ。

 だから、きっと意味はある。とても深くて難解な、意味が。

 そんな些細な期待に、魔法使いは行動で応える。


 ――声もなく。


 突如として、その光景は飛び込んできた。



「──ん、――、?」



 一瞬、なにが起こったのか理解できなかった。

 俺も、三上春間も、言葉を失う。

 目に映る瞬間に呼吸も忘れてしまう。


 かがんだ制服。

 流れたくすみ色の髪。

 逃がさないとばかりに捕まれた、背もたれの肩。

 音もなく近づけた顔を、大きい魔女帽子が隠す。その行為がなにを示しているのか悟れないほど、俺は無知ではない。思わず自分の口を指で触れてしまうほどに、インパクトのある行動をみせられる。


 唯一続いていた会話が、ぴたり途切れる。

 ──口が塞がれたから。


 反射的な抵抗が、強く押さえつけられる。

 ──魔法使いによって。


 陽を和らげ、さわさわと天幕がそよぐ。

 ──吐息にすぐさま上書きされる。



 持ち上げかけられた彼の腕が、脱力した。魔法使いが膝をベンチへ乗せ、さらに追い詰める。

 信じられない。

 あり得ない。

 いや、記憶が消されていた理由があるのは予想の範疇だ。でも、こんな過去だとは思いもしなかった。

 なおも密着し合ったままのふたりが、かつての自分が通った道。魔法使いはさらに深くベンチに乗り出して、ついには両膝立ちで覆いかぶさっていた。

 ずきずきと衝撃の事実を受け入れていく頭。

 魔法使いは恋愛感情を持ち合わせていない。

 魔法使いは他人に好意を持たない。

 いつだって彼女は、透明な佇まいを維持して生きていた。だれにも屈さず、だれにも媚びず。孤高の体現として、俺を連れまわす気分屋のはず。

 そんな理由のない根拠が、瓦解していく。身勝手な決めつけが崩れていく。真実は目眩とともに染み込んでいく。


「待っ、……、」

「、ふ──、ッ」


 身じろぎをする自分を、彼女が支配する。

 木陰は言った。魔法使いは俺に魔法をかけたと。

 シスターは伝えた。彼女の執着を舐めてはならないと。

 それらの動機は、彼女がただ生き返りたいがため。そう考えていた。

 けれど、今すべての辻褄つじつまが合う。閉じられたフタが開け放たれて、納得という線が繋いでいく。

 どうして、今まで気づけなかったのだろう? きっとそれも、魔法使いの呪いなのだろう。


「──はぁっ、」

「はっ、ぁ」


 数分にも及ぶ急接近が終わった。

 顔を離した魔法使いと彼の切らした息が、ようやく庭に音をもたらした。

 驚き、「なにが起こったのかわからない」っといった顔の三上春間を、魔法使いが肩を上下させながら見下ろしていた。


「な、にを……」

「っ、」


 懲りもせず、覆い被さろうとする魔法使い。ベンチの上、馬乗りのまま再開しようとした──ところを、止められる。


「落ち着けっ」

「!」


 彼が肩をつかむと、息を荒げた彼女も諦めたようだった。

 ぱさり、魔女帽子が落ちる。

 顔を上げた魔法使いの瞳をみて、彼は口をつぐむ。

 それも仕方ないことだ。相手が魔法使いでなくとも、戸惑うだろう。

 だって。


「……魔法使い、お、怒ってる?」

「……、っ、」

「もしかしてガラスペン、気に入らなかっ」

「なわけ、ないでしょ。あなた殺されたいの?」


 わけがわからない、と彼は戸惑いの表情を濃くした。何か気に入らないことがあるはずなのに、魔法使いは否定する。傍観者である自分にも原因は掴めない。

 ……ここまでのいきどおりをみせたことなど、一度もなかった。

 魔法使いのことだ、本当は色々と感情を出しているんだろう。でもそういうときは魔法でズルをしてでも、仮面を貼り付ける性格だ。感情を押し殺すのは造作もない。

 だが、今みせられている魔法使いは隠していなかった。ありのまま、眉根を寄せて不機嫌さを晒している。顔をしかめている。その様に俺たちは言葉を失う。

 理由は不明だけど、こんな風に傷つけてしまったことが哀しかった。

 唯一無二の宝物を目の前で破られたように、彼女は口を開いた。静かな苛立ちのこもった声が、静寂を震わせる。


「なぜ拒むの。あなた、私のこと、好きなんじゃないの」


 三上春間が、目を見開いた。

 喉からなにかを口にしようとしたが、それが言葉になることはない。

 魔法使いは構わず続けた。


「少なからず想ってくれてるんじゃないの。どうして拒むの」

「それが、怒ってる理由?」

「ちがう」


 違うとなると、もうお手上げだ。

 ガラスペンは気に入っている、口づけに対する態度でもない。じゃあ何が原因なのか。過去の自分も今の自分も考えが至らない。

 例えこうして俯瞰する俺に記憶が残っていたとしても、理解はできなかっただろう。かつてないほど感情を露わにする魔法使いに、ふたりの三上春間はただただ言葉を失うばかり。

 どこで間違えたのだろうか。

 なにがいけなかったのだろうか。

 どうして魔女にこんな顔をさせておいて、その原因がわからないのだろうか。


「……こんな綺麗なもの贈られたら、もう、手放せないじゃない」


 そうこぼしながら、魔法使いがベンチを降りた。魔女帽子を拾い、軽く払ってから頭にかぶる。

 いつもより目深く、顔を隠すようにして。

 そして、複雑な表情で向きなおる。


、選んでほしくなかった」


 痛い。

 とても、痛い。

 心の奥に、ガラスのナイフが突き立てられるようだ。足の裏にざく切りの破片があってもおかしくないぐらい、その光景が痛くて仕方ない。

 俯く魔法使いと、理由もわからず言葉を失う過去の自分。向かい合うふたりが、傍観するこちらにも虚しさを伝えた。



「……ごめんね」



 微風に紛れた声に、ハッとする。

 意味の追求もできず固まる彼に、謝罪の声がかけられる。

 魔法使いはどこか悔しげに、みえない痛みに耐えるように、ただ視線を落としていた。ぎゅ、と拳が握り込まれていた。

 幾度と聞いたその言葉。

 君が生き残る方法を探るたび、こぼされた小さな響きの深さが、今理解できた。



 俺に向けて言っていたのか、魔法使い。



 彼女が垣間見た未来の三上春間。

 過去の俺ではなく、傍観者として立つ現在へ向けて。あるいは、これからの自分へ向けて。

 思い返せば当然だ。君はすべてを知っていた。三年前の天体観測以前から知っていた。俺がこれからどうするのか、何を成そうとしているのかを。

 ──『もう一度だけ、会える』。

 すぐさま再生できるくらいには、印象的な一言だった。


 微風が木の葉を揺らす。

 視線のさき、ふたりは無言で向かい合っていた。


 そこはかつての中庭。

 切なさで満ちた、無意識という引き出しの奥。


 ──りん、ちりん──。


 タイミングを見計らったように、現実への導きが手を伸ばした。思い出の情景をちりん、ちりんと微かな響きが連れていく。

 納得感と無力感に包まれて、今の自分が浮上し始める。


 魔法使いが、三上春間の顔前に指をかざしたところで。





 俺の意識は、ぷつりと途切れた。


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