アノマリー・レポート

山野エル

越境者

 クジラが横たわっていた。

 東京のど真ん中……それも、オフィスビルのフロアに。

 腐りゆく肉の生臭さと潮のにおいが入り混じって、ここが頭脳労働をする人間たちの戦場とは到底感じられないのだった。

 窓はいずれも傷ひとつない。たとえ窓が開いていたとしても、クジラの巨体が入り込めるような隙間ではない。いくつものデスクの島が整然としたまま黒い身体に押し潰されていて、床も天井も、巨体に押し広げられて、貼られたパネルが剥がれ落ちる鱗みたいに曲がり、散らばり、ぶら下がっていた。びしょびしょになった無数のポスターも、あえなくガラクタになったパソコンたちも、静寂の中でただなすがままにそこにあるという感じだ。

 成瀬瑠奈が出社してきた時には、すでに大騒ぎになっていて、行き場を失った社員たちがビルの外のあちこちで口々に噂を飛ばし合っていた。瑠奈の見知った顔の情報システム部の人間がスマホを片手に仲間たちのもとに駆け寄っていた。

「八重洲のサーバ全滅らしいっすわ……。知り合いの会社のやつも死んでるみたいです」

「マジかよ、どうすんだよ……」

 瑠奈の上司が呆然と立ち尽くす。その隣で別部署の課長が項垂れていた。

「警察呼ぼうとしたんですけど、回線パンクしてるんですよね……」

「え? こういう時って、警察呼ぶの?」

「……さあ、分かんないっす。どっちみち、消防とかにも繋がらないんで」

 途方に暮れる社員たちの間を縫って、同僚の香苗を見つけると、瑠奈は声を掛けた。

「何が起こってるの?」

「うちのフロアにクジラの死骸があるみたい」

「クジラ?! なんでまた……」

「ニュース見てないの? あちこちでやばいこと起こってるよ」

 バッグの中に放り込んだままのスマホを取り出して、SNSをチェックする。世界中で異常現象が多発しているらしい。

 少なくとも東京では、スカイツリーにどこかの国の列車が突き刺さってネックレスか何かのようにぶら下がっていたり、丸の内のオフィスビルから氷山が突き出て滝のように水が流れ落ちていたり、皇居にはグランドキャニオンの一部が傾いだままそびえていたりする。大阪では、道頓堀のランドマークともいえるマラソン選手の股間から、なぜかジミ・ヘンドリックスの顔がラッピングされたバンが突き出していて、市民の笑いをさらっている。世界がバラバラに切り刻まれて散らばっているようだ。その影響で交通機関は麻痺。経済活動は滞り、警察・消防・自衛隊がフル稼働している。今も、瑠奈たちのいるそばをサイレンを鳴らした救急車が猛スピードで走り去り、ヘリが爆音を振りまいている。

「ビルの中にどうやってクジラが……」

 瑠奈は高い窓を見上げて呟いた。窓は綺麗に陽光を照り返している。香苗は理解を諦めたように笑った。

「謎すぎるよね。急に出現したみたいになってるらしい」

「なんでこんなことに……」

「映画みたいだよね。マルチバースみたいな」

 あっけらかんとした香苗を横目に、瑠奈の脳裏に蘇るものがあった。


 山野エルは影のある男だった。

 もちろん、本名ではない。瑠奈が肩入れをする無名の新人作家が名乗るペンネームだ。エルという名前からは程遠く、無精ヒゲを生やし、ろくに手入れもしないボサボサの髪、薄汚い洋服、ボロボロのスニーカー、だらしない身体つき……それでいて、顔が良いわけではない。街中に目を凝らした時に、真っ先に意識の外に弾き出されるような、そんな没個性。だがどうやら、彼はこの名前のどこか中性的な響きを気に入っているらしい。なぜ中性的であることを気に入っているのか、瑠奈の興味はそこにはない。

 瑠奈が勤める丸山出版のショートショート新人賞で大賞を受賞した山野は、受賞後作の芽が出ず、編集部からはお荷物扱いされていた。それどころか、編集長の織畑に「受賞は手違いだった」とまで言わせてしまう始末。瑠奈が彼に目をかけるのは、同情も全くないというわけではない。だが、彼の作品の奥底に、何か計り知れない可能性を見たのだ。

 山野とは、古風な内装の純喫茶で打ち合わせをするのが定番になっていた。瑠奈としては、彼の才能を呼び覚ます手伝いができればいい。しかし、山野はいつも頭を抱えて、散らかったままの構想をやや高さのある木のテーブルの上にぶちまけるだけなのだった。

