第22話 襲撃—⑦
「重なて上位命令だ。
『今、ここで、千歳羽樹里を、殺せ』」
本来、この命令は『千歳羽樹里を守れ』という命令と矛盾する。
事前に、他の命令の破棄こそ言い伝えたが、そんな無茶が効くのなら苦労など初めから存在しない。権限の順位に差があれど、上位命令とはみつきの根源たる本能に近い部分に強制的に作用している。
よって、競合には強烈なストレスと忌避感が発生する。場合によっては、命令の履行すら充分とは言えないものになることを、青年は数多の実験から知っている。
それでも尚、『千歳羽樹里に命令を秘匿する』という条件を、目の前で破ったこと、その処理がみつきの脳内で終わる前に、畳みかけて上位命令を挟むことで、瞬間的にだが矛盾した上位命令が通ることを青年は知っていた。
代償として、命令が完了してしまった場合、前頭前野への多大な損傷が起こるが、この際、そのリスクは放棄することにした。どのみち、あの老婆に命令を取り消させるのは不可能に近いからだ。
第二主人たる青年は、そのまま羽樹里に視線もやらず、踵を返した。
もうすでに、彼女の命の行く末は決している。
千歳羽樹里の世迷言も、もはや考慮には値しない。
数分のうちに全て制圧してこの件はお終いだ。
背後から血が数滴飛び散るのを、視界の端に捉えながら、青年は思考していた。
※
ふう、改めて受けてみると訳が分かんないね。
視界が裏返ったと思ったら、もうすでに、みつきに地面に組み伏せられていた。
私の上に馬乗りになった、浴衣姿のみつきに、同じく浴衣姿の私が抑えられている。
武器は構えてない、両手で私の首を持ってわなわなと、でもゆっくりと確かに私の気道を締め付けている。
息を吐こうとして、カヒュッと変な音が鳴る。視界が白み始めるのをどうにか堪えながら、やれやれと内心嘆息する。
ああ、このまま死んじゃうんじゃない、私。
手足が震える、視界が滲む、音という音が遠くなって、眼の奥で火花が数回迸る。
死ぬ。いや死ぬ、なあ、これ。
十六年、生きてきて、やっとの終わりがこんなところって。
ちょっと拍子抜けしそうにもなるけれど、まあ、私なんてそんなもんだよねーとも想う。
だって人が死ぬことに特に意味とかないわけで、私が関わってきた沢山の人も、そうやって無為に、無作為に死んでいったわけなんだし。都合のいい運命とか、残念ながらこの世にはないのだった。
だからまあ、私の番だからって、そんな特別なこと何にもありはしないよね。
ごめんね、お母さん、お父さん、檜山さん。
折角、守ってくれた命なのに、私、結局大したことなんてできなかった。
折角、生かしてくれたのに、私、何の報いも果たせなかった。
……なんて、嘘なんですけど。
だって、どうすれば生きてることに意味を造れるかなんて、私、そもそもさっぱりわかってなかったし。
どうやって生きていけば、死んだ人に報いれるかなんて、誰も教えてなんてくれなかったし。
最初からやり方もわからないことなんて、どうやったって達成できるわけがないのだ。
こうやって、何かの気まぐれで拾った小さな子どもに、報いのように首を絞められているのが、私はお似合いで。
ああ、そういえば、みつきとの約束も結局、守れてないんだよなあ。
幸せになってね、なんて言った癖に、みつきが幸せの形をちゃんと見つける前に、主人が死んでりゃあ世話ないね。
ああ、ほんと、こんな私でごめんね、みんな。
悲しくて泣きそうだけど、泣けないや。
バカらしくて笑いたいけど、笑えないや。
ああ、本当に、ろくでもない人生だった。
ああ、本当に。
誰かを泣かせるだけの人生だった。
半端に才能があったばかりに、くそばばあに目をつけられて、そのせいでお母さんとお父さんまで死なせたくせに。
結局、言いなりのまま、誰かにいいように操られたまま、こうやって惨めに意味もなく死んでいく。
なんだったんだろ、私の人生。
ほんと、なんなんだろうね、こんな役立たずの私はさ。
そんなだから、せめて私の代わりに幸せにしようって、考えていた小さな子どもすら泣かせてしまうのだ。
そう、ちょうど、こんなふうに。
ぼろぼろと涙を流して、酷い顔で、私の首絞めてんのに、まるで自分の首が絞められているみたいに、辛そうな、苦しそうな顔をして。
このまま私が死んだなら。
君はもっと泣くだろうか。
このまま私が死んだなら。
君はきっとこれから、幸せになるのがもっともっと難しくなってしまうだろうか。
このまま私が死んだなら。
君は―――――――。
ああ。
それは。
やだなあ。
もう、自分のことで怒るなんて、嫌がるなんて、そんなこととっくにできなくなったけど。
君が泣くのだけは、なんだかやだな。
君を泣かせてる奴らにだけは、なんだかすんごく腹が立つなあ。
なんでだろ。
わからないな。
わからないけど。
まあ、いいか。
本当に、ここで終わってもよかったのに。
でも、まだ。
ほんの少しだけ。
胸の奥の心臓が弱く脈打っているみたいだから。
君の手首をぎゅっとにぎった。
それを感じた君の眼が驚いたように開かれて、おかげで気道が一瞬空気を通す。
すっと息を吸って、吐き出した。
「だーめ、みつき、やるんなら一思いにやって? ちゃんと武器は持ってるでしょ?」
そう言って、君の手首にそって手を滑らせて、その袖口に仕込まれていたナイフをそのまま握らせる。
涙にぬれたまま、どこか呆然とした君の手を握ったまま、そのままそれをみつきの手を取って、私の腹部にあてがわさせる。
「だめ」
だめじゃない。
「だめ」
だめじゃないよ。
「死んじゃう」
でもそれをしないと君が苦しいんでしょ?
