第9話 主人と出かける、学校へ行く
朝、目覚めて自分の部屋に日が差していることには、まだ慣れない。
急にアラームや電気ショックで引き起こされない目覚めにも、まだ慣れない。
窓の外で車の音や、鳥の声が聞こえることにも、まだ慣れない。
がらっと窓を開けて、そこから春の温かい風がそよそよと流れ込んでくることにも、まだ慣れない。
そうしているたびに、どうしてか、眼の奥がじわりと熱くなる感覚にも、まだ慣れない。
自分の部屋のドアを開けて、リビングを通り過ぎた後、主人の部屋に行くことにも、まだ慣れていない。
ドアノブを捻って主人の部屋に入って、寝ぼけ眼の主人に声をかけることも。
まだ、慣れていない。
「ふわっ……おはよ、みつき」
「主人、命令して」
「よし、じゃあ一緒にごはんにしよっか。棚からお皿とカップを持ってきたまーえ」
このごっこ遊びみたいな命令を受けることにも。
寝起きの主人が、にへらとどこか力の抜けたような笑みを浮かべることにも。
二人して、朝にコーヒーを淹れながら、パンを摘まむことにも。
ただのパンとコーヒーなのに、随分と美味しそうに食事をする主人の顔も。
毎朝、好きなのを選んでいいと渡される、ジャムとバターを眺めることにも。
まだ慣れていない。
だって私は殺しの人形なわけだし。
こんな、きっと、どこかの誰かにとってあたりまえの日常生活を、送ることを想定して造られたわけでは、ないのだから。
「ねえ、みつき、今日はなにしよっか?」
そう言って、笑いかけてくるあなたの声を聴くことは。
まだ、慣れていない、けれど。
もしかしたら、しばらくしたら慣れることもあるのだろうか。
朝、風を浴びた時と同じ、眼の奥がじわっとするような感覚を感じながら、私はゆっくりと首を傾げた。
※
まだ数日しか過ごしていないが、最近、おぼろげながら主人の日常というものが段々理解できてきた。
朝は大体八時かその少し前くらいに目を覚ます。
寝起きはあまりよくなく、朝食の準備をしているときは、視線と判断力が鈍くてあくびをしながら、よくカップから砂糖をこぼす。
パンの焼き上がりを待っている間にまた欠伸して、食事をしている最中に、今日の予定を私に向けてつらつらと話し出す。
それから、食事を終えると主人曰く『仕事』が始まる。
大半はメールのチェックや、ネットのツールを用いた会議のようなもの。たまにじーっとネットニュースを眺めたり、私には理解できないグラフや数値を見てうんうんと唸ってる。
一応、人に会ったり外に出たりする仕事もあるとのことだったけど、主人曰く。
「最近はね、そういうのちょっと自粛してるんだよねー」
とのことだった。
午前中はそうやって仕事をした後は、午後からは主人曰く自由行動になる。
下の階の喫茶店に顔を出して、店員として働いてみたり、何でも屋と呼ばれる場所に顔を出したり、私の調整をしている医者の所に行って、私の検診の内容で話し込んだりしていた。
私は彼女の護衛だから、当然その行動についていくのだけど、基本的について行ってもあまりやることはないので、その時々の場所でお手伝いと称して、簡単な命令を受けていた。
ここ数日でわかったことだが、命の危険を伴わない命令でも、何度も繰り返していると頭痛は起きないようだ。ただ、薄い頭痛が通してある感じだから、対処療法の域は出ていない、というのが医者の意見で、それに関しては私も同意見だった。
ただ、護衛任務である以上、襲撃がなければ命令は必要ないので、そこはどうしようもない部分だろう。
とりあえず、そんなのが今の、私と主人の日常だ。
ただ、今日は少しだけ様相が違って見えた。
朝、主人はメールを開いてしばらくすると、頭をぐぬぬと抱えだした。
難題が振ったときは、何度かああいう感じの対応になるのは見てきたが、大体十分程度で切り替えていた。ただ、今回は珍しくあまり早く解決せず、結局、昼に医者の所に行くまで持ち越したままだった。
「何悩んでんの、あんた」
医者もそれを感づいたのが、三人で診察室でクッキーと紅茶を食べている最中にそう問いただした。
ちなみに私は主人の隣に座って、一応いつでも動ける状態のまま待機している。時折、主人が口にクッキーを運んでくるから、その時だけ口を開けるけど。
「あ、えーとね、うんとね。……将来のこととか?」
そう言葉を濁した主人の頭に、医者の手刀がバスッと飛んだ。見知らぬ人間なら防衛が必要だけど、知人であることと明らかに害意がないので見逃した。
「あんたが、そうやって頭を抱えるときは、もっと具体的な問題でしょうが。もったいぶらずにいいなさい」
そうしていると、この二人のやり取りは、どことなく母と娘を想わせる。実際育ての親ということだし、主人も他の人間の前では凛とした態度をとることが多いけど、比較的この医者の前では甘えた子どものようになる。
現に主人は珍しく歯切れの悪い態度をしばらく取っていたが、やがて諦めたようにため息をついて言葉を漏らした。
「いや………………学校からさ、連絡来たんだよね。そろそろ出席日数危ないぞって」
その返答に、私は少し首を傾げて、医者はああと得心したように口を開けた。
「そういえば、あんた高校生だったわ……」
「いや、忘れないでよ。華の女子高生ぞ、我」
「華の女子高生は朝から株価とにらめっこして、午後から精神科医と面談とかしてないわけよ。後、自分で華の女子高生とか言わないわけよ」
「…………そこはほら、私、リラベル女子高生だから」
「それ言いうならリベラルでしょ、いや私もよく知らないけど。で、どうすんの学校、出席しなきゃでしょ?」
主人が少し言葉尻を弱めたところに、医者はそう言って尋ねた。
ただ肝心の主人はどことなく医者から目を逸らして、苦笑いにも近い表情を浮かべている。
「たはは、どうしよっかな……。このまま行くと、留年だよねえ……」
「でしょうね」
「でも、……ほら、私、働けてるし。お金も稼げてるわけだしさ」
主人は先ほどから終始珍しく歯切れの悪い、少し肩をすくめるような動作を取る。ただ、そんな主人の態度に、医者は少しだけ訝しんだ眼で見た後、鼻を鳴らした。
「昨日、渚の奴に聞かれたけど? 羽樹里のバカはいつになったら学校に出てくるのって」
「しゃ、……社長業もけっこー忙しくてさ、ほら」
「昨日、暇すぎてその子と一緒に真島君のとこでケーキ創ってたらしいじゃん?」
「じ、事業も波に乗って来てまして……」
「ってことは、もうある程度ほっといても大丈夫ってことね。よかったじゃない、社員が優秀で、しっかり任せていけるじゃない」
「………………」
大仰に手を振って、空笑いを浮かべていた主人の眼があらぬ方向に泳いでいた。そしてそんな風に泳いで逃げようとする主人を、医者はゆっくりと言葉で追い詰めていく。追い込み漁というのはこういうことだったろうかと、私は箱のマテリアルで見た知識を思い返していた。
しばらく、そうして医者と主人は問答を繰り返していた。私としては、時折口に運ばれてくるクッキーが来なくなったので、口の開けどころに悩んでしまう。
しばらく口を開閉させても次が来ないので、別の目的のために口を開くことにした。
「主人は学校に行きたくないの?」
私は学校という場所に行ったことはないけれど。
そこはこの国の十代の人間のほんとどが通う場所だったはずだ。しかも、文脈から察するに主人はそこに所属していて、それでも尚、行っていないということになる。
医者は一瞬、驚いた表情を見せた後、ゆっくりと主人に視線を戻した。
肝心の主人は、少しだけ口を止めて、私を見た後、身振り手振りにつかっていた手をゆっくりと下に下ろした。
それから私に向けて、薄い笑みを浮かべると、少しだけ悲しそうな声で語り掛けてきた。
