第10話 Count Down

(何!? 一体何が……!?)

 飛鳥が現状を把握するまで悪夢は待ってはくれなかった。たった今までクラスメートだった、担任の教師だった人間が口を耳まで裂き、そこから鋭い牙を覗かせて──あるいは鋭利な刃物と違わぬ長く伸びた爪を冷たく輝かせて一斉に飛鳥に襲い掛かった。その動きはすでに常人のそれではない。もっと野生に近い、獣じみたしなやかさと速さで、声もなく立ち尽くす飛鳥に食らいつき、引き裂き、思うままに蹂躙する、はずであった。

 ちりん……。

 パニックに陥り逃げることも身を護ることもできない飛鳥の耳に、澄んだ鈴の音が小さく響いた。それは真っ先に飛びかかった元男子生徒の牙が、飛鳥の首筋に触れるわずか数瞬前のことだった。

 ヒュォオオオ!!

 白い疾風が飛鳥を中心に渦巻いた。何が起きているのか全く解らない飛鳥の前で、すぐそこまで迫っていた獣人たちが吹き飛ばされ、教室の壁や天井に身を打ち付けて動きを止める。

(そうだ、さっきの……!)

 教室の中までは入れませんから、代わりのお守りを渡します──。

 神沢に渡された、鳴らない鈴。あれが飛鳥の身の危険を察知して守ったのだ。

 風が収まったとき、教室の中は飛鳥を中心として机が、荷物が、配られたプリント類が、そして獣人が壁に叩きつけられていた。衝撃でまだ動けないようだが、あくまで吹き飛ばしただけだ。すぐに意識を取り戻すだろう。

(逃げなきゃ!!)

 飛鳥は教室を飛び出した。

 すぐ隣の教室に避難を呼びかけようと扉に手をかけるが、ホームルーム中に鍵がかかっていようはずもないのに、その扉はぴくりとも動かない。

「ちょ、ちょっと!! 何で開かないの!?」

 引き戸が外れそうなほど強く叩いたというのに、教室の中から反応はない。焦りながらドアについている窓から中を覗くと、そこでは通知表を配られて何だか賑やかなクラスの様子が見えた。ついさっきまでの飛鳥のクラスと同じように。

(何で!? 聞こえないの!? ──まさか)

 結界──。

 避難を促すことはあきらめて、飛鳥は階段へと走り出した。階段を駆け下りながら思い出す。担任は何と言った?

 20分すれば学校に張ってある結界が解けるから、外に逃げられるわよ。

 結界の威力は昨夜間近に見ている。神沢が使った結界はとっさのものでも爆弾の衝撃と爆音を完全に封じ込めた。これが魔族側の周到に用意した結界であるなら、先ほどの突風の衝撃も隣のクラスには伝わらないだろう。

 学校に張ってある結界、と言ったがおそらくは他の教室へ逃げられないように、同時に他の生徒が逃げ惑って飛鳥を捕らえる邪魔にならないように閉じ込める役目も果たしているのだろう。この校舎で飛鳥が自由に動けるのは、教室以外──すなわち廊下と階段だけだ。これだけ場所が限られてしまえば、飛鳥が何処へ逃げようと簡単に追い詰めることができる。飛鳥を教室から出られないように結界を張ればおそらく彼女に勝ち目はなかっただろうに、わざわざ逃がすのは楽しんでいるのか。それとも追い詰めて嬲り殺しにしたいのか。

 そのどちらにも飛鳥は甘んじるつもりはない。とにかく今は神沢に合流しなくてはならない。あれだけの突風の衝撃でさえ教室の窓ガラスが割れなかったのだ、異変が校舎の外に漏れることはないだろうが、神沢から受け取った鈴は確かに反応した。『代わりに』と言った以上、何か感づいているはずだ。

(制限時間は20分……。もし20分経ったら、結界はどうなるの?)

 今は他の生徒は教室に閉じ込められた状態だが、裏を返せば結界に守られている形になる。それが解けたら、生徒たちが教室から出てきたら、あの獣人に遭遇したら? あの異形の者の目的は飛鳥だが、それ以外の者に危害を加えないという保証はどこにもない。

(逃げてるだけじゃダメだ、何とか……何とかしないと……!)

