第8話 Paroniria

 闇の中で、風が吹いた。ねっとりとした、肌にまとわりつくような、熱帯夜のようないやな風だ。全身をかきむしりたくなるような、不快感を募らせる風。

 天も地も解らぬほどの濃い闇の中に、飛鳥はいた。

 立っているのか寝ているのかさえ解らない、かすかな光さえないほどの真実の闇の中。現実には決してあり得ぬその闇に、飛鳥はそれが夢であることを悟る。

 飛鳥はあまり夢を見る方ではない。一度眠ったら朝まで起きないし、理論的に眠っているときには必ず夢を見ているのだと言われても、実際に覚えていることがないのだから仕方ない。

 これは何? 夢にしてはあまりにも……。

 あまりにも生々しすぎる。この風の感覚、不快感。闇の中でうるさいほどの警鐘を鳴らす胸の鼓動。夢だとしてもとびっきりの悪夢なのだろうと飛鳥は思った。

「……ッ」

 声を出そうかと思ったが、何を言っていいかわからずやめた。声を出しておぞましいものが返事をしてきたらどうしようかと思ったのだ。吸った息をそのまま吐き出して、どうしたものかと周囲を見回す。

 闇、闇、闇──。

 果てしなく続く闇。

 ……目を覚ますにはどうしたらいいんだろう。

 そんなことを考えた時、突風が吹いた。

「!?」

 強風に一瞬目を閉じた飛鳥が再び目を開いたときに見たのは、明日行くはずの学校だった。誰もいない廊下にひとりで立っている。ちゃんと制服を着て、手には通学用の鞄を持っていた。

(……何……? 夢なの……?)

 ふとすぐ隣の教室を見れば、生徒がきちんと着席していた。

(しまった、遅刻……ッ!!)

 飛鳥は慌てて自分の教室へと急いだ。

「相田さん……麻生さん……」

 教室から担任の声がする。すでに通知表の配布が始まっているらしかった。時計をしていない飛鳥には今が何時なのかは解らないが、とにかく遅刻確定であることは理解した。教室の後ろのドアを、勢いよく開けて滑り込んだ。

「おはようございますッ!」

「佐野川さん……鈴木愛さん……鈴木悠子さん……」

 賑やかに教室に入ってきた飛鳥に構うことなく、担任は生徒の名を読み上げて通知表を渡していく。40人弱いるクラスメートも、ひとりも飛鳥を振り向きはしない。

(……無視……?)

 飛鳥の声が聞こえないはずはない。遅刻者疎外にしても、ドアを開けたときにひとりくらいは振り向いてもおかしくないはずだった。

 黙って席につけということだろうか?

 仕方なく、飛鳥は居心地悪く自分の席に着こうとした。

「え?」

 自分が座るべきはずの席に、他の生徒が座っていた。割と仲のいい女生徒だ。それなのに飛鳥がすぐ隣に立っても彼女に気づく様子もない。

(どういうことなの? 一体……?)

 教室の真中でひとり立っている飛鳥は、どうしていいか解らずに立ち尽くした。担任の声は淡々と続く。

「中居さん……中村さん……」

 次は自分だ、と思って教卓の方に近づいた飛鳥は、担任の声を疑った。

「……長谷川さん」

 どういう、こと?

 『鳴瀬』飛鳥は、呼ばれなかった。飛鳥の目の前で通知表を受け取った長谷川は、そのまま席に戻ってからちらりと通知表に並ぶ数字を見て机に突っ伏した。そして彼女の友達と小声で何やら語り合う。

「……え? 何……」

「……渡辺さん」

 飛鳥の席に座っていた生徒が呼ばれ、通知表を受け取った。

「はいはい、通知表が悪かった人は春休み中にしっっっかり勉強しなさいよー。良かった人も油断しないで、来年に備えなさい」

 はあい、と生徒が渋そうに返事をする。

(何? これも夢なの? それともクラスを間違えたの?)

