揺蕩うはラグランジュにて
いもゆ
第1話 ラグランジュ・ポイント
1
水仙の花に、朝露が降りて濡れている。人為的に放射冷却が行われ、朝と同じ環境と誤認させられている水仙が、濡れている。
ここは、小規模宇宙ステーション「ヨウラン」
引かれる重力はごくわずか。一ヶ月に一度、搭載されている反動推進エンジンで座標を固定している言葉どおりの「静止衛星」だ。
孤独な衛星、惹かれるものもなく、ただ氷空を揺蕩う。
絶対零度摂氏マイナス273℃の空間が、私の住む空。
地球はある日、重力異常を起こして、死んだ。月も地球と接触し粉々に。
人類は重力異常を予知して宇宙へ本格進出。ハビタブルゾーンを火星まで伸ばした。そして、人類は故郷を失った代わりに宇宙の暗闇に居場所を見出し、宇宙に宇宙ステーションを種子のようにばら撒いた。そうして、18年。
ここ「ヨウラン」は資材の中継地点であり、宇宙船の補給地点でもあり、休憩所でもある。近くに大規模な居住ステーションもなく、辺鄙な所でほとんど人は来ないけれど、無いとそれはそれで困るから運営されている小さな宇宙ステーション。
もちろん、「小さな」と言っても、21世紀ISSの3倍程度の大きさはある。
でも、殆どは機械で自動化しているため、大きくて小さいココに居住しているのは「責任が伴う雑務」用の私だけ。
ここでひとりぼっち。
でも、私はある程度この生活に満足している。
ほとんど雑務は半日で終わる程度。
資金は国家代わりの「連合」から支援されているから不自由はあまりないし、やりたい事はやりたい性格だけど、やりたい事はヨウランで大体やれる。花の園芸がしたいと思ったから、今は一つの部屋を庭園として改造している。
お茶が好きだからお茶を注文すると、一ヶ月かかるけどちゃんと輸送船が来てくれる。
温室にはお茶ができるスペースも確保して。文化的な生活ができている。
今日も、ここで、一人で、生きている。
スローライフな毎日、朝起きてから(ちゃんと朝もある)何かあったかと言えば、スペースデブリ警報が鳴ったぐらいだ。今は地球だと昼間だろうか。今日はもう部屋で本でも……
──船籍不明船よりコール。救難信号を光学受信。
今日はもう部屋で本でも読もうとしていた時、ヨウランは「敵ではないが正体不明」な宇宙船からの救難信号をキャッチした。この場合、通信を断る理由はあまりない。
通信室へ移動し、ヨウランから宇宙船へ救難信号に乗っていた周波数帯でコールする。通信は連合外でも使用できる打鍵式の共通通信規格だ。マルウェア混入の危険性が少ない。
「
「こちら、
コールサイン、
から、認可船ではないだろうが、ここでは珍しくない。その程度で救難を断る材料足り得ることはない。大きさは一人乗り。とても小さい。救難は容易だろう。
「
ヨウランよりワイヤーを射出し、放浪者をキャッチし、引き寄せる。
慣性の問題は、セントリヒュージドラムと呼ぶ重力発生装置を相互連動することで解決する。多くの場合ヨウランより出力の高いセントリヒュージドラムを持つ船は少ない。
半分ぐらい引き寄せたぐらいだろうか。放浪者から何かの火花が散った。
そしてその刹那、放浪者の光子推進エンジンが誤作動を起こし、ワイヤーを引きちぎりながら急速加速し飛び去ってしまった。
やばい。
アレは確実に死ぬ。数光年先はスペースデブリ警報が発令された空域だ。あの加速度で警報区域に突入すれば確実に死ぬ。
即座に音声通信をコール。
「英語で良いか!?状況を報告して!」
聞こえたのは放浪者乗組員の悲鳴に似た女の大声と暴走した機械の駆動音。
「エンジンが暴走してッ…!相対ベクトル221と321と2434ッ…!燃料タンクと切り離したからっ…でもっ…!エンジン内の燃料がなくなるまで5光年!」
デブリ区域に衝突するには十分な距離だ。
「舵は効くか?」
「少し効く…っ!」
「どのくらい!?」
「x121まで…!」
半パニックを起こして自暴自棄寸前の声だ。情報はしっかり伝えてくれるのは幸いだが。
つまり、あの暴走した放浪者は高速で危険区域に突っ込もうとしている。衝突までおおよそ3分程度だろう。舵は効くが進行方向の逆から見て左方向へ数百キロしか制御できない。
その時、私にできることはあまりない。だから、思いついたことをやるしか無かった。それはヨウランのサブモジュールをすべて切り離し、メインブロックだけエンジンを駆動。暴走する放浪者と並走してドッキングを行い、ヨウランの舵で旋回する方法だった。
ノイズ越しに聞こえる声が過呼吸に変わっていく。神に祈る言葉は聞こえないが、度々人生を悔いる声が聞こえる。