 20分以内にあの異形をすべて倒さなくてはならない。それが一番確実だ。そのためにはとにかく神沢と合流しなくてはならない。飛鳥では魔族との戦い方が解らないし、力を持ってもそれを自由に操ることができない。

(力……力?)

 それを自由に操れれば、あるいは。

 だが、どうやって?

 強い怒りを感じたときに力が発動するらしいが、今は怒りどころか混乱の極地だ。何をすれば、何処へ行けばいいのかさえ解らない。解らないまま階段を駆け下りた先には土間があった。いつもなら開け放たれているはずのその扉は重く閉ざされ、南京錠も外されたままになっているにも関わらず、やはり動くこともない。

「開いてよー!!!」

 力任せに扉のすりガラス部分を叩いてみても、割れるどころか音を立てることもなく、体力を無駄に消耗する一方の飛鳥を嘲笑っている。

 叩く手を休めて耳を澄ましてみても、まだ追跡者の兆候は窺えない。大きく深呼吸して、飛鳥は目を閉じた。

(力……私の中にある力……)

 邪悪を断ち切る『破邪の剣』と風の守護。それらが今までどんな形で自分の中にあったのか、飛鳥は知らない。知りたいとも思わない。どうして自分だったのか、何故自分がこんな目に遭わなければならないのか。

 もう、そんなことはどうでもいい。

 直面にある危機を回避しなくてはならない。それが最優先だ。

(私の中にあるのなら、出てきて! 私を助けて!)

 じわりと握り締めた右手の拳が熱くなった。

(──!)

 渾身の力をこめて、右手を扉に叩きつける。

「いッたぁぁぁい!!!」

 飛鳥の存在そのものを無視するかのごとく、扉はびくともせず悠然とそこにある。その前に右手をさすりながら飛鳥がうずくまった。

「ううっ……、ダメじゃん……」

 イケるかと思ったのだが、現実は甘くない。この扉を破ることができないのなら、他を探すしかない。周到に用意された結界に欠陥があるとは思えないが、だからといってここに固執していたら追い詰められるのが関の山だ。こちらとは反対側の土間に回ってみるか──反対側は講堂への渡り廊下がある。もしかしたらこことは状況が違うかもしれない。

 よろよろと左手で右手をさすりながら立ち上がった飛鳥の表情が、一瞬にして凍りついた。土間の前に、猫系の獣人がひとりと、狼系の獣人が三人。顔ももはや原型をとどめてはおらず、そこにいる異形の元が誰なのか区別はつかない。

(嘘!? 足音なんか聞こえなかったのに)

 驚きのあまりその場に座り込んでしまった飛鳥に、何のためらいもなく獣たちが襲いかかった。それぞれに鋭い牙と爪を剥き出しにして、床を蹴る音さえさせず、それは野生の動きそのものだった。

「いやあ!!」

 無駄な抵抗だった。盾も槍もない飛鳥が獣と戦うなど、できようはずもない。鈴の効果は一度きりなのか鳴ることもなく、飛鳥の腰に揺れている。

 無駄な抵抗だと思いながら、相手を突き飛ばすように勢いよく両手を突き出した。その手のひらを誰かの爪が突き破──   

 ドォォン!!

 飛鳥の手のひらで、何かが弾けた。その反動で座ったまま吹き飛ばされて頭を扉に打ち付ける。

「痛っ」

 目の前で星が飛んだが、頭を振ってよろめきながら立ち上がる。

(今の……確かに……)

 確かに両手が熱くなった。それに今の衝撃。もしかしたら……。

 襲いかかってきた四人はどうなっただろう。周囲を見回すと、吹き飛ばされて意識を失っている『人間』がいた。

(……っ!)