「だめ」
だからそう一思いに。
君の手は私の首を締めていた頃からずっとずっと、震えてる。きっと命令に従わないといけないという想いと、それを拒む想いが同時にかかってずっと腕を振るわせているんだろう。
くそばばあの命令が、これを引き起こしているのはちょっと癪だけど、まあ、多分にみつきの良心によるものってことにしておこう。
君の心はずっとずっと、押し合ってる、矛盾する言葉にずっとずっと苦しんでいる。
それを少しでも解き放ってあげたいから。
「ほら」
「だめ」
「おいで」
震える君の手を。
私の身体へと。
そっと。
導いた。
「 ぁ ぃ っき ぁ 」
―――――――――――――――――――――――
「認証コード『50769328140598362176429038512967340857631920470』
上位命令、
『耳を塞いで、この場所から逃げなさい、今、すぐに』」
※
背後からの爆音で、異変を察知した、第二主人たる科学者は振り返った。
何が起こった? 爆弾?
そんな疑念をよそに視界は薄い煙幕でおおわれている。といっても、スモークグレネードのような視界を隠す類のものではなく、ほんの十数秒で視界はすっかり晴れていた。
どうにも、千歳羽樹里が懐に仕込んでいたものを、手近なところに投げて爆発させたらしい。
青年はそれを認識して、鼻で笑う、あのハエトリグモに爆弾など効くものかと。
ただ数瞬の後に、煙の中からゆらりと姿を現した千歳羽樹里を見て、彼は同時に絶句した。
少女の首には凄惨な締め跡が、少女の腹部には血が滲んだ刺し傷がある、だが問題はそこではない。
ガラン、と音が鳴ったことを契機に青年は視界を上に向けて、ようやく既にハエトリグモたる少女が、羽樹里が通ってきた通風孔を通って、この場所から去っていることを認識する。
「何を―――した?」
青年の問いに、羽樹里は血のにじんだ腹部を押さえながら笑っていた。
「え――? 私が上位命令でみつきをここから逃がしただけだけど?」
足取りの覚束ないまま、身体をくの字に曲げながら、羽樹里はやれやれと肩をすくめる。
「……違う、お前はあのばあさんと取り引きなんてしていなかった! 全部ウソだったはずだ!」
現状を認識できていない青年は焦ったまま口を開くが、羽樹里はやれやれと嘆息を突きながら大枠の窓ガラスから離れて、研究机の一つに身体をゆっくりと預けた。
「いやあ、嘘が混じっているからと言って、全部が嘘とは限らないじゃん? この場合、命令を録音してたってのが嘘で、ばばあと取り引きをしてたっていうのはほんと」
少女の腹部からは絶えず血がごぼごぼと零れ続けている。そんな様に少し自嘲めいた笑みを浮かべながら、羽樹里はごろんと研究机の上に寝転がった。まるで、一仕事終えた疲れを全身で表現するかのように。
「上位命令の認証コードを、ちょっとした取り引きで聞き出したの。あのばばあが、みつきに上位命令を掛けてるのは一度、見てたしね。34パターン×46桁の配列全部、暗記するの大変だったぞう?」
わなわなわと唇を震わせる青年を端目で捉えながら、羽樹里はとうとうと言葉を紡ぎ続ける。
「そしたら後のネックは、あんたが私の見てないところで、どこまでみつきに上位命令を掛けているか。それで認証コードの配列がズレちゃうからね。一度でも命令をしくじったら、今度は認証コードを言う前に口封じされちゃうでしょ。だから一発勝負だったよねえ」
青年に先ほどまでの余裕は既にない。彼の自信、彼の余裕を担保していた最強のカードは今、ここにはもはやないのだから。ここにあるのは、既に死に体の少女と、所詮軍事の訓練の一つも受けていない科学者一人だけだった。
「だから、一度、私の目の前で、上位命令を使ってもらう必要があった。方法はぶっちゃけ大体アドリブだけど、あんたみたいな完璧主義は、他人のボロは徹底的に突いてくるから、わざとわかりやすいボロを混ぜて、強硬策に出てくれるのをずっと待ってた。私を襲った時から想ってたけど、あんたのみつきに対する信頼は絶大だもんね。だからこそ、絶対に、みつきを使って私を殺しに来る。その時をずっと待ってたの」
うべ、っと羽樹里が嘔吐感に声を漏らすと、その口から数滴血が零れ始めていた。やれやれと嘆息しながら、少女は淀みなく言葉を吐き続ける。半分は自身が気絶しないためだった。
