元公爵令嬢、村人に嫁ぐ

瀬尾優梨

本編

ダンの場合①

 グレンデイル王国の南の国境沿いに、テッドという名前の村がある。

 一年を通して温暖な気候で作物の実りもよいこの地域で収穫された作物は、王都で取引される。テッド村も例外ではなく、国境沿いでならず者もよくうろつくこの村の生活のために村長が交渉した結果、名門公爵家へ作物を卸せるようになった。


 ただその公爵家は潤沢な資産を持つわりにケチだったが、背に腹は代えられない。貧しいながらにも生活はできているのだから……と村人たちは細々と生計を立てていた。


 そんなある日、テッド村の入り口に立派な馬車の行列が現れた。この日は村人全員が表に出て、きらびやかな馬車の到着を固唾を呑んで見守っていた。


 古びた木材を組んだだけの馬防柵の脇で停車した馬車からは、一人の美しい女性が下りてきた。

 たっぷりとした豊かな髪は、とろりと甘い蜂蜜のような金色。慎ましく伏せられたまぶたを飾るまつげは長く、青空をそのまま写し取ったかのような澄んだ色の目が覗いている。


 着ているのは飾り気の少ない白いワンピースだが、それ一着だけで目玉が飛び出るほどの価値があるという。装飾品の類いがなくて化粧っ気も薄いが、ワンピース一着だけでもその女性の美しさは存分に伝わってきた。


 麗しい女性を前に硬直する村人たちの中から、まろぶように出てきた男がいる。いつもはぼさぼさの焦げ茶色の髪を、今日だけはなんとか様になるように結んで整えている。

 村人たちの中でも頭一つ分背が高く、体格も恵まれている。今日のためにとあつらえた新品のジャケットはどうやらサイズが小さかったようで、胸やウエスト周りが若干きつそうだ。


 純朴ながら愛嬌のある顔立ちの青年は顔を赤らめ、白いワンピースの女性の前に立った。そしてかなり沈黙した末に、おずおずと手を差し出す。


「あ、ええと。俺……じゃなくて私が、ダンです。ようこそ来てくれました、アンジェリカさん」


 お世辞にも洗練されているとは言えない挨拶だが、ワンピースの女性はしとやかに微笑んで男の手を取った。男の手は、彼女のそれよりも二回り近く大きい。


「丁寧なご挨拶、痛み入ります。王都より参りました、アンジェリカでございます」

「えと、こんな何もない村に来てくれて……その、申し訳ないです」

「いいえ、私の勝手な都合でこちらにお邪魔させてもらうのですから。それに……私のことはどうか、アンと呼んでください」


 だって、とアンジェリカは緊張で硬直する男の顔を見上げて、微笑んだ。


「……私たち、結婚するのですから」

「ひゅっ……!」

「よろしくお願いしますね、私の旦那様?」


 艶やかな声でささやいた花嫁の笑顔に、ダンは真っ赤になって放心してしまったのだった。













 アンジェリカ・エヴァーツは、ダンが暮らすテッド村が作物を卸していたエヴァーツ公爵家のご令嬢だった。彼女はかつてここ、グレンデイル王国の第一王子であるサイラスと婚約しており、王妃となる身分だったという。


 だがエヴァーツ公爵家は王家の外戚となるのをよいことに権力を振るい、王家をも傀儡にしようと企んでいた。


 そんな公爵の企みは、サイラス王子によって挫かれた。

 サイラス王子はエヴァーツ公爵を断罪して、公爵家は取り潰し処分を受けることになった。同時に公爵令嬢であるアンジェリカは貴族としての身分を失い、王子との婚約も解消することになった。


 アンジェリカ本人は父親の悪事に荷担していなかったとはいえ、没落令嬢の行く道は明るくない。

 サイラス王子の命令により、アンジェリカは王国南部にあるテッド村に蟄居処分となった。その際、村一番の男前と言われていたダンのもとに嫁ぐことになった。ダンにはよく分からないがその方が、サイラス王子にとってもテッド村にとっても都合がいいらしい。


 ダンは最初、村長からこの話を聞いたときには我がことと思えず、目を白黒させた。自分たちの村が作物を卸していた公爵家が没落しただけでも大事件なのに、そこのご令嬢が村に蟄居――だけでなく自分の妻になるなんて、村長の悪い冗談だと思った。


 だがこれはアンジェリカ本人も納得の上での話らしい。それに、アンジェリカの蟄居先となったことで、サイラス王子がテッド村に支援をすると言ってくれたそうだ。「厄介な身の上の者を引き受けてくれたお礼」ということなので、テッド村はその厚意を受け取るしかない。


 アンジェリカは、一応罪人の娘である。だがテッド村が――ひいてはダンがアンジェリカを大切にするなら、サイラスはテッド村の未来を保障してくれる。現に王子は既に、テッド村の農産物の次の卸先についても検討してくれているという。これで、村人たちが飢えずに済む。