私は冷静。しっかり努めを果たそう。
光学で確認した情報で、ドッキング機構が相互で互換性があることを確認する。
駆け足で航行制御室に行き、ヨウランを亜光速で発進させる。
スターボウ現象により見える光が引き伸ばされていく。それもすぐ終わり、せいぜい音速程度の放浪者に追いつき、ヨウランも音速まで減速し、放浪者の左側面で並走する。
あと2分でヨウランもろとも衝突するだろう…。限界まで至った場合、見捨てる事を頭の隅で霞ませつつ、誘導を行う。
「誘導する!舵をニュートラルに!」
「りょ…了解ぃっ…!ニュートラル!」
「セミマニュアルにセット!調整を送信する!」
「了解っっ…!セミマニュアル!」
震えた声で彼女は指示通りに舵を動かす。数値を入力するだけだ。信用しよう。
誘導と並行してこちらは重力制御で微調整。重力に関しては私の専門だ。
微調整の末に接触。並走しているとは言えこの不安定さでのドッキングは未経験だが、なんとかなるだろう。
宇宙船と宇宙船とのドッキングは、
事実、ソフトドッキングは問題なく成功した。しかし問題が起きた。ソフトドッキング機構ごと吹き飛んだのだ。原因は老朽化あたりだろう。ヨウランをここまで動かしたのは数年ぶりだ。ワイヤーで引き寄せるにも加速が付きすぎている。こうなると、ソフトドッキングの段階を省略し、ハードドッキングを直接行う必要がある。危険だが、試す価値はある。
そして、その試みは成功した。彼女の声は助かってなお、死に怯えていた。
間に合った。私はいつも間に合わないのに。
2
ヨウランの連合登録座標は地球と月が生きていた時のラグランジュポイント。月と地球の重力が釣り合う場所だ。
登録している座標からヨウランを動かすことは、やむを得ない場合を除いて禁止されている。今回の場合、やむを得ないだろう。
登録座標に戻り、「連合」に一応の報告を行い、救出された
黒髪も顔立ちも珍しい。地球から脱出できた民族にモンゴロイド系は少ない。
宇宙漂流少女……難民だろうか。宇宙産まれの第一世代……合うのは初めて。
「本当にありがとう。助けてくれて……」第一声に疲れが張り付いていた。
宇宙船の故障はひとえに事故でしかなかった。スペースデブリを回避するための重力バリア機構は当然、多くの宇宙船に搭載されている。しかしそれが作動しなかった。ただ、それだけ。
名前を聞くと教えてくれた。彼女の名前は「リコリス」
偽名だろう。そこに構うことは無い。
「貴女の名前は?」そう聞き返された私は答えた。「ナルシス」…これは実名。
意味は黄色い水仙。毒のある花。黄色い毒の花。それが私の名前。
「ナルシス……ナルシス博士?」私の名前を聞くと、リコリスは驚きを見せた。
「あの、次世代セントリヒュージモジュール理論の…?」
目を輝かせて詰め寄るナルシス。私は彼女に知られているらしい。
「……はい。ご想像のとおりかと」
次世代セントリヒュージモジュール理論、重力発生装置セントリヒュージドラムの基礎アルゴリズムと設計理論の開発を主導し、宇宙に重力を齎したのは、私。
「すごい、こんな奇跡。貴女が宇宙に重力をもたらしてくれた…ナルシス博士」
「……はい」
ナルシスは、着ていた古風なスカートを捲り、義足をよく見えるように見せてきた。
「あっ、違う」
慌てて、もう片方についている生身の左足を見せた。
「この足は、貴女に…重力に、救われた足なんだ」にこりと、ぎこちなく微笑んだ。
宇宙は無重力ではないが、少ないことに変わりはない。重力に縛られない生活は、骨を衰弱させ、カルシウムが溶け出し、足への血液が足らなくなり、緩やかな壊死に向かう。成人すれば数時間の運動で防げるが、幼い頃から無重力の環境は、遺伝子を飛び越えた負担だ。
その問題は、重力が解決してくれた。私の重力。
「重力が無かったら、この足は死んでいた」
それは、ほのかに甘い呪い。
──重力がないせいで、右足が死んじゃった。
聞こえもしない声も。
そして、私達は機械が自動で彼女の
お茶ができるまでの間、ココまで来た理由などを話してくれた。リコリスは、このあたりのステーションを転々として、生活しているらしい。資金はインターネットで集めているらしく、曰く「魚を捌くようなモノ」だという。
お茶が出来て、お茶を振る舞った。
「月苗のお茶……」リコリスはゆっくりとお茶を啜った。
「この味しかしらないけど、好きなお茶……」少し落ち着いた様子を見せた。
「冷たい朝焼けの時に、これを飲むのが好きでして……」
意識せず、ふと口からこぼれた言葉を、彼女は捉えた。
「朝焼け……?」