 通知表を見ながらまだざわついている教室を出て、前の扉の上にかけてあるクラス表示を見る。

 『2-3』と確かに──。

「アッハハハハハ!」

 扉を閉めた途端、教室から弾けるような笑い声が聞こえてきた。

「もうサイコー!!」

「私さっき扉の方見そうになっちゃってさー」

「さっきの顔見たぁ!? 笑い堪えるの必死でさ」

「ひっでえな、オマエ友達じゃなかったのかよ」

「べっつにィ~ひとりで可哀想だったから相手してただけ」

「ほらいい加減に静かにしなさい! 隣のクラスに迷惑でしょ!!」

 それでもまだ笑いは収まりそうにない。

(……何…って………)

 夢? そう、夢だ。それもとびっきりの悪夢だ。

 だったらお願い、早く醒めて──。

 よろめいた拍子に、廊下にあるロッカーにもたれかかった。使い慣れたはずのそこには自分の名前は外されており、確かめるようにロッカーを開けると、ざらざらとゴミが雪崩れ落ちてきた。

「……ッ!」

 鞄を取り落としたことさえ気づかず、飛鳥は走り出した。教室から聞こえる笑い声から逃げるように。どんなに走ったとしても、頭の中にこびりついた笑い声が消えることはない。飛鳥は泣きそうになりながら、下駄箱を目指した。

 教室から離れた場所にあるクラスの下駄箱。授業中ということもあって周囲には誰もいない。訳のわからないまま呼吸を整えて、飛鳥は自分の下駄箱を開けた。

 通学用の靴に、これでもかと言わんばかりに釘が差し込まれていた。

 ベタといえばベタだが、今の飛鳥を打ちのめすには充分な効果を発揮した。

(何が起きたの何なの、一体……!)

 ここのところ続いていたという悪質な嫌がらせ。

 気味の悪い手紙もねずみも、もしかしたらクラスの誰かが──昨夜も郵便物だって、もしかしたら本当に相田さんが送ってきたのかも──。

 飛鳥はクラスで特に目立つ存在ではない。どちらかと言えば地味で大人しく、下手をしたら休んでも誰にも気づかれないかもしれない。比較的仲のいいクラスメートはいるが、本当に心許せる相手かと言われればそうでもなく、何より仲がいいと思っているのはこちらだけなのかもしれない。

 本当はクラスで疎まれていたのかもしれない──。

 どくん。

 恐ろしい影が飛鳥の心をよぎった。

(どうすれば、どうすれば、どうすれば……)

 混乱しながら、飛鳥は上履きのままで駆け出した。

 心の影から逃げ出すように。


 飛鳥はそれほど足の速いほうではないが、決して遅い訳でもない。それなのにいつも歩いている道のりが、恐ろしく長く感じられた。鉛の足枷をつけて走っているような錯覚をするほどに足が重い。

 学校を飛び出した飛鳥は、まっすぐに自宅を目指していた。ついさっき歩いてきたはずの道が、こんなにも長いのかと息を切らせながら、足を休ませることなく走り続ける。

 ようやくたどり着いた家は、今朝見た通りのままだった。当たり前なのだが、飛鳥はほっと胸をなでおろす。ふと自分が髪を振り乱し鞄も持たず、その上靴は上履きのままであることに気がついたが、もうどうしようもない。額を流れ落ちる汗を拭き、息を整えて、ドアを開けた。

「……た、ただいま……」

 終業式でいつもより終わるのが早いとはいえ、明らかに早すぎる時間の帰宅に、さすがに気が引けてしまって飛鳥の声が小さくなる。自分の家なのにこそこそと入って静かにドアを閉め、母の姿を探す。

「……よ」

 居間から話し声が聞こえてきた。この時間にはもう父は出勤しているはずなのだが、居間のソファに両親が向かい合って何やら話し合っている。昨夜あんなことがあったし、休みを取ったのかもしれない。けれどそうすると余計に早退してきたことが後ろめたく感じられしまって、何となく顔を出し難いなあと飛鳥が居間の入り口の影でもじもじしながら、両親の話に耳を傾けていた。

「来年はもう大学受験でしょう? まだ志望校は決めていないみたいだけど」

「行きたい科とかは決まってるんだろう?」

「まだハッキリとした将来の目標が決まってないみたい」

「短大とか四大とか……」

「まだみたいよ。でも短大ならいいけど四大とかに行きたいって言われると、受験だって現役合格するとは限らないし、私立なら授業料だって高くつくし、落ちたらそれだけ予備校代とかかかる訳だし」