 とはいえ。


「……ええと、アンジェリカ……さん?」

「もう。私のことはアンと呼んでと言ったでしょう?」


 粗末な一軒家のリビングにて。


 いそいそと茶の準備をしながらダンが呼びかけると、椅子に座っていたアンジェリカが小さく唇をとがらせた。薄紅色の唇が突き出される形になったので、純朴なダンはついどきっとしてしまう。


 今日、ダンとアンジェリカは結婚した。

 村唯一の教会で、村人たちに見守られながらの結婚式。着ている花嫁衣装は村の女たちが一生懸命縫ってくれたものだが、元公爵令嬢にとってはぼろ雑巾に等しかったのではないか。


 だがアンジェリカは結婚式の規模やドレスに文句を言うどころか、その丁寧な仕事ぶりに感謝の言葉すら述べてくれた。式の後の食事会でも、「どれもとてもおいしいわ」と上品な仕草で食事をしながら、頬をほころばせていた。彼女の隣に座るダンはずっと顔が真っ赤で、ほとんどしゃべれなかったが。


 そうして皆に見送られて、これまではダンが一人で暮らしていた家に移動する。アンジェリカを迎えるために改築して掃除もしたが、公爵邸の納屋にも及ばないだろう。

 それでもアンジェリカは家をじっくり見て、「ここが私と旦那様の愛の巣になるのね」と笑顔で言うものだから、ダンは絶句してしまった。


 花瓶に生けられた一輪の薔薇の花のような、麗しい新婦。そんな妻の所作を見るたびに、ダンはいつか自分の心臓が爆発してしまうのではないかと不安になっていた。


「それじゃあ、ええと……アン……?」

「はい、あなたの妻のアンです!」


 笑顔になったアンジェリカが片手を挙げて応じるものだから、あまりのかわいらしさにダンは天に召されるかと思った。


「そ、その……これ、どうぞ。あんまり、うまくないと思うけれど……」

「ありがとう、いただくわ」


 ダンがおずおずと茶の入ったカップを渡すと、アンジェリカはとてもきれいな手つきでそれを口元に運び、中身を口に含んで……えほっ、と小さくむせた。

 ダンは真っ青になり、口元を手で押さえる妻に駆け寄った。


「だ、大丈夫か!? あの、やっぱり、茶、まずかった……?」

「……ち、違うの。ごめんなさい、心配させて」

「大丈夫だよ。……でも、どうしたんだ?」

「私、実は猫舌で……お茶がちょっと熱かったみたい」


 そう言って、えへ、とアンジェリカは微笑んだ。その様を見てぴしりと固まる夫をよそに彼女はふうふうと息を吹きかけてから改めて茶を飲み、「おいしいわ!」と声を上げた。


「……ふふ。なんだか嬉しいわ」

「……え、ええと? 何が?」

「だってあなたはずっと、私に対して距離を取っている感じだったもの。今、心配してもらえて、近くに来てくれて……嬉しいの」


 そう言って、アンジェリカは意味もなく宙をさまよっていたダンの右手をそっと手に取った。

 妻の小さな手に握られてどきどきするダンに微笑みかけ、アンジェリカは「ありがとう」とささやく。


「私をお嫁さんにしてくれて、本当にありがとう。……私、こんな身の上だから。嫌われても、腫れ物に触れるような扱いをされても仕方がないと思っていたわ」

「……そ、それは……」

「私、あなたのいい奥さんになれるように頑張るわ。……お料理もお洗濯もできないけれど、頑張って勉強するわ。私、これでも物覚えはいい方だって家庭教師によく言われていたのよ」


 家庭教師、なんてダンの二十三年間の人生で一度も聞いたことのない単語だが、なんとなく意味は分かった。


 ダンはアンジェリカの言葉を聞いて、肩に込めていた力を少し抜いた。

 アンジェリカは、元貴族の令嬢であり……自分の妻で、守ってあげなければならない人なのだ。彼女だって覚悟の上でこの村に来たのだろうが、心細い思いをしているはずだ。


「……うん。あの、俺、馬鹿だし鈍感だから、女の子の気持ちとか全然分からないから、アンを困らせるだろうけど……俺も、アンのいい旦那様になれるように頑張る」

「ダン……」

「ええと……俺、こうやって女の子と近くで話したこともないから……その、ちょっとずつ、だけど……アンとも仲良くなっていきたい」

「……嬉しいわ。私も、あなたと仲良くなりたい」


 アンジェリカは微笑み、ダンの右手にそっと頬を寄せた。


「……ありがとう、ダン。これから、よろしくね」

「……う、うん。よろしく、アン」


 ……思ったよりも、うまくやっていけるかもしれない。

 まずは自分が夫としてアンジェリカを守らなければ、とダンは可憐な妻を見下ろして決心したのだった。

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