推しを笑うな!
「お前の推しは?」
そう聞かれて、一家言あるのならば颯爽とその名前を口にするのだろうが、いかんせん、俺にはそんなものはなかったし、まず何よりも目の前で凄まれてそう尋問されたのでは、何も言えないのも仕方ないではないか。
「いや、すみません、そういうのはちょっと分からないです」
この組織で雑巾のように扱われて長い月日が経った。最近になって、トミセンから噂は聞いていた。
「坂田さんがアイドルにハマっているらしい」
トミセンというのは、富永さんのことだ。高校時代からお世話になっている先輩で、坂田さんの舎弟のような人だ。
「日々に潤いがほしくないのか?」
目の前の坂田が俺を見下ろしている。俺は坂田の部屋の真ん中に置かれた椅子に座って、その眼前に坂田が仁王立ちしている。第三者が見れば、これから拷問でも始まるような光景だ。
「ちょっと……よく分からないですね」
「そんなんだから、こんなボワボワの髪質になるんだよ」
そう言って、俺の真っ白な髪の毛を鷲掴みにする。こうなったのは、この環境で受けるストレスが尋常でないせいだ。俺のせいではない。この見た目のせいで、びっくりするほど他人からの年齢評価は上振れずる。坂田が俺のTシャツを摘まむ。
「なんだ、このTシャツは?」
「ドアーズのバンドTシャツです」
「気に入ってんのか? 何回も着ただろ?」
「はい」
「首のところがダルダルじゃねえか。ところどころ破れかけてるしよ。こういうのはマジのダメージじゃなくて作られたダメージじゃないとダメなんだよ。みすぼらしすぎるだろ。履いてるジャージもダサすぎるだろ。そのサンダルも便所のやつか?」
一方的にダメ出しをされて、俺はただ頭を下げた。
「なんかすみません」
「お前には、いい歳して潤いがないんだよ」
そう言って、坂田は一枚のCDを俺に突きつけた。並木橋Bestie……『青空のペトリコール』。坂田がそのジャケットの真ん中にいる少女を指さす。
「橘千尋」
「はあ……」
子どもの頃は、実家にどこかの宗教の勧誘がやって来たものだ。喋るだけ喋って、無臭なのにどこかかぐわしいチラシを置いていく。これで入信する人間がいるのだろうかと、子どもながらに疑問を抱いたものだ。今まさにあの頃の記憶が蘇ってきたのは、偶然なのだろうか?
「藤堂に魂を感じられない理由は何だと思う?」
坂田が目の敵にしているのは藤堂という男だ。トップに君臨する司馬。その下に控える、坂田と対をなす二本柱のうちのひとり。坂田も藤堂もお互いを蹴落とそうとしているのだ。
「分かりません」
「潤いだよ。う・る・お・い!」
化粧品のCMでも聞かない密度で連発されれば覚えてしまうかもしれないが、心に留めておくにはあまりにもかさばる。
「潤い……」
「そうだ、潤いだ! あいつが俺に何と言ったか知ってるか?」
「潤い、ですか」
「ちげーよ! あいつのボキャブラリーには潤いなんて単語、一片たりとも存在してないだろう。だからあいつは俺に言ったんだよ。『アイドルなんぞの尻を追いかけてやがる』ってな」
俺でもそう言いたくなるような蒸し暑さは感じないでもない。口が裂けても言えないが。
「あいつはカスだ。近い将来、あいつを潰しておかないと、この組織は終わるだろう」
「馬鹿馬鹿しい対立だろ」
トミセンが声を押さえてそう言った。路地裏に店を構える街中華の赤いテーブルが、外からの日差しを返して俺たちの顔を赤く染め上げる。
「半グレ組織の幹部がアイドルのことでいがみ合ってるのは、この国が平和な証拠じゃないっすかね」
あんかけラーメンを勢いよく啜って、トミセンは手元の氷水を口に運んだ。真夏によくもそんなメニューを口の中に放り込めるものだ。俺は冷やし中華でも食が進まないというのに。テーブルの上に置いたCDのケースにあんかけスープの飛沫が落ちていた。
「いや、こんなこと知れ渡ったら、笑い者にされるぞ」
「なんで坂田さんはアイドルなんかに興味持ったんですかね。そんな話、今まで全くなかったじゃないですか」
トミセンは丼を持ち上げてスープを口の中に流し込む。
「なんでも、あの橘千尋っていうのが、坂田さんの親戚らしい。昔は正月に集まったそうだが、今ではすっかり疎遠になっていて……つい最近テレビで観て、あっ、と思い出したらしい」
アイドルの方も難儀なことだ。半グレ集団との繋がりが広まったら、只事ではない。
そういえば、以前、司馬が坂田について話してくれたことがあった。
「あのな、俺たちは舐められたら終わりなんだよ。そうなったら、箔がつかないだろ?」
大学生グループに目をつけられてボコボコにされた次の日に、司馬の部屋に呼び出された。返す言葉もなく、俺はただ司馬の言葉を受け流していた。
「簡単にやれそうな格好をしてるからだ。見た目で自分のことを相手に判断させろ」
「……動物の毛皮とか牙を身につけていればいいですか?」
「なんで狩猟民族だと思われたいんだよ。そうじゃなくて、ビシッと黒いスーツに身を包むとか、ゴテゴテのシルバーアクセサリーをつけるとか、威圧的な出で立ちってのがあるだろ?」
この組織の人間は、なぜこうも見た目にこだわるのだろうか。世間はアンダーグラウンドが一般世界に溶け込むように進んできた。そういう観点でいえば、大学生にでも舐められるほど世間に溶け込んでいるといえなくもないだろう。だからこそ、世間の目をごまかして、ブラックなことをやりのけられるのではないか?