「俺にできるだろうか?」

 それが彼の口癖だった。瑠奈はニヤリと笑った。そうでもしないと、相手のペースに嵌ったままだ。

「知ってますか、山野さん? やる気スイッチを押すからやる気が出るんじゃないんですよ。やるからやる気スイッチを押すことができるんですよ」

「俺は本気の出し方が分からない」

「本気じゃなくていいんです。普通のことをまずはやってみましょうよ」

「普通でいることを、俺は許せない」

 プライドの高い妄言家みたいなものだった。そのわりに、瑠奈の会社の金で今日もしっかり腹を満たしていくのだ。

「山野さんの壮大な世界観のSF、私は好きですけどね」

 しかし、返って来るのは難しい表情で、企画にGOを出させるようなプロットではない。

「俺には他人に誇れるような世界観などない」

「大丈夫ですよ。いくつも書き続けて、山野さんの世界観ができあがっていくんです。きっと読む人の心を惹きつけるような一大叙事詩になるはずです」

 山野には受賞後のノルマがあるわけではなかった。織畑は文芸誌に一篇だけショートショートを載せて、それでお茶を濁そうと考えていた。それが誰かの目に留まれば次があるかもしれないし、何もなければそれで終わりだ。織畑は無慈悲に言い放っていた。

「失敗を振り返る必要はない。次に進め」

 可能性を信じる自分の心を否定されたような気がして、瑠奈は食い下がった。

「山野さんは失敗じゃありません。彼なりに人生を賭けて頑張っているんです」

「成瀬よ」織畑は溜息交じりに言った。「お遊戯会してるんじゃねえんだよ、俺たちはさ。セリフ言えたねってワイワイやるのがゴールじゃないの。そのセリフで誰かを感動させなきゃいけねえの。お金貰わなきゃいけねえの」

「それは……そうですけど、でも、作家の皆さんを道具みたいに言うのは違うと思います」

 それはもはや、まだ若い彼女の中に拭き取り忘れられた油汚れみたいな反抗心だった。

「成瀬よ」織畑は目を据えていた。「めいっぱい広告を打った作品が売れなかった作家に何て声を掛ける?」

「……『次、頑張りましょう』、ですかね」

「それを今、俺がお前に言ってると思ってくれ。そして、売れるものを探してくれ」

 企業という組織の中では、正論は向こうにあって、瑠奈に何か身のある言葉を返せる力はなかった。

 瑠奈の目の前で、山野は言う。

「俺がどう思われているか、分かっているつもりだ。それに、俺はひどいことをした」

 受賞後、しばらく次作の執筆についての打ち合わせなどが続いた。次にどう展開させていくか、山野がどう物語を描いていきたいのか。煮え切らない山野に、織畑は喫煙室でぼやいた。

「大したもん書けないのに、一丁前に能書きは垂れる。馬鹿な態度を取る。あれは、俺たちに必要な人間じゃない。俺たちを腐らせる人間だよ」

 喫煙室を出た織畑の前を、トイレに来ていた山野が横切っていった。ガラス張りの小部屋に防音機能など備わっていないのは、誰の耳にも明らかだった。

 折り重なった過去のわだかまりをまとめて裁断するように、瑠奈は口を開いた。

「それでも、チャンスはあります。今、系列の出版社のアンソロジー企画にも山野さんが参加できないか打診しているところなんです。きっと大丈夫ですよ」

 瑠奈が山野を推す理由は、あのショートショートただ一本だけだ。だが、それで充分だった。後戻りできずに意固地になっているのかもしれないが、それでもいいと、瑠奈は本気で思っていた。昔から、直感は信じるタイプだった。気づけば、目の前の山野の肩が震えていた。泣いているのかも知れなかったが、瑠奈からその表情は見えなかった。

「頑張ってみるよ」

 山野の背中を押せたような気がして、その時は何かが一歩前に進んだような気がしていた。ところが、次に喫茶店の同じ席で向かい合った山野は、とてもではないが、何かを吹っ切ったようには見えなかった。あまり寝ていないのか、山野の目の下には隈が目立ち、頬はこけていた。まるで別人のような変貌ぶりだった。

「どんな感じですか?」

 努めて明るく瑠奈が尋ねるが、山野はボーッと窓の外から通りを眺めるばかりだった。街の商店街が途切れる辺りには、小さな広場みたいなスペースがあって、胸の高さの土台の上に、翼の生えた少女が今にも飛び立ちそうな銅像が立っている。誰もその像に見向きもしない。なんだか、その様子に自分自身を重ね合わせてしまいそうになって、瑠奈は山野の視線を追うのをやめた。ちょうどそのタイミングで山野が口を開いた。

「俺はもうダメなんだと思う。ずっと頭がイカれてるみたいだ」

 前回の打ち合わせから一週間が経っていた。

「そんなこと言わないで下さい」

 山野の溜息が返って来る。店内のテレビでは何かの特集が流れていた。専門家らしきスーツの男がボードで何かを解説していた。

『──……四万キロというのは、我々にとってはとても遠い距離です。しかし、宇宙規模で見れば、ニアミスもニアミス。スレスレを通過するということになります』

『地球に衝突するというようなことは……』

 心配そうな女性アナウンサーに対して、スーツの男はにこやかに返す。

『今は軌道計算でかなりの精度で小惑星のコースが分かります。現段階では、衝突の危険性はありませんよ。ただし、地球のまわりにある人工衛星には衝突などの懸念があります』

