92限目 何がとは言わないが!
金曜日、今日はなんと……名倉さん宅に行くことになった。俺の住んでる家が二人暮しで狭いというのもあるが、でっけぇ家だ。たむたむの家も大きくて綺麗な家だなーと思ったが、この家はテレビドラマなんかに出てくる金持ちの家って感じだ。
「上がって」
「お邪魔します……」
緊張しながら玄関でそう言う。話し声なんかはせず、人気のない家だった。お手伝いさんなんかがいるんじゃないかと思ったが、そんなことはないのだろうか。名倉さんの部屋に行くまでの間に誰かに会うこともなかった。お父さんはもちろんのこと、お母さんも仕事だろうか。社長夫人として専業主婦なのだろうと勝手に思っていた。
さておく、なぜに本日ここにいるのかと言うと……。
「さて、と」
名倉さんは鞄を置くと、その中から教科書類を取りだした。…………あと2週間で、後期期末テスト。つまりテスト勉強である。
今日最初に「今日は私の家に来て欲しい」と言われた時は、まだ早くないかと言わんばかりの顔をしてしまったが、その後名倉さんに「テスト勉強、必要でしょ?」と笑われてしまった。何をとは言わないが考えてしまったのは俺だけだったらしい。何をとは言わないが。もっとも、固まった俺を前に妖艶な笑みを浮かべた名倉さんには、俺が何を考えたか分かっただろう。そんなことで表情が変化するような女ではないのだが。その上そのあと耳元で、かわいい、と呟かれた。悪かったな、何がとは言わないが丸出しの思考回路でと言いたくなったが我慢した。何がとは言わないが!
そんなことより目の前の教科書である。もうやる気が死にそうだ。
「……失礼を承知で言うけど……」
「あら、何?」
「名倉さんって俺に教えてる暇あるほど勉強できるの?」
そう、ご存知の通り俺の成績はかなりダメな方だ。たむたむや馬渕は成績がいいので俺に時間を割いてくれたが、名倉さんにその暇があるとは限らない。その点で俺に教える余裕が確実にあるメンヘラは、恐らく恩塚さんだろう。成績のせいで家族に蔑まれているとの事だが、それは恩塚さんの両親と兄がめちゃくちゃに頭いいだけで、恩塚さん自身この学校ならトップクラスの成績なのだから。正直なところ、もっと上の学校だって目指せたはずだ。中三で同じクラスだった俺にはわかる。……まぁそんな彼女が俺と同じ学校に進んだのは間違いなく俺がここに決めていたからなのだが……。
「私前回のテスト、全科目90以上取ってるから大丈夫よ」
「……ならいいけど」
本当はもちろん、『その点数なら俺構ってないで自分を優先して』と言って逃げようと思っていたのだが、全科目90では逃げられない。めちゃくちゃ頭いいんだな名倉さん……。
「さて、そろそろ誓約書の内容を利用しようかしら」
「へ?」
「キス、拒絶禁止でしょ? 覚えてるわよね?」
それはもちろん覚えているが……。
「……テスト勉強なのに?」
「ええ、そうよ? これから陽向くんに、この問題集にある問題を出します。答えが分からなくてヒントが欲しかったら、キス1回につき1つヒントをあげる。どう?」
うわーーーー出られない部屋だぁーーーーー! 吾妻に教えたら興奮しそう! リアル出られない部屋を体験する日が来ようとは! 全くもって嬉しくない!
