21
一同を襲ったのは絶句などではなかった。ぼうっとした現実感の希薄化だった。今、目の前で行われていることを、第三者的な感覚で見守っていたのだ。だから、雛森の提示した仮説には、そうなのかといったような感心すら滲み出てきていた。
「もうちょっと踏み込んでみると」雛森の頭の中には片桐が口にしていた、大胆な仮説という言葉が踊っていた。それが彼女に勇気を与えていたといっても過言ではなかった。「はじめのほうで『太田』は理不尽な瞬間移動をしましたけど、その前、L‐1での描写に気になるところがありますよね」
彼女はそうしてモニターをスクロールさせた。
「『じっと見つめる人影があった』……。さっき言ったように『太田』と『多良部』が事故の原因となるならば、この人影が『多良部』だと言ってもいいんじゃないでしょうか。『太田』も人影も衝撃を受けたときにはL‐1にいました。そのうちの『太田』が瞬間移動したのならば、人影も瞬間移動してもおかしくはないはずです」
神崎の身じろぎが雛森の視界に動きを与えた。それまで挙動するものは存在しなかったのだ。
「それはいくらなんでも飛躍してると思うぞ。理不尽な瞬間移動なら、L‐1にいた人間全員に適用されるとは限らないんじゃないか」
「私が重要視したのは」雛森にはいまや根底から徐々にではあるが自信が湧き上がっていた。「この人影というのが記述の中でまるで伏線のように扱われていることなんです。もし人影が瞬間移動せずに閉鎖されたL‐1の中に取り残されてしまうのなら、人影について言及はしないと思うんです。L‐1は衝突によって被害を受けているから、中にいるとすれば死んでしまうでしょう。わざわざ言及されているというのは、やっぱりこの人影も死亡せずにいるということの暗示ではないでしょうか」
雛森はそういうと、無意識的に片桐を見つめた。彼女は耳にかかる髪を掻き上げ思案していた。やがて慎重に頷くと、
「伏線を匂わせる記述を鑑みると、確かにそういうことは出来るわね」
と、雛森の仮説に同意を示した。他の二人の反対もない。ただ、片桐は続いて新たな問題に思い当たったようだった。顎から手を離すと三人を見回して言う。
「でも、そう考えると、ひとつおかしなことが出てくるわね。この瞬間移動の時点で『太田』と『多良部』は同等の扱いを受けているのだけれど、その後の記述には大きな違いがあるわ」
「なるほど」神崎は芝居がかった格好でパンと両手を打ちつけた。「『太田』に関しては内面にまで描写が及んでいるにもかかわらず、『多良部』にはそれがない。あの不可解な瞬間移動を二人ともが行っているのに、ここにだけは違いがある」
「一度触れたんだけれど、瞬間移動した本人はそのことに気付いていないわ。これはルナが独自の判断でやったことだという証明でもあるわね。こういうと語弊があるんだけれど。言い換えれば、ルナは『太田』と『多良部』の二人の死をなかったことにしようとしている……」
雛森は頷くが、それが何を意味しているのか皆目見当がつかなかった。
それまで所在なげに無言を貫いていた結城だったが、片桐を横目に口を開いた。少し声が掠れている。
「『多良部』が瞬間移動をしたというのも、誤りかもしれない」
「何故?」
片桐の詰問に、結城は弱々しく答える。
「伏線めいた記述からそう判断したのでしょう? そして『太田』と『多良部』の二人が現実にこのLUNAにいないことからそう結論付けたんだ。しかし、『錯綜の彼方へ』はルナの創作なのです。だから、その二つの傍証から人影が『多良部』であるということはできないはずですよ」
「ある仮説を立ててそれを検証しているだけよ。これが真実だというつもりはない。間違いならまた考えるだけよ」
片桐の諭すような言葉に結城は黙ってしまった。静かに頷くと、なんの感情も示さずに座席に身を沈めた。怪訝な視線がいくつも突き刺さったが、結城は一向に構わなかった。