「そしたら後は、さっきみたいに隙をつくって、上位命令でみつきを逃がすだけ。一応、お腹を刺してもらうことで、簡易的にあんたの命令も達成済みにしちゃったわけ。どぅーゆーあんだーすたん?」
血で口元を汚しながら、痛みに膝を震わせながら、寝ころんだまま、少女は科学者に向けて笑顔を向けた。その瞳を見て、科学者は怒りにわなわなと手を震わせていたが、一度研究台をガンと叩くと、射殺すように少女を睨んだ。
「まだだ、まだ終わってない。お前を人質にして交渉する。まだ私の手番は終わってない!」
怒りに顔を歪ませながら、それでも青年は思考を巡らせていた。形容しがたい執念にも似たそれを、羽樹里は嘆息混じりに眺める。その瞳に興味の色はなく、青年が懐から拳銃を出して羽樹里に向けるのを見ても、その表情はどこか困ったような顔のままだ。
「困ったなあ……はやくうちに帰りたいんだけど」
そろそろ空が白み始めるころの事だった。
そんな折、羽樹里が付けていたイヤホンが振動する。はてと、青年を無視したまま羽樹里は無造作に通話を開いた。
『センパイ! 言われていた通りのこと、つつがなく完了しました!』
「お、りょーうかーい、ところで紗雪、今、こっち見てる?」
『はぁい、もちろん見てますよ。ご命令を。―――いつでも、つつがなく』
その言葉に、少女は軽く笑みを浮かべて、青年の方にすっと瞳を向けた。
自分より遥かに年下の、瀕死の少女にまっすぐな視線を向けられて、青年はおもわずたじろいだ。自身の手には、現代の暴力の化身ともいえる銃を握っているにも関わらず。
「おっけ、紗雪」
『はい』
「撃て」
瞬間。
轟音と共に、研究室の大枠の窓ガラスが破砕して、同時に
銃の破片が手に食い込んで、血まみれになった手を抑えて埋めている、青年が蹲るのを、よっこいせと身体を起こした羽樹里は、酷く詰まらなさそうに見下ろす。
そのまま、羽樹里は自身が付けていたイヤホンをスピーカーモードに切り替えて、通話相手の声が青年にも聞こえるようにした。
同時に、スピーカーから快活で明るい少女の声が響き渡る。
『はあい、こんばんわ、コード3478、桐原相馬さん』
スピーカーから響く声に、青年は一瞬、戸惑ったような表情を見せるが、すぐに怒りのそれに塗り替わると、叫ぶように憎悪をはらんだ声を上げた。
「お前ぇっ! 蝙蝠女か?! こんっの裏切り者が……!」
ただ、そんな青年の声に、スピーカーの向こうの紗雪と呼ばれる少女は、意図してどこか間の抜けたような営業口調で淡々と語り続ける。
『大変残念なお知らせなのですが、つい先刻『
紗雪はあえて、スピーカーの向こうにも聞こえるように狙撃銃のボルトを引き直す。
『私のことを知っていて頂いて、光栄ですが、裏切り者はそちらになってしまいましたねえ。ではでは、今後のご活躍とご生存を心よりお祈りさせていただきまーす』
そうして、相も変わらずどこか間の抜けた声に、青年は怒りと当惑でどうすることもできないままに、血まみれの自身の手を抑えていた。
そこまでのやり取りを見届けてから、羽樹里はイヤホンのスピーカーをオフにすると、ゆっくりと跪く青年に向けて、ゆっくりと笑みを向ける。
「さ、困ったね。これであなたは、組織から追われる身、当然、うちのくそばばあも、危険因子たるあなたを探してる。殺してくれたらいい方で、まあ情報を全部吐ききるまで、ただただ死にたくても死にたくても、生かされ続けるのがオチかなあ」
少女の声が、少しだけ、低くなった。
それはゆっくりと、まるで地の底から、暗い暗い孔の奥から響くような、おぞましい何かを震わせているような、そんな途方もない声だった。
まるで人という生き物の、絶対的な強者に対する、根源的な、恐怖を、畏怖を想い起こさせるような、そんな声だった。
その中に、僅かに、ほんの僅かにだが滲むような、微かな怒気を孕ませながら、少女は科学者の青年をじっと見下ろしていた。
「私の言う通りにすれば、生かしておいてはあげるけど―――どうする?」
その問いに、選択肢などないことを、誰より少女は知っていながら。
無慈悲に、無関心に彼女はそう、静かな怒りを孕んだ瞳で、青年を見つめていた。
青年は、何の抵抗も許されないまま、ただ敗北に項垂れることしか出来なかった。
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