 四人とも、元のクラスメートの姿をしていた。そこにいる全員が確か運動部に所属していたはずだ。鈴の衝撃を受けて真っ先に立ち直ったのはやはり体力のある者たちだったのだろう。異形となってもベースとなる肉体の影響を受けるということか。

(ゴメン)

 動かないクラスメートをそのままに、飛鳥は反対側の土間に向かって廊下を走り出した。

 元に戻るというのなら、異形となったからといって殺してしまう訳にはいかない。今回は運良く気絶させるだけで済んだが、もし加減を誤ったらどうなることか。だが力を使えるようになったのはたった今で、それを加減などと高レベルなことをできようはずもない。向こうはこっちを殺す気でいるのだ。相手を気遣っていたらこっちが殺されてしまう。

(もう誰も来ないで……)

 飛鳥の願いも虚しく、反対側の土間に回っていたらしい何人かが真正面からこちらに向かってくる。ひとり、二人、三人──。走る速度を緩めることなく、飛鳥は正面を見据えてまだ痺れの残る右手を振りかざし、相手目掛けてナイフを投げつけるようにその手を振り下ろした。

 ヒュン!

 飛鳥の指先が描いた弧が、そのままの形で衝撃波となって三人に襲いかかった。実体のない巨大な三日月の刃に為す術もなく、鮮血を撒き散らして獣が人へと姿を変えていく。

(そんな!?)

 それでも飛鳥は足を止めることはない。駆け抜けざまに聞こえてきた呻き声に安堵しながら、心の中で謝罪する。

(いや……もう……、助けて……!)

 自分が助かりたいからと、その一念で引き出した『力』。だがそれは誰かを傷つけるためではなかったというのに。どうしてこんなことになったのだろう。もっとうまく使いこなせていれば傷つけずにすんだかもしれないのに。神沢ならもっとうまく相手の動きを止められただろうに。

(ったく、何処にいるのよ! さっさと助けに来たらどうなの!!)

 何があなたの騎士だ。

 自責の念を振り切るように悪態をついた飛鳥の足を、焼けるような痛みが駆け抜けた。ガクンと膝が落ちてそのまま廊下に転倒する。

「あ……何……」

 飛鳥の両足を、獣人が掴んでいた。タックルをかけたような形になったのだろう、その鋭い爪がふくらはぎに突き刺さっている。

 グルル……。

 犬系の獣人が笑ったのだろうか、くぐもった鳴声が鋭い牙の奥から漏れた。

 ──殺られる!

 反射的に手のひらを獣の額にあてて叫んだ。

「あっち行って!」

 ビシュゥッ!

 飛鳥の手のひらから風の塊が放たれた。強烈な空気鉄砲を打ち込まれたかのように、獣はきゃいんと情けない声をあげると吹き飛ばされて人へと姿を変えた。

(……つまり……?)

 あっちへ行けと吹き飛ばそうとすればその力は風となって放たれ、戦おうとすればそれは刃となる。実体を持たない彼女の『力』は、どうやら飛鳥のイメージによってその表現を変えるようだった。変幻自在のその力は、飛鳥に殺意がなければ威力にもよるだろうが相手を殺傷することはないらしかった。

「これなら何とかなるかも……」

 何とかならないのは飛鳥自身か。立ち上がろうとして、焼けるような痛みに力なく倒れこんでしまった。力が使えるようになったとしても、動けなければ話にならない。

 歯を食いしばり何とか立ち上がった飛鳥は、壁にもたれながら足を引きずるようにそれでも土間へ向かう。数歩と歩かぬ内に、階段から駆け下りてきたであろう獣人が飛び掛ってくる。

「来ないで!」

 飛鳥の手から突風が吹き荒れた。二階との間にある踊り場まで吹き飛ばされたにも関わらず、獣人は身を打ちつけたようではあったが意識は失っていないようだった。

(弱かった?)

 相手の様子を窺いつつ、ちらりと土間に目をやった飛鳥は目を見開いた。そこの扉は開け放たれ、その向こうには講堂へと続く渡り廊下が見える。

 今の内にと走り出した飛鳥だったが、土間の真中で倒れてしまった。這いずってでも外に出れば、結界の外に出られるのならば、校舎に入れないであろう神沢に合流できる。そうすれば後は何とかなる──!

