第12話 お米と味噌汁 〜日常を添えて〜
長い長い話が終わって居間に静寂が落ちた。
閉じ込めていたカコを
言葉にすることで改めて向き合うことになった”私”と”ワタシ”。
愚かで浅はかな奴だと思う。君とはまるで正反対。
君みたいなキラキラした人は私なんかと一緒にいたら駄目なんだよ。
こんな薄汚れた人間となんて。
依然として沈黙は破られない。静まり返った空間が息苦しくて隣の彼をうかがう。
驚いた。
彼は泣いていた。
意識的に泣くというよりも、涙が
左の目から溢れた雫はその頬に一つの筋を残す。
彼はまだ私の視線に気づかない。
「なんで泣いてるの。」
思いもよらず、口から発せられた言葉は冷え冷えとしていて刺々しかった。
刃物のようなそれは宙に浮かんで...消えずに残った。
そんなつもりじゃないのに。
彼の優しさ故だとは分かっていても、心のどこかでは『分かりっこないのに』と思ってしまう。相反する2つの気持ちがせめぎ合って胸が痛い。
(やっぱり私はこういう人間なんだ。これが本性なんだ。)
そう思うと納得できてしまった。
罪悪感が消え、開き直ったような気持ちになる。
***
初めて聞いた詩葉さんのカコ。
聞いているうちに気持ちがグチャグチャになって、視界もグチャグチャになった。
「なんで泣いてるの。」
予想もしなかった攻撃性を含んだ声で、ようやく泣いていたことに気がつく。
驚いて詩葉さんを見ると目が合った。しかしその瞳は俺の姿を捉えておらず、どこか遠くを見つめているようだ。心ここにあらずといった具合に。
思い出す。
他人の感情は何の役にも立たない。その笑顔が、涙が、罵声が
問題を解決することはない。どれだけ相手を想っていても。
そしてその感情は心からのものだといえるだろうか。
所詮は他人事。
長い長い歴史はある一つの事実を証明してきた。
『どんな善良な人間でも最後は己を選ぶ』
そんな生物が他人のために心からの感情を抱けるのだろうか。
きっとその裏には同情という名の比較と憎しみと妬みがあって、それらをひた隠しにして俺らは日々生きているのではないだろうか。
美化された感情は己を
案外、詩葉さんと俺は似た者同士なのかもしれない。
こんな奴と似たもの同士だなんて彼女が気の毒だが。
***
「話してくれてありがとう。」
別に君のためじゃない、と誰かが叫んだ。
誰かさんの叫びは無視して改めて彼としっかり向き合う。
普段の”世話好き”と”居候の青年”ではなく、お互い人間としての本性をむき出しにして向き合う。
「ごめん、大人気なかった。」
「うん。あれは大人気ない。」
「でも聞いてくれてありがと。初めて自分と向き合えた。」
「うん。俺もごめんなさい。分かったように振る舞ってた。」
「うん。でも気づいてくれたから。」
良い年した大人2人がソファーの上で正座をして反省会を行う光景はかなりシュールなものだろう。ごめんなさい、とお互いに頭を下げて許せる部分は許し合う。
これだけの儀式なのに終わるとお互いの見え方が変わってくる。
「なんかアイツに乱されちゃったね。」
「俺、アイツほど嫌いな人間に出会ったことない。」
「でもこうやって向き合えたのもアイツのお陰ってことだよね。」
「詩葉さん、それ以上は言わないで。気づかないフリしてたから。」
どんなに嫌なヤツでも、その出会いは未来を変える。
誰かの有名な言葉を思い出す。そう、自分が関わったことで1人の運命が変わるなら、世界の運命だって変わる。それが『縁』というものなのかもしれない。
「ご飯面倒になっちゃった。お米と味噌汁だけでいい?」
「ん。俺も手伝う。」
そうして迎えた夕食で私は泣いた。
いつものお米、いつもの味噌汁なのにすごく幸せを感じた。
一口噛むごとに溢れ出す甘さが、暖かくて優しい香りが無性に愛おしかった。
一瀬くんは目の前で急に泣かれてとんでもなく焦っていたが、
「わからない、わからないけど、なんだか嬉しくて愛おしくて幸せ、なの」
そう言うと彼も静かに泣き始めた。
もう意味がわからない。ついさっき仲直りして関係が戻ったばかりの大人2人がご飯を食べながら泣くというこの構図。もはや怖い。
『日常』は人間をつくる。
日常のリズムは人生のリズムになる。
日常で得たものは人生の糧になる。
日常の出会いは世界でたった一つの運命の出会いになる。
その日常が己から離れていきそうになったとき人間は不安を感じ、
もう一度戻ってきたときには大きな安心感を得る。
どんなにつまらなくて平凡でありふれた日常も自分にとって大切なものなのだと考えたら、面白くない教授の授業も嫌いなアイツも母親の小言も憎むに憎めない。
日常に感謝しなければ。
その日の夕食はしょっぱかった。
───でも世界で一番美味しかった。
***
泣きながら食べた夕食の片付けを終え、居間でテレビを見ていた時、詩葉さんが唐突につぶやいた。
「私さ、人生って本だと思うんだよね。」
「本、?」
「そう。本。」
「なんで?」
「わかんない。」
「わかんないのか。でもわかる気がしなくもない。」
「私の栞はまだあの日のところに挟まったままなんだと思う。」
「嫌な記憶じゃないの、?」
「だからだよ。それ以上嫌な思いしなくていいでしょ?続きを知らないんだもん。」
「でも楽しいところも読めないよ。」
「それ以上に自分と周囲の人間が傷つくことが嫌なのかもね。だから今の所挟む予定はないかな。まだ心があの日にいるから。未練ではないけど、あの日のことが大きすぎたというか、うん。」
なんと返して良いのかわからなかった。
しかし、沈黙もまた正解だと思う。
「その栞、俺が新しいところに挟んであげる。」
「ふふっ、うん。待ってる。」
テレビの向こうでは岡山弁の軽快なツッコミが響いている。
「そんなことばっかり思いつく脳は捨ててまえ!」
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