第11話 ワタシ 〈*〉
大学1年生のとき私には1年半付き合った彼氏がいた。
友人に連れられて(穂乃香ではない)合コンの埋め合わせに行ったときに出会った。今考えるとさほどタイプでもなかった。
男女問わず人気者の彼と恋愛経験など無いに等しい目立たない私。
別世界で生きてきた私たちが出会い、私は何故か彼に惹かれた。
今となっては何故好きになったのかはまるでわからない。
ある晩、いつものように一日私の家で一緒に過ごし交互に風呂に入ったあと、
火照ったままの身体でどちらからともなく互いを求めあった。 特になにも変わらない、いつもの週末だった。まったく愛に溺れていた。
異変という異変があったのはあの日から2週間が経った後だった。
生理が来なくなった。
しかし、あの日もちゃんと避妊具はつけてくれていた。
今までも周期が不安定なことはあったから大丈夫、と一人で無理やり納得した。
彼には言わなかった。
それからさらに1ヶ月がたった。流石に不安になって彼を疑うことに申し訳なさを感じつつ検査薬なるものを使った。実家の体温計のような形のそれには一本の赤い線が刻まれていた。調べなくてもわかった。───陽性だと。
〈今から家行っても良い?ちょっと話したいことある。〉
〈電話じゃだめ?〉
〈ごめん。忙しかったら別日でいい。〉
〈ん。俺がお前ん家行くわ。待ってて。〉
この時点で
それなのに馬鹿な私は、メッセージにすぐ返信してくれたことに喜び、面倒くさそうにしながらも結局は会ってくれることを愛おしく感じ、わざわざ家に来てくれることを気遣いと解釈した。疑うことなんて無かった。
心から愛されていると感じたし、私も心から愛していた。
恋人なんてみんなこんなものだと思っていた。
だから彼を疑うことが怖くて、申し訳なくて、心から向き合えなかった。
もしかしたら使い方が間違っていたのかもしれない。
ネットの情報だって鵜呑みにはできない。
そもそも検査薬が不良品だったのかもしれない。
───なんども抱いた淡い期待はすぐに打ち砕かれた。
「あ、ごめん。実は破れてたんだよね、アレ。いやー、終わってしーが寝てから気づいてさー。あれ、言ってなかったっけ?」
その男はいやにヘラヘラした顔を向けてきてそう言い放った。
すっかり忘れていたから課題を写させてくれ、とでも言うように。
脳内で音が語句になり、文章になる。
意味になった瞬間、目の前が真っ黒になった。
息の吸い方を忘れたように浅い呼吸を繰り返す。
もう目の前の男の声など聞こえていない。
張り詰めたような音の耳鳴りと長距離走の後のような鼓動だけが鼓膜に響いていた。
血圧が下がって身体が冷たくなる。
この世のすべてのものがものすごい質量をもって私に迫ってくる感覚がする。
もしかしてできたの、と怪訝そうな表情で問うてくる男に素直に首を縦に振った。
「え、困るって。堕ろすよな?」
この問に私がどう答えたのかはわからない。我を忘れて怒り狂ったのか、子供のように泣きじゃくったのか、はたまた言葉を失ったのか。何しろこの日の記憶はここで途切れていた。
産婦人科には2人で行った。母親と2人で。
エコーを撮ってモニターでもうひとりの姿を確認したときも、全てが終わったときも隣りにいたのは母親だった。
目の前に出された丸薬は毒薬に見えた。飲んでしまえば自分が自分でなくなる気がしたが、とうに”自分”というものが分からなくなっていたので諦めて水で流し込んだ。心のどこかに引っかかっていたあの男への期待にも似た気持ちも一緒に流し込んだ。
きっと一緒に育てよう、幸せになろうと言ってくれる。 きっと最後まで責任を取ってくれる。 きっと一緒に悩んでくれる。
きっと、きっと、きっと...
そんなものはただの理想であって信じるべきものではなかった。
夢なんか見るものじゃない、と強く思った。
あの男信じた自分が悪いと思って疑わなかったので、男の人を怖く思うことはなかった。 その代わりに自分を信じることができなくなった。
あの日、私は一度死んだ。
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