「まあ、そうだな……」

「姉夫婦の残した財産もそろそろ底を尽きるし、これ以上負担になる前に飛鳥をどこかへやった方がいいと思うのよ」

「どこかへって、どこへやる気だ」

「私の両親のところに弟がいるわ。そこへ預けるのはどうかしら」

「お前のご両親のところって……遠いだろう。それにご両親に面倒もかけるし」

「面倒も何も、飛鳥は孫じゃない。私ばかりに面倒を押し付けておいて、いい加減解放されたいわよ。昨夜だってあんなことがあったし、遠くに行けば嫌がらせの犯人も手が出ないわよ」

「それもそうだなあ」

「ちょうど今日で終業式だし、急いで編入手続きを取ればまだ新しい学校の始業式に間に合うわよ」

「善は急げと言うし、今日飛鳥が戻ったら話してみよう」

「ええ、お願いね」

 どくん。どくん。どくん。どくん。

 やかましい胸の鼓動とは裏腹に、飛鳥は足音のひとつも立てずに階段を上っていた。何も考えられない頭で、時折身体をふらつかせながらも、決して物音を立てることはなかった。

(私は……邪魔だったの……?)

 血が繋がっていないと知ったときから、心の片隅で思っていたことだ。自分は邪魔なのではないか。迷惑なのではないか。けれど真実を知る以前──何も知らなかった子供の頃のことを思い返してみても、そんなそぶりはこれっぽっちも見られなかった。いたずらをすれば叱られたし、家の手伝いをすれば誉めてくれた。

 それもこれも、すべて幻だったの?

 どくん、どくん、どくん、どくん。

 のろのろと階段を上りながら、飛鳥は一段上るごとに打ちのめされていく。

 学校では疎まれ、家では邪魔者扱いされ──。

(私は、何?)

 目の前がぐるぐる回るのを感じながら、飛鳥は転がり込むように自室に入った。ベッドに倒れこむ余裕もなく、その場に音もなく崩れ落ちる。淡いピンク色のカーペットが泥沼のようにさえ思えた。このまま沈み込んで、飲み込まれてしまえばいい。けれど現実はやはりカーペットのままで、飛鳥に『現実を直視したらどうだ』と突き放すように彼女を撥ね付ける。

 世界中が飛鳥に背を向けていた。

 何ひとつ彼女を受け入れるものはなく、だが敵意を向ける者もない。

 ただ、その存在を受け入れようとしないだけ。

 いっそ昨日の化け物に連れ去られてしまった方がよかったのではないか。

「私……誰にも必要とされてないのかな……」

 かすれた声で飛鳥が呟く。その声は誰の耳に届くはずもなく──。

「……そんな悲しいことを言わないで下さい」

 いつの間に部屋に入り込んだのか、神沢がそこにいた。倒れこんだままの飛鳥の視界には彼の足しか映らなかったが、静かに抱き起こされて間近く神沢の顔を見る。

 整った顔立ちだな、と思う。好みのほどはともかくとして、飛鳥はこの顔は嫌いではない。むしろスクリーンで見たら夢中になってしまいそうだ。

 胡散臭くはあるが強力な力を持っていて、見栄えがよくて。こういう男が多分大勢の人に必要とされるのだろう。

 それに比べて、飛鳥は背も低いし容姿だってかわいいなんて言われたことはない。力があるらしいがそれに振り回されてばかりで、その上育ててくれた両親にまで迷惑をかけてしまって。

(ああ、本当に私ってダメなんだなあ……)