 ガァァァァ!!

 倒せなかった獣が、咆哮をあげた。飛鳥がここにいると知らせているのだろうか。呼応するように獣の雄叫びが廊下に響き渡る。

(来る……!)

 階段から十人ほどの異形が飛び降りてきた。着地するなり、そのまま地を蹴り這いつくばったままの飛鳥めがけて飛び掛る。

「来ないでェッ!!」

 ──熱い。

 叫びながら飛鳥は身体が一気に熱くなったのを感じた。発熱などというかわいいものではない、体内で核融合でも起こったかのような──。

 その感覚に覚えがあった。そう、化け物に連れ去られそうになったあのとき。

 竜巻が起きたあのときと、同じ。

 ゴウッ!

 飛鳥を中心に大気が渦を巻いていた。土間という区切られた空間で起きる竜巻に飲まれた獣人は、宙を踊り壁や天井に身体を打ちつけながら悲鳴を上げた。逃れることも受身を取ることもできずに、圧倒的な力の前に打ちのめされていく。

 ピピッ……。

 床に這う飛鳥の前に、赤い飛沫が飛んできた。一滴、二滴と飛んできていたものが、突然赤い川となった。

(!)

 全身を粟立たせて飛鳥が身体を起こすと同時に竜巻は収まり、クラスメートたちが床にぼとぼとと落下する。周囲を見回せば、階段付近に落ちた生徒の背中が真っ赤に染まっている。吹き飛ばされている内に、どこか角にぶつけて切ったのだろう。飛鳥の位置からでは息があるかどうかは解らない。

(いや……っ)

 足の痛みに鞭打って立ち上がり、まろびながら飛鳥は歩き出した。その凄惨な場所から逃れるように。どうしてこんなことにと嘆きながら、どんな理由にせよ傷つけたのは自分なのだと責めながら、足を引きずって渡り廊下を目指す。

(この……校舎から出られれば)

 祈るように開け放たれたままの土間から、足を踏み出した。

「……出……た」

 見えない壁も何もなく、遮られることなく飛鳥は渡り廊下に一歩、出た。

 校舎から出れば、あとは神沢が何とかしてくれる。

 飛鳥のその強い願いが、同時に隙を生んだ。

 痛む足を引きずって、渡り廊下に踏み出した瞬間だった。

「……っ」

 背中に走る焼け付くような痛みと、同時にそこから凍りつくような冷たさに、悲鳴さえあげられない。

(なにが……)

 猫系の獣人が──服装からかつての担任であったことが解る──その鋭い爪で飛鳥の背中を引き裂いた。何が起きたのか解らない飛鳥は、焼ける痛みと失血による冷たさを同時に味わいながら倒れこんだ。滑り込んだ衝撃で身体をすりむいたが、それにさえ気づかない。ショックで何も対処できない飛鳥を仰向けにして、獣人は馬乗りになって細い彼女の首を締め付けた。そこでようやく飛鳥は自分が置かれた状況を知る。

(助けて……助けて……)

 足の痛みと背中の出血、絞首による酸欠で吹き飛びそうになる意識を必死に繋ぎ止めて、飛鳥は力を使おうと右手に意識を集中する。だがうまくいかず、右手に熱を感じられない。

(たすけて……でも……)

 でも、また人を傷つけるの?

 どうせなら、このまま殺されてしまったほうが楽なのかもしれない。

 封印がどうの魔王がどうの、死んでしまえば飛鳥には関係なくなる。この痛みから解放される。人を傷つけなくてすむ。

(もう、死んじゃおうかな……)

 意識を手放そうとしたまさにその瞬間、冷たい風が吹き抜けて飛鳥の首を解放した。同時に自分の上に乗っていた重みもどこかに消えている。

 何が起きたのかと視界を取り戻そうとする飛鳥の耳に、肩で息をしているのであろう乱れた声が聞こえてきた。

「遅くなりました……。すみません、ご無事ですか」

「……重傷よ……」

 神沢にかすれる声で応えながら、安堵しきっている自分を飛鳥は自覚していた。

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