『そもそも、この小惑星はどこからやって来たものなんですか?』

『一般的には、火星と木星の間にある小惑星帯や海王星の外側にあるカイパーベルトからやって来ると言われていますが、遥か彼方で惑星などの天体が崩壊するなどして、その破片が何億年も宇宙を旅してやってくるものもあります。そういった天体の中には、新たな組成の物質が見つかる可能性もあり、一説ではそれが地球上の生命の……──』

 瑠奈はテレビを指さす。

「ほら、ああいうのとか、良い題材になりませんか?」

 山野の視線は外に向けられたままだった。

 道の向こうから、みすぼらしい格好の、輝くように真っ白な髪の男が、喘ぎ喘ぎ駆けてくるのが見える。汗だくで、必死だ。通りすがる人の視線がとげとげしい。翼の生えた少女の像の前にやって来た男は、周囲を警戒するように見回して、ポケットの中から何かを取り出して、少女の像の足元にそれを置いた。すぐに逃げるように駆け出して、男は去って行った。異様な光景だったが、男の行動に目を向けていたのは、窓越しの瑠奈と山野しかいなかったかもしれない。

「なぜあんなことをしたと思う?」

 急に山野に問い掛けられて、瑠奈は口ごもった。

「え? いや、なんででしょう。何をしていたのかも分かりませんけど」

「目印に決まってる」

 虚ろで鈍い山野の瞳に瑠奈の呆気に取られた表情が映り込む。何かを探り当てるように、その顔に笑みが注がれていった。

「何か思いついたんですね?」

 希望にしがみつくような瑠奈が見つめる中、像のそばの小路からワインレッドのジャケットを着た女が現れた。女は像の前に立って、男が残して行ったものに目をやって、こちらを見た。思わぬ形で視線がぶつかることになって、瑠奈は瞬時に目を逸らした。次に窓の向こうに顔を向けた時には女の姿はなかった。妙な冷や汗を拭って山野を見る。彼は思い詰めたような顔をしていた。

「メッセージだ。どこからか持って来たアレで、救われると信じているんだ」

 普段の滲んだインクみたいな口調とは違っていた。それが逆に瑠奈の中に不安を掻き立てた。

「メッセージって、どんなですか?」

「あれは奪ってきたものだ。それが自分の忠誠心を示す証拠なんだ」

 山野の瞳が揺れている。様子がおかしかった。

「さっきの男は俺自身なんだ」

「何を言ってるんですか……」

 追い詰められすぎたのかもしれない。自分のせいで。瑠奈は直感的にそう思った。山野は頭を抱えた。

「君は知っているか? 我々の宇宙には別の宇宙が広がっている。重ね合わされた、別のあり得た宇宙……マルチバースだよ。我々は視点によって決定されている。どの宇宙がその都度選択されるのか、それは視点を持った者に左右されるんだ」

「新しい物語の世界観ですか?」

 恐る恐る瑠奈は訊いたが、今や意味のない質問だった。

「別宇宙の情報が流れ込んできた時、自分は無限の可能性の塵のような一部でしかないと悟ることになる。そして、あり得たかもしれない自分を思うのだ。その道が今の自分を救う唯一の手段となる。だが、その救いすらにも、俺は見放されたと今、知った……」

 それからの山野はブツブツと何かを呟き続けて、打ち合わせどころではなかった。彼が次作に没頭しているのだと言い聞かせ、テーブルの上に余分に金を置いて店を出た。


「おーい、瑠奈。なにずーっとボーッとしてんの?」

 我に返った瑠奈の視界に香苗の顔が迫っていた。

 ──重ね合わされた別の宇宙。

 その言葉が瑠奈の脳裏を駆け巡って、気づくと彼女は走り出していた。香苗たちが引き留めるのも振り払って。大通りに出て、この混乱の中で辛うじて巡行している乗客がすし詰め状態のの路線バスに飛び乗る。

 いつもより三倍も時間がかかって、あの喫茶店のある街に降り立つ。バスを出て、猛スピードで駆ける。あの店に行けば山野と会えるのでは、と漠然と考えていた。その気持ちひとつでは、二年以上走ることのなかった身体を前に推し進めることはなかなかできない。

 汗だくになって、スーツの袖で額を拭いながら、小路を行く。街の混乱と喧騒から切り離されたようなこの小路は、あの喫茶店への近道でもあった。

 途中、バオバブが乱雑に突き出た狭い路地を通って、どこかのスラム街のあばら家の中を通り抜ける。本当に世界がめちゃくちゃになっている。遠くでサイレンが鳴り響く中、瑠奈はやっと喫茶店のそばに出た。

すぐそばに翼の少女像がある。その足元に、いつか男が置いていった物が置かれたままになっていた。近づいて見ると、黄銅色のオイルライターだった。その表面には火を纏った狼が描かれている。

 すごいものを期待していた瑠奈の胸に虚しさが湧き上がってくる。こんなものを、心のどこかでものすごいものだと期待していた自分が情けなく思えてくる。

 ふと喫茶店の方を見る。

 窓のそばの席には、輝くような白髪の男と、ワインレッドのジャケットを着た女が座っていた。

 それを認識した次の瞬間に、女の方が目を逸らしたのが分かった。

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