 目を閉じかけた飛鳥に、神沢がそっと囁く。

「飛鳥さんは必要とされていますよ」

 重い瞼を開きながら、ぼんやりと神沢を見返す。

「だって……私、家でも……学校でも……」

「私があなたを必要としています」

 鳶色の瞳で飛鳥を見つめ返した。

「嘘……」

「……結構勇気を振り絞ったつもりなんですが」

 神沢が苦笑する。

「だって……女には不自由してないって」

 すねてるみたいな発言でみっともないとは思ったが、口に出さずにはいられなかった。子供のように口を尖らせる飛鳥に小さく吹いて、

「ええ、女性には不自由してませんよ。でも私が必要なのは『鳴瀬飛鳥』さんなんです」

 女だからとか、子供だからとかそういう理由ではなくて、飛鳥が飛鳥であるから必要としてくれる。

「本当に……?」

「当たり前です」

 今度は神沢が口を尖らせた。

「誰にも必要とされていないというのなら、私と一緒に行きましょう。決して私はあなたを傷つけたりしません──」

 目が、合った。

 どれだけそうしていたのだろう。そっと顔を近づける神沢に、飛鳥は再び目を閉じかけた。


『──閃光!!』


 鋭い声と共に視界を眩い光に支配された。全身を覆う倦怠感に引きずられそうになりながら、それでも飛鳥はまだ視界が戻らない目を開ける。

「まだそのままでいて下さい。後始末が残っています」

 神沢の声がする。

(何? 何が起きたの?)

 ここは何処だろう? 身体中が痺れているようで何一つ解らない。全身にいやな汗をかいて横たわっていることだけは解った。

 徐々に戻ってきた視力で飛鳥が見たものは、見慣れた天井だった。自室のベッドの上で、飛鳥は汗だくになっていたのだ。

「……何が……起きたの」

 横になったまま首をめぐらせると、神沢が仁王立ちしていた。

「いやな夢を見ませんでしたか」

「……サイアク」

 飛鳥の答えを受けて、やれやれとため息をついて神沢が手に持っていたものを見せた。

「夢魔ですよ。夢を介してくるので結界は通じないんです。私が下に片付けに行っている隙に潜り込んで、調子に乗って本体を出したようです。おかげですぐに察知できたんですが……」

 神沢の手には中型犬くらいの大きさの炭がある。どんな形状をしていたのかは解らないが、先ほどの光がそうしたのだろう。

「夢の中だろうと必ず助けに行きますと、そう言ったはずですが?」

 何故助けを呼ばなかったのかと言外に責められ、飛鳥は気まずそうに答えた。

「それどころじゃなかったのよ」

 ついさっき夢の中で(もちろんそれは夢魔なのだが)優しい言葉をかけてくれたのと同じ顔が目の前にあると、どうもやりにくい。何か反論しようとは思ったが、結局何も言葉にすることはできなかった。本調子ではなさそうな飛鳥に神沢も深く追求する気はないらしく、持ったままの炭をゴミ袋に突っ込む。

「明日の準備もあります。もう寝て下さい」

「わ、わかってる……っけど……」

 身体は疲弊しているのだが、寝たらまた夢魔がいなくてもあんな夢を見るのではないかと気が気でならず、とても眠れそうになかった。

「結界を張り直します」

 表情を変えることもなく淡々と壁に紙を貼り付けていく。ほんの少し身近く感じられたとは言っても、どこか冷たい感じがする。だがその背中は、やはり飛鳥にとって頼もしいものだった。

「いいですか、今度こそ何かあったら私を呼んで下さい」

 ドアに手をかけ振り返りながら忠告する神沢の目を見ることができなかった。きっとすごく情けない顔をしている。飛鳥は黙って頷いた。

「仕方ありませんね」

 部屋を出て行こうとしたはずの神沢が、ベッドのすぐ横に立っていた。多分思い切り変な顔で見上げた飛鳥にため息をついて、その場に座り込む。

「こうしていれば、呼ばれなくてもすぐ解りますから」

 言って、飛鳥の手をそっと握った。

「…………ッ」

「さっさと寝て下さい。終業式に遅刻するつもりですか」

「わ、わかってるわよっ! じゃあおやすみっ!!」

 布団を頭から被った飛鳥に、神沢が思わず苦笑する。

「……何」

 布団の中から飛鳥が抗議する。

「いえ、昔はよく姉にこうしてもらったなあって思い出したんです」

「お姉さん?」

「子供の頃は夜が怖くて、いつも姉にすがりついては一緒に寝てもらってたんです」

「あんたにもそんなことがあったんだ」

「誰にだって子供時代はあるでしょう?」

 強そうに見えるが、そんなこともあったのか。

 なんとなく安心して、飛鳥はそのまま眠りに落ちた。

 今度は夢を見ることもなく──。

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