「ううん、行きたくないわけじゃないの。ただ、ちょっと前に怖いことがあったからさ、びびっちゃってるだけ……かな」
そういって、私の首をさらさらと撫でてくる。
優しくて、でもどことなく悲しそうで、それでいて何かを諦めたような。
そんな声が主人から響いてた。
医者もその言葉に神妙な顔をして、腕を組んで黙っている。
なるほど、きっとこの人たちは、初日に出会った狙撃犯のような、
だから、私は尚、首を傾げた。
「
私の言葉に、主人と医者はピタリと固まった。
その顔を少し見て、返事が来ないので思案する。
私が護衛をして心配になるような事象、なんだろう。
施設全体を巻き込むような広域爆破。あるいは、この前の襲撃に横やりを入れられたような、一キロ以上の遠距離狙撃。民間人を盾にとった人質交渉などが思い当るだろうか。
ただ、理念上、
となると必然、衆人環境での襲撃は考えづらく、ともすれば衆人環境の方が安全という可能性まで見えてくる。
もちろん、衆人に紛れた
それでもまあ、護衛は可能だというのが、私の判断だった。
ただ、そこまで思考して、私は目の前にいる二人の様子が少しだけおかしいのに気が付いた。
二人ともどうにも見たことのない変な表情をしている。なんというか、何かを抑えているような。それでいて今にも笑いだしてしまいそうな―――。
「っ―――」
そうして数瞬の後、二人して示し合わせたように笑い始めた。
お腹を抱えて、病室の外にまで響き渡るような大きな声で。
なんなら目尻に涙を浮かべて。
私はその様を不思議に首を傾げるだけだった。
何か、私が想定していなかった事態があっただろうか。
ただそうしている私に、主人は少しだけ目尻に涙を浮かべたまま、ぽふぽふと頭を撫でてきた。
「ふふふ、そーだった、そーだった。うちにはみつきがいるんだった。心配とかするだけ無駄だよねえ」
「まあ、あんだけとんでもパワーがあったら、そこら辺の暴漢とか来ても大丈夫ね。マフィアに囲まれても、なんか無事に帰ってきそうだわ」
‥‥……?
よくわからないが、納得はしてくれているみたいだ。私は自分の想定外な、護衛の問題がないことに少しだけ息を吐く。まあでも、緊急時の想定は主人と後で重ねておいた方がいいだろう。
よくわからないままに、私はひとしきり撫でる主人と医者の様子をクッキーを頬張りながら眺めていた。ちなみにクッキーはいつまでたってもやってこないので、自分から手を伸ばして取った。
「私、みつきがいるなら心配とかないわー」
「そりゃなによりで」
「…………? 私は、始めからそう言ってる」
そんな私の言葉に、主人は私の頭を抱きしめるように腕で回すと、楽し気などこか涙混じりの声で笑っていた。
「ふふ、そだね。そだねえ」
私はよくわからないままに、首を傾げた。医者まで何故か私の頭を撫でまわし始めたのが、余計に訳が分からなかった。
※
次の日、朝、いつも通り身支度を整えた私たちは玄関前で靴を履いていた。
いつもと違って、学校が指定したブレザーに身を包んだ主人は、少し懐かし気にそれら見ながら、いつもは履かない革靴に足を通した。
私は可能な限り目立たない格好と装備で、主人の隣に立った。
軽く装備を確認した後、主人と眼を合わせる。
主人はどこか楽しそうに私を見ると、にっと朗らかに笑っていた。
その瞳の奥が、昨日と同じで、どこか泣きそうになっているのを私は不思議に想いながら、二人してドアを開けた。
初めて、向かう学校という場所に少しだけ、息が短くなるのを感じながら。
私達は、外に向かって一歩、踏み出した。
「おはようございます、センパイ」
「そして、
「ええ、そうです。お察しの通り、
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