「…………」
「渋るの? 誓約書の内容を反故する気?」
「っ……し、しない」
俺がノーヒントで解けばいいだけだ。そう言い聞かせて俺はペンを取りノートを開いた。
──3時間後、ようやく俺は部屋から出ることが叶った。キスは結局何回したか数えていない。やはり俺に数学の問題をノーヒントは無理があった。当たり前だ。前期中間テストの時中学で躓いた所を馬渕とたむたむの協力を得てそれとなく復習したものの、不安が残ってないわけではない。そんなこと名倉さんは知らないから、問答無用で難しい問題を提示してやらせてきたのだ。
唯一幸いなのは、来週のデートはテスト期間に向けてなしになった、ということか。今日からテスト期間までは名倉さんに付き合う必要がない。帰り道を歩く俺は、開放感から大きく溜息を吐き出した。
バイトも休みを貰っているので、既にいつものメンバーで勉強をすることも決まっている。いつもいつもテストが近づくと憂鬱になる俺ではあるが、今回ばかりはこのテスト期間に感謝をするのだった。
「何だかんだ名倉さんとは上手くやってるよなぁ、お前」
流石にたむたむ宅はお兄さんがピリついているということで、本日俺たちは佐々木家にご厄介になっていた。佐々木の部屋は机が勉強机しかないため、俺たちはリビングを借りている。
勉強道具を取りだしながら言われたたむたむの言葉に、俺は苦笑いを零した。
「思ったより無茶ぶりはされないからな」
「キスはしたん?」
「…………した」
「ファーストキスが誓約かぁ」
「ふぁっ……ファーストキスは愛だから!」
「どうせ幼稚園とかのキスだろそれ」
「そうだけど!」
「はいはい、いいから教科書とノート開け」
馬渕が溜息を吐き出しながら言い、俺はまだ真っ赤な顔で、たむたむと佐々木はまだニヤニヤしながら教科書を開いた。
「俺は前と同じく結城の面倒見るわ」
「おっけー」
「毎度毎度済まない……」
やるべきは数学……だが、実際のところ、数学は昨日やりまくった。おかげで、馬渕が想定するより俺は問題が解けているようで驚かせてしまった。
「すげー……解けると思わなかった」
「これは昨日やりまくったんだよ……」
「あー……お部屋デートって勉強会だったのか」
馬渕が納得したように笑い、それならと別の教科書を開いた。前回補習になった物理だ。馬渕、本当にいいのか、自分の勉強をしなくても……。
暫くして、リビングと併設されているキッチンに佐々木のおばあさんと思しき人が入ってきた。俺たちを見てにっこりと微笑むと、冷蔵庫から2Lペットボトルのお茶を取りだし、コップに注いだ。お盆に乗せ、俺たちの前に置いてくれる。
「お勉強頑張ってて、偉いねぇ。お茶飲んで、ゆっくりしてね」
「ありがとうございます」
「どうもすみません。いただきます」
「お昼ご飯そろそろ作り始めるけど、みんな嫌いな食べ物とかあるかしら?」
「特には」
「俺も大丈夫です」
「なんでも食べます」
「そう、良かった。腕によりをかけて、美味しいの作るからね」
うーん、佐々木のおばあさん、のんびりしてていい人。俺も自分のばあちゃんは好きだけど、あまり会う機会がないから同居してる佐々木が羨ましい。
それから暫く、リビングにはハヤシライスの匂いが漂ってきていた。ハヤシライスか、かなり久々に食べるような気がする。二人暮しだと1度ハヤシライスを作ると続いてしまうから、あまり俺は作らないのだ。シチューやカレーも同じ理由であまり作らない。せいぜい姉ちゃんが帰ってきた時くらいか。それにしても、いい匂いのせいで空腹が刺激される。それはみんな同じなのか、4人の腹から同時に間抜けな音が鳴った。クスクスとおばあさんが笑っている。
少しして、炊飯器からご飯が炊けたのを知らせる音がした。ということはお昼ご飯だと全員の思考が一致して、俺たちは一斉に勉強道具を片付け始めた。
「さぁさ、みんな手を洗ってきて」
「はーい!」
佐々木に洗面所まで案内され、手を洗ったあとリビングに戻った時には既にご飯の準備が出来ていた。佐々木の父は出張が多いため家にはおらず、お母さんはパートに出ていて、ご飯は俺たちと佐々木のおばあさんの5人で摂ることになった。
「いただきます!」
声を揃えて挨拶をする。肌寒い季節を感じる体に、暖かいハヤシライスが染み渡るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます