第6話 県大会


 県大会当日は、青春を賭けるに相応しい快晴だった。


 西高吹奏楽部は、会場となっている県民ホールに電車で向かっている。

 いちかは扉脇の隅に寄りかかりながら、騒がしくなる部員たちを諫めて回る美雪をただぼぉっと眺めていた。


 瞼の裏には、彼女の涙が焼き付いていた。

 昨日目撃したその光景に、いちかの心は、ずっと違和感を覚えている。


 胸の奥に何かを植えつけられたような、何かを思い出しそうな、そんな居心地の悪さ……


 ――パンッ!


 という突然の破裂音にいちかが我に帰ると、萌絵が『今手を叩きましたよ』というポーズで目の前に立っていた。

 彼女の背後からは、サックスパートの後輩たちが勢揃いで顔を覗かせている。


「おいおいおい、もしや、緊張してんの?」萌絵がニヤッとしながら尋ねた。

「ごめん。ボォっとしてた」

「呆れた。大物だわ」


 萌絵は笑いながら、小さな紙袋をいちかに差し出した。


 それは雑貨屋の紙袋だった。

 中を覗くと、赤い花のような大ぶりのシュシュがひとつだけ入っていた。


「なにこれ?」いちかが怪訝そうに聞く。

「例のブツです」


 萌絵が言うと、全員が示し合わせたように見せつけてきた。

 各々同じシュシュで髪をくくったり、手首を飾ったりしている。


 そういえば、お揃いのものを買うって話があったな、といちかは思い出した。昨日起こった諸々ですっかり忘れていた。


「あぁ、なるほどね。でも、こんな派手なのステージで着けられないよね?」

「はい。なので、本番ではポッケに入れてください」

「それ、ただ欲しかっただけでは」

「あは? バレた?」萌絵はあっけらかんと笑うと、いちかの肩を拳でトンと軽く叩いた。「ま、気負わず頑張ろってことよ」

「……うん」


 いちかは頷くと、真っ赤なシュシュ紙袋から出して、仲間と同じように腕につける。

 すると、浮ついていた心が不思議と落ち着いて、やるべきことが明確になった気がした。


 そうだ、この子たちのためにも、頑張らなきゃ。



   ◇



 県民ホールは、浮き足立った学生で溢れていた。


 九割九部が吹奏楽の人間であることは、まず間違いない。

 剥き出しの闘争心をなんとか抑え、互いに牽制しあうせいで、奇妙な距離感がそこかしこに生まれていた。


 色鮮やかなブレザーに身を包む強豪校が、規律正しく列をなして行けば、周囲の弱小校は羨望や対抗心、時には怒りの滲んだ複雑な視線でそれを見送る。県大会では、いちかたちも視線を受ける側であり、地方に駒を進めれば、逆の立場だ。


 受付で出場者用のリボンをもらって腕につけ、しばらく待機する。


 スタッフに呼び出されれば音出し用の部屋でチューニングを合わせることができるが、時間がくれば楽器を抱えて廊下で再び待機。

 まるでベルトコンベアーで流されるかのように、いちかたちは気づくと舞台裏で出番を待っていた。


 ステージはたくさんの照明で照らされており、その煌めきに反比例するように、舞台裏の暗闇は粘っこく、重たい。

 学生たちの抱える楽器が、モニターの光を反射して、テラテラと怪しい光を返している。


 「えんじーん……!」


 副部長が小声で全員に呼びかけ、部員たちは円陣を組んだ。

 家族よりも長い時間を過ごした仲間たちの顔が輪になって並ぶ。


 美雪は全員と目を合わせると、一人一人を説得するかのように言った。


「まだここはゴールじゃない……私たちには次がある……」


 そして、強く囁いた。


「まずは地方大会……! 絶対行くぞ……!」

「オー……!」


 舞台の先から雨のような拍手が聞こえてきた。


「プログラム七番。県立川西高等学校吹奏楽部。課題曲Ⅴに続きまして……」


 影ナレが高校名と演奏曲目を読み上げ始めると共に、いちかたちはステージ上へ進んだ。

 強い光に目が慣れないうちは、客席は最前列が見えないほど暗い。しかし、満員の客が放つ存在感は、不思議と肌でわかる。


 正装したコーチがお辞儀し、客席からの拍手を受け終わった次には、痛いくらいの静寂と注目が部員たちの頭上にのしかかってきた。

 一日限りの相棒である備品のアルトサックスが、黙っていちかを見上げている。


 コーチが微笑をたたえて指揮棒を構えたとき、美雪の問いかけがいちかの脳裏によみがえってきた。


 ――ねぇ、私が悪かったのかな?


 途端に、胸の奥に強い痛みが走った。


 なんなんだ、この感情は……?


 コーチの指揮棒が空を切る――



   ◇



 美雪の最後の話が終わった瞬間、部員たちの啜り泣く声が一層激しくなった気がした。


 川西高校の審査結果は、銀賞。

 地方大会どころか、金賞ですらなく、ここ十年の川西高校の歴史でも最低の成績だった。


 彼女たちにとって、『銀』の響きは重い。


 美雪の目に涙はなかったが、苦虫を何匹噛み潰しても足りないというような、悲痛な表情を浮かべていた。


「明日、反省会をしたらしばらくお休みです!」美雪の隣で、副部長はまぶたを赤く腫れさせながらも溌剌と伝えた。「ゆっくり休んで、英気を養ってください! じゃあここで解散! ありがとうございました!」

「ありがとうございましたぁ……」


 部員たちは、力なく返事すると、よろよろと駅に散らばっていった。


 気づくと、萌絵がいちかの元へ来ていた。

 自分も真っ赤な目をしているくせに、号泣する後輩の背を撫でて励ましている。


「帰るか、いちか」萌絵はおどけて言った。「我はもう腹が減ったよ」

「ごめん、今日は、ちょっと行けない……」


 いちかはなんとか言葉を絞り出すと、萌絵は同情するように目を細めた。


「そっか。じゃ、また明日」

「うん……」


 後輩たちと共に去っていく萌絵の背中を見送ってから、いちかは歩き出した。


 誘いを断っておきながら、行くべき場所や用事があるわけではない。

 ただ、一人の時間が必要だった。


 あてどなくホールの周囲を彷徨っていると、裏手に金属製の通用口があるのを見つけた。

 近づいてノブを回すと、キィッとドアが小さく鳴いて開く。


 その先は、細い廊下に続いていた。近くには電気設備用の大部屋と上階への階段しかない、人気のない場所だ。

 扉を閉めると、夏の喧騒は切り離され、涼しい空調と落ち着いた館内BGMが取って代わる。


「ふぅ……」


 いちかは壁を背に座り込むと、今朝貰ったシュシュをブレザーのポケットから取り出した。

 お守りとしての役目を早くも失ってしまったそれは、普段使いされるのを待つばかりになっている。


「……終わっちゃったね」


 わざと口にしてみても、空虚な感情しか現れない。


 何か、変なんだ。

 何か……みんなと違う……何が違う……?


 ふと、静かなBGMに混じって、奇妙な音が聞こえていることに気づいた。

 小動物の鳴き声にも思えるそれは、どうやら階段の方から反響してくるらしい。


 いちかは恐る恐る階段の入り口を覗き込み……探ったことを後悔した。


 踊り場の薄暗い電灯の下に座り込んでいたのは、美雪だった。


 部員たちの前では気丈に振舞っていた彼女が、今は制服の袖を噛み、嗚咽を押し殺して泣いている。

 人に見せられないほど顔を歪ませたその様は、美しい鬼のよう……


 見てはいけないものを目にしてしまったようで、いちかは気づかれないように廊下へと戻ると、その場で力なく座り込んだ。


 手に握っている真っ赤なシュシュが、敗北の涙を流す仲間たちの姿が、美雪の押し殺していた感情が、その悉くが、いちかの欠損を責め立ててくる。


「私も、頑張ったはずなんだけどな……」


 いちかは呆然と呟いた。


「なんで、みんなみたいに悔しくないんだろう……」



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