そう。あさやけ。私が朝焼けと呼ぶ、朝。かつてはみんなが呼んでいた。
「そう、朝焼けと言って…地球ではそういった現象が朝に…朝っていうのは、午前…5時ぐらいで朝に…空が、茜…いや、橙……いや、臙脂色のような…そんな色に空が染まるような現象が起きていまして」
「地球産まれ、なのね」リコリスはやはり興味を示した。
私としては、好都合。普段のお客さんなら。
私は、したいことがしたい。私は私を尊重したいし、私はそうした生き方で生きていたい。でも、私は何をするにも一番は、あの壊れた地球に故郷に帰りたい。
あの朝焼けを、あの日照りを、あの星明かりを…それは死に別れた初恋。
心に空いた穴に、宇宙の闇が流れ込む。もう帰れない故郷。
星の瞬きは大気の揺らぎ。ヨウランから見える星明かりは常に鋭くそこにある。
重力装置を作ったのも、その恋慕がそうさせたのだろうか。でも私は思う。重力を宇宙に持ち込んだせいで、人に地球を忘れさせてしまったのでは無いか……
「私は……趣味がありまして」
「趣味?」
「私は、この宇宙ステーションに訪れた方の、故郷の話を聞くのが趣味でして」
「故郷…私、故郷って呼べる場所は無いんだ」
リコリスの産まれは、宇宙。それも月。だけど、産まれてすぐに月が割れ、宇宙に避難。そうして親と宇宙を転々とし、親と事故で死に別れ、孤児となり、宇宙船を遺産で買い、今に至る。自由奔放で、情動的な性格がうかがえる。
普通なら、故郷は地球だ。
私が故郷の話を聞くのは、いろんな人達の地球の思い出を聞いて、安心したくて。
ひとりぼっちの私。光の速度が不変なように、人の思いはみんな不変で普遍で…
「じゃあ、ナルシス博士の故郷は、どんな所だった?」
こうした問いも、よく投げられる。
「私の故郷は……地球でした」
産まれは30年前。私の故郷は、アイスランドのアスキャ火山のほとり。小さな街で、小さなコミュニティーで育ったけれど。私には父の蔵書とインターネットがあった。そうして本と知識とで、苦労しつつもイギリスの大学に行き、博士を取り、そうして……
そうして話している内に、宇宙船の修理が終わった事を知らせるアラートが鳴った。
「…それで?」
「…それ以上は特には……その後、宇宙に移動してせントリヒュージモジュールを開発して……今に至るという程度ですね」
「なんだか、とっても端折った感じね」リコリスは少し不足そうにお茶を啜った。
「それで……宇宙船は修理が終わりました。出発しますか?」
「うん。出発する。本当はこの隣の宇宙ステーションに行く予定だったんだ。荷物を取りに」
そして、リコリスはヨウランを出発する。
「助けてくれてありがとう。それとお茶も。お金多めに、振り込んでおくね」
「はい、お気をつけて」
元気に放浪者に乗り込むリコリスの背中は、義足を思わせない若々しさを感じる。
乗り込んで真空ハッチを閉じようとする時、彼女は不意に振り返った。
「今度合ったときは、しっかりとナルシス博士の人生、聞きたいな」
「そうですね、今度合った時」
「私、故郷が無くて、そういうの羨ましくて。故郷がある人の人生、もっと知りたくて」
「宇宙って、お互い寂しいね。ナルシス博士」
私も、知りたかった。故郷の無い人生。
アスキャ火山のアスキャは「小箱」の意味がある。
私にとってその場所は、私の宝箱。
地球で産まれ、この宇宙に生きる人間はみんな地球を失った悲しみを背負って生きている。
でも、彼女たち宇宙産まれは違う。彼女たちに故郷は無い。
私も、彼女たちのように。
彼女たちの事を、彼女の寂しさを、もっと知れれば。
3
リコリスが出発して1時間後、彼女はまた戻ってきた。
理由は、またもやスペースデブリ衝突。しかも今回は先程の損傷とは比較にならない。完全大破だった。生きていた事が奇跡だろう。
「ごめんなさい……」
「謝るのはこちらの方です…重力装置が誤作動を起こして事故を起こしたのかと思って居たのですが……」
「これ、修理するのに…どれくらい…?」
「これほどの大破を修理するにはヨウランの資材では足りないので…部品などを注文しないといけないことを考えると…少なくとも数ヶ月はかかりますね」
こうして、宇宙漂流少女リコリスはこの宇宙ステーション、ヨウランに数ヶ月の足止めを食らうことになる。
故郷が死んで帰れない私、故郷が無くて帰れない彼女。
一人きりだった生活から、ほんのひととき、二人きりの生活が始まる。
揺蕩うはラグランジュにて いもゆ @imoyuu
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