神崎はそんな結城を冷静に見つめていた。
(推論が鈍ってきてやがる……。これはなにかありそうだな)
はじめ事故原因の究明には結城が先頭を切っていた。それが今では主導権は片桐や雛森に移っていた。神崎は密かに結城への視線に力を込めていた。
「二人の死をなかったことに……っていうことは、ルナはその二人の死を望んでいなかったということですよね。ルナはその二人を知っていたということなんでしょうか?」
「それはなんとも言えないんじゃないか? ルナはもともと人命を優先するんだからな」
雛森は神崎の指摘に納得する。しかし、それでは二人の瞬間移動には特別な意味がないということになる。雛森はそこに意味を見出そうとしていただけに、残念な気持ちを隠せなかった。そこへ、片桐からの思わぬ支援がやってくる。
「ルナが人命を優先するといっても、不意の事故での死は回避できないはずよ。この場合、問題になるのは死亡したはずの二人が何事もなくLUNAで活動している点よ。ルナはこの二人の死をなかったことにしているの。それは人命を優先させるという基本意思からは逸脱したものじゃないかしら」
「ああ……」神崎の口からは感嘆が思わず漏れ出ていた。「なるほどな。そうか、二人は死んだはずなんだ。……だが、待てよ。ルナってのは死を体験したことはあるのか?」
雛森は結城がピクリと肩を揺らすのを見逃さなかった。彼は雛森の視線に気付かないようで、神崎の問いに答えていた。
「死が存在することは知っています。そのシミュレーションなども行われました。だから、おそらく神崎さんは死に直面したルナが異常をきたしたと考えているのではないかと思うのですが、ルナは死にきちんと対処することができます」
「そうか」残念そうな溜息が返事を兼ねていた。「そこに事故の原因があるんじゃねえかと思ったんだがな……」
「どういうこと?」
片桐が腕を組んで首を傾げていた。暗い照明の中では判然としないが、目は追求の光を放っていた。
「いや、つまりよ、未知の死という現象に直面したときにルナが非コヒーレント相へ突入しちまうんだよ。『錯綜の彼方へ』では、非コヒーレント相では機械ってのは不安定な働きをするんだろ。それが事故の原因となったって風に考えていたんだがな」
「なるほど、考えられないことじゃないわね。でも、ルナは死を理解して、対処できるのね」
神崎は暗く沈んだ溜息を吐き出す。
「死を理解、ね」
「急にどうしたのよ?」
片桐が聞くと、彼は俯き気味にしていた顔を苦笑で歪ませた。雛森はその様子に悲哀を感じていた。
「四年前に女房が死んだんだ」
突然の告白に一同はかける言葉を失っていた。
「交通事故だ。文明が発達しても、ああいう事故はなくならないものだな。女房が死んだのは理解したが、未だに受け入れることはできない」
「そうだったの……」
思わぬ述懐に重苦しい空気が漂う。神崎が構わずに続けていた。
「『錯綜の彼方へ』じゃ、俺は芽衣ちゃんを口説いてるみたいだが、こんなことできやしない。まあ――」ここで彼は悪戯っぽい笑みを浮かべた。「女房なら笑って許したがな。優しい奴だったから」
「呆れた……」
神崎の表情は相変わらず真面目だったが、暗い雰囲気を察してか冗談を飛ばした。どうにか搾り出した片桐の言葉は咎めというより、いつもの神崎を見た安堵といったほうが近かった。彼女は付け加えた。
「そんなだから、ルナに浮気心を見透かされたんじゃないの?」
「だから、俺はそんなことしないっての」
打って変わって慌てたように否定する姿に雛森は忍び笑った。しかし、それだけ神崎が妻を愛していたのだと思うと、笑いの衝動も静かに消え去っていった。雛森にとって、いや、ここにいる全員にとって、それは神崎の意外な一面であった。
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