司馬は机の上で小さな段ボールの箱を開いていた。中から、何かを取り出した。
「バックパッカ―の友人が旅先から送って来たんだ」
司馬が俺にオイルライターを見せつけた。火を纏った狼が描かれている。微妙な品だが、機嫌を損ねるのも悪い。
「めちゃくちゃ格好良いですね」
見る見るうちに、司馬の表情が曇っていく。そばでじっと立っていたボディーガードの嶋がそっと笑った。
部屋のドアがノックされる。顔を覗かせたのは、坂田だった。
「もうすぐミーティング始まりますんで……」
司馬は片手を挙げて返答する。坂田が引っ込もうとすると、
「坂田」
と司馬が引き留めた。そして、ライターを放り投げると、坂田がそれを両手でキャッチする。
「ええと、これは……?」
「お前にやるわ。俺の分身だと思って大切にしてくれ」
「ありがとうございます!」
坂田は満面の笑みを浮かべて去って行った。なぜ思いついたように坂田にライターをプレゼントしたのか、理由は分かっている。俺が褒めたからだ。司馬がじっと俺を見つめる。
「お前がここに現れるタイミングがずれていたら、俺はあのライターを『ダセえなあ』と思われながら使っていたところだ。そういう意味では、礼を言う」
世の中に、これほど嬉しくない礼があるとは思わなかった。できることなら、タイミングをずらしてここに現れてやりたいものだ。
「とにかく、いいか。この世界では、フワフワしていてはダメなんだ。今の坂田だって、この組織をでかくしようと気合いが入ってる。広告代理店に出資をして、資金源のひとつにしようと目論んでる。そういう先を見据えた行動を取るってことが、ブレない自分を作り出すんだ」
ブレずにいようとする人間には響く言葉だったのかもしれない。
今にして思えば、坂田は資金源として芸能活動に目をつけていたのかもしれない。そして、その白羽の矢が知らない間に立てられたのが、橘千尋なのだろう。
「馬鹿馬鹿しいことだよ」
トミセンは、会う度に口癖のようにそう言った。よほどアイドルのことを下に見ているらしい。そういう偏見を抜きにしても、組織の屋台骨を支える二人が溝を深めるほどのことではないと感じる。ダサいライターを貰って笑顔になっていた坂田のことを思い浮かべると、自然と相槌が生まれるものだ。
「そうっすねえ……。坂田さんはちょっと情けなさが滲み出ていますもんねえ」
組織は明らかに二つの派閥に分かれていた。アイドルを推す坂田と冷静に物事を進めている印象のある藤堂……どちらかにつくのかが、自分たちの未来に直結するというような予感が俺たちをジリジリと焦がす。
そういう日々が続いていたからこそ、司馬が突然失踪してしまったことは、驚き以上に絶望的な衝撃をもって組織内を揺さぶった。
はっきりと言えば、俺は昔からのよしみで坂田派閥と時間を多く過ごしてきた。改めて考えた時、いかにもどっしりと構えた藤堂派閥の連中が確かな地盤の上で動いているように思えて、それが将来の安泰に繋がっているように感じられた。
組織が空座を巡って戦国の世かと思うほどに殺伐とし始めた。しばらくは、組織は何事もないと言わんばかりに歩みを止めなかった。司馬失踪から半年を過ぎたあたりから、雲行きが怪しくなってくる。「次は誰が上に立つのか?」という声なき声が、二つの山の頂上を煽りたてるのだ。
俺は仲間の目を盗んで、藤堂に会いに行くことにした。
「坂田の子分じゃねえか」
微かな希望を胸にやって来た俺は親の仇のような目に晒されることになった。この組織の人間は格好だけでなく、義というものも気にするらしい。
「いや、ですが……」
藤堂がぬっと顔を突き出してくる。思わず口籠ってしまうほどの迫力だ。さすが、伊達にこの組織の幹部をやっていない。
「俺に忠誠を誓えるのか? 誓えると言うのなら、考えてやらんでもない」
忠誠とは何だ? 何をすれば忠誠を示すことになる?
そういうことを考えて、答えられずにいると、圧が引いていく。
「お前は俺に忠誠を誓えるような人間じゃない。出て行け」
誓える、と言えば、ここにいてもよかったのだろうか?
