風になる刻
清竜
第1話 Meeting
特にこれといった不満がある訳じゃなかった。ただ漠然とした社会に対する不満とか不安とか、そういったものが胸の中で渦を巻いていただけ──ただそれはとても烈しくて、ときに激情にかられて全身をかきむしりたくなるような、そんな感覚に襲われる。
何故人はいがみ合うのだろう。
何故人は憎み合うのだろう。
何故人のどす黒い欲望は尽きることがないのだろう。
最初は、普通の感覚を持ち合わせた者ならば誰でも思うような苛立ちだった。それが知らぬ間にエスカレートしていき、今では歩きタバコにポイ捨ての通行人とすれ違うだけで、頭痛がするほどの怒りを覚えた。
最初はただ単にイライラしているだけかと思っていた。学年末のテストも終わり、明後日の終業式を終えれば春休みだというのに──そして4月になれば高3になる。逃れることのできない『受験』という戦争がやってくる。
17年しかまだ生きていないというのに、これからの人生を左右する選択を強いられて、しかも自分が選択した通りの道を行ける訳でもなく、そのためには他人を蹴落とさなければならず、どうして心穏やかでいられるだろう。
自分の将来への不安。
それは普段は気にすることはなくても、ふとした拍子に姿を現し、苦悩の淵へと叩き込む。人生80年と言われるこの時代に、まだ4分の1にも満たぬ時しか生きていないというのに、何を支えに未来を信じろというのか。何のために生まれてきたのかさえ解らぬというのに、自分ひとりでは何もできない無力さを思い知らされているというのに、不安にならずにいられるはずもない。
社会への苛立ちと自分自身に対する不安。
いずれも明確な答えが出るはずも、否、答えがあるかどうかさえ解らない。
そうして苛立ちばかりつのり、頭痛は激しくなる一方だった。
***
「飛鳥! 下りてらっしゃい!」
養母の声にハッと我に返った少女──
「なあに? おかあさん」
飛鳥の両親はすでに他界している。まだ飛鳥が物心つく前、家族で車で旅行中に事故に遭ったのだという。飛鳥だけが傷ひとつなく、両親はほぼ即死で、母方の叔母に引き取られた。叔母夫婦には子供がおらず、本当の子供のようにかわいがってくれた。何も知らなかった飛鳥は親子と信じて疑わず、高校に入学するときに真実を告げられて多少のいざこざはあったものの、今では以前と同じように接している。ただ、「パパ」「ママ」ではなく、「おとうさん」「おかあさん」と呼ぶようになったけれど。
呼ばれて居間に行ってみると、そこには養父母と、見知らぬ長身の男がいた。色白の肌に彫りの深い造形、腰まで届く癖のない赤毛は外国人だろうか。身長が160センチにわずかに足らない飛鳥の、優に頭ひとつ分はあるその男は彼女の姿を認めると、不躾にじろりと値踏みするように眺めた。
事態が飲み込めない飛鳥だったが、とりあえずこいつはイヤだな、と直感で思った。
「……ちょっと座りなさい」
養父の言葉に飛鳥はおとなしくソファにかけた。続いて長身の男が隣に座るのを見て、眉間にしわを寄せてあからさまに不快感を示したのだが、その場にいる全員がそれを無視した。
(誰よこいつ)
飛鳥はあまり人付き合いが得手ではない。子供の頃から人見知りは激しかったし、この年頃特有の潔癖症のためか男性嫌悪症の気があった。もちろん養父は別格なのだが。
なんとなく学年末のテストの結果を思い出して、家庭教師だろうなとは思った。だが飛鳥の成績は平均よりは上で、唯一下回る科目は数学であり、英語ではない。すぐ隣に座るどうみても外国人な男がまさか数学の家庭教師とは思えないのだ。いや、それは彼女の偏見によるものなのだが。
「……あの……」
飛鳥が座ってから時間にして10秒ほどではあるが、あまりにもギスギスした沈黙に息がつまりそうになって、思わず呟いていた。しかしそこから先の言葉が見つからない。この人誰?などとうっかり聞いて家庭教師の話を進められるのもイヤだったし、だからと言って他に話題が見つかるはずもなく、呟いたきりまた口をつぐんでしまう。
それから1分にも満たないはずの、1時間に匹敵するほどの重苦しい沈黙の後に、養父がようやく口を開いた。いつもの明るくて優しい養父からは想像もつかぬほどにぼそぼそとした声で、
「こちらの方は私立探偵の
「……平たく言えば、あなたのボディーガードです。神沢レイと申します。よろしく」
言い辛そうな養父の後を、本人──長身の男、神沢レイが続けた。
「はぁ!? ボディーガード!?」
男が握手を求めて差し出した手を、飛鳥は思い切りはねつけて立ち上がった。
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