いかんともしがたい感情を抱えて、坂田派閥のミーティングに参加をした俺に、とんでもない爆弾が投下された。
「この中に、忠義に欠けた人間がいます」
そう言って立ち上がったのは、トミセンだった。あれよあれよという間に、白洲に膝を突くことになったのは、他ならぬ俺自身だった。トミセンは得意顔でスマホを取り出した。
「この音声を聴いて下さい」
トミセンは仰々しく再生ボタンを押した。
『馬鹿馬鹿しいことだよ』
『そうっすねえ……。坂田さんはちょっと情けなさが滲み出ていますもんねえ』
いつかと同じように、部屋のど真ん中の椅子に座った俺の目の前に坂田が迫ってきた。あの時と違うのは、血気盛んなギャラリーがいるということだ。
「どういうことなんだ、これは?」
「富永さんも同じようなことを言っていましたよ」
それは俺にできる精一杯の反論だった。トミセンはいつもと違う一面を、この期に及んで見せつけてきた。
「俺はお前の忠誠心を確かめるために鎌をかけたにすぎん。お前が本当に坂田さんについていこうとしているのか、ずっと疑問だったんだ」
それは人間関係で絶対にやっちゃいけないやつである。恋人の想いを確かめようとするから、それまで築き上げてきた関係性は瓦解する。わざと釣り銭を多く渡して反応を見るようなコンビニに誰が行こうと思う? 信頼関係というものは、壊れるまで見守るのが人間としてのあるべき姿だとは思わないか?
視線にハチの巣にされて、俺は身動きが取れなくなっていた。坂田が俺の目を覗き込んでいた。それは観察というよりは、支配のようなものだった。
「今、ある計画の準備が着々と進みつつある」
初耳だった。坂田の両手が俺の両肩に勢いよく置かれた。
「忠誠心を見せろ、馬渕遣佑」
忠誠心とは何なのか分からないままだったが、俺は何かを約束させられて解放された。暑い夏の夜だというのに汗も出ず、胃がキリキリと痛んだ。誰かの優しさに触れたくて、このところ会えていなかった史帆のもとへ向かう。彼女は坂田の計らいで並木橋Bestieのマネージャーになっていた。長い付き合いだが、一緒の時間が少なくなったのは、彼女の多忙も原因だ。
彼女の住むマンションは、通りから玄関のある通路が見える。重い足を引きずるようにしてやってきて、彼女の部屋のある階の通路を見上げる。
彼女の家から、坂田が出てくるのが見えた。送り出す史帆の、ただならぬ柔らかさに満ちた表情に、俺は真冬に捻った水道の蛇口に心臓を晒したような心地になった。
すぐに踵を返して、元来た道を戻る。まるでドラマに出てくるような悲劇のヒロインみたいな自らの退場劇に、自虐的な笑いが込み上げるところだった。俺には分かっている。こういうのは、見なかった振りをするのがちょうどいい。それで、今後何もなければ、それでいい。
確かめようとすれば、関係性は脆く崩れ去るものだ。
数週間が経って、それが約束の日だったらしい。
俺はワゴン車に詰め込まれて出発を待っていた。運転席と助手席には、仲間と呼んでもいいのかは分からないが、とにかく仲間らしき男たちがすでに乗り込んでいた。テレビも観られるカーナビでバラエティ番組を流しているようだった。
「確か、この番組も坂田さんが裏でやってんだよな」
「ええっ、そうなんすか?」
前の二人が盛り上がっている。坂田が贔屓にしているアイドルが出ているらしい。音だけが俺のもとに届く。
『──……なんかい。そんなゲームがあるなんて知らんかったからやなぁ。君は知ってんの?』
『うちのグループにもゲームがすごい好きな子がいまして……一日中やってるんですけど』
『いや、心配やわ、その子! ……で?』
『めっちゃハマってるって言ってました。外国の人とも繋がってできるらしくて……』
『知らんの俺だけやん……』
『なんか……おじいちゃんみたいですね』
『やかましわ、アホ!』
ワゴン車のドアが開いて、サッとテレビが消える。もう一人の男が俺の隣に乗って来て、車を出すように合図した。
長い時間車に揺られて、会話はひとつもなかった。寂れた街を抜けて、何もない道を進んで行く。しばらく行くと、見捨てられたような建物が見えてくる。車の整備工場の廃墟のようだった。その前で車が停まる。
「これを渡すが、変な気は起こすなよ」
手にナイフを握らされる。
これから何をやらされるのか聞かされていないが、分かるような気がする。おそらく、今後の人生で、どんなことがあろうとも拭いきれないような大きく深い後悔が、暗い口を開けてすぐそこで待っている。
「降りたら建物の中に入れ。迎えの車が到着する前に、あいつが肌身離さず持っているライターを証として回収しておけよ」
そう言われて、車外に降り立つ。車が去って行ってしまう。俺の耳の奥に、坂田が発した声が蘇っていた。
「推しを笑う人間に、生きる資格などない」
俺の人生は、どこで踏み違えてしまったのだろうか。
このまま突っ走って、馬鹿な振りをして、駆け抜けてしまうしかないのだろう。
別の人生があったなら、どれほどいいだろう。
笑ってしまう。
きっと別の道を行く俺も、この道を行く俺を羨んでいるのかもしれない。
所詮、人生は、ないものねだりに過ぎないのだ。
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