〇 ● 〇


 ごちゃごちゃとした部屋だった。

 床には巻物や半紙が散乱し、畳を覆い隠している。本は平積みに積み上げられ、雨後の筍のように部屋のあちこちに生えている。部屋の隅に置かれている二つの長持ちは物がぎゅうぎゅうに詰められているのか、蓋が半分持ち上がっていた。舌のように着物がはみ出て、べろりと広がっている。

 足の踏み場も無いような部屋の真ん中に煎餅布団が敷かれ、丞幻じょうげんはそこで大の字になり高いびきをかいていた。

 着物は昨日のまま、髪も三つ編みのまま解かれていない。

 ぐおーぐおーといびきをかく丞幻の傍らに、小さな影が一つ。


「……」


 瓢箪柄の毬を胸の前で抱えたシロだ。

 昨夜とは違い、水辺で遊ぶ蜻蛉かげろうが刺繍された薄水色の振袖をまとっている。たっぷりとした袖を揺らして佇むその姿は、どう見ても愛らしい女童である。

 朝日が顔に当たっても目覚める気配の無い丞幻を見下ろし、シロは抱えていた毬をやおら頭上へ持ち上げた。

 そして。


「てーんまり、てーまり、なーぜはーねるー。おーいけのおーこいになーりたいかー」

「んぐふぉ!?」


 容赦無く、丞幻のみぞおちにそれを叩きつけた。

 シロの毬は、泥の上だろうと布団の上だろうとよく弾む凄い奴だ。反動で跳ね返ってくる毬を受け止めて、またみぞおちに叩きつける。


「そーれともばーったになーりたーいかー。てーんまり、てーまり、てーんてーんてーん」

「ちょっ、起きた! シロちゃん、起きたから! はいおはよういい朝ね!!」


 良い気分で寝ていた所を容赦の無い毬攻撃で叩き起こされた丞幻は、慌てて飛び起きた。毬を受け止めたシロが、にっこり笑う。


「おれは腹が減ったぞ。アオもおなかぺこぺこだ。それもこれも、お前がかいしょうなく寝くたれて、おれ達にご飯をくれないから……」

「んもー、まだ明け六頃じゃないの……ワシ昨日めっちゃ大変だったんだし、もうちょい寝かせてくれてもいいでしょー?」


 よよよ、とたっぷりとした袖を目元に当てて、シロは泣き真似をした。


「おれは腹が減ったぞ。アオもおなかぺこぺこだ。それもこれも、お前がかいしょうなく寝くたれて、おれ達にご飯をくれないから……」

「分かった。分かったから毬を構えないでねシロちゃん。それ地味に硬くて痛いのよー。はいはい、ご飯食べに行きましょうねー」

「ん」


 一言一句違わず言ってのけ、毬をすちゃっと構えるシロに両手を付きだして降参する。本当はもうちょっと寝ていたかったが仕方ない。

 あくびを一つして、丞幻は髪をほどいた。一晩中編まれていた髪が、緩く波打って背中に広がる。


「あー……頭がんがんするわー……飲み過ぎた……肉体労働したから身体いったいし……」


 ぐっと伸びをすると、ばきばきと筋が鳴った。眉間に皺を寄せて、ぐりぐりとこめかみを揉む。夕べ、急遽助手にした矢凪やなぎと共にさざなみ酒の樽を二つ空け、まだ足りぬと他の酒も引っ張り出したせいで頭が痛い。

 完全に二日酔いだ。頭は痛いし、吐く息がなんだか酒臭くてさっぱりしない。

 寝乱れた着物を軽く整えて、髪をざっくりと編み直してシロと共に部屋を出る。と、同時に。


「またかてめぇこの犬っころがああぁぁ!!」

「ぎゃん!」


 隣の部屋から、怒号と悲鳴が聞こえた。丞幻は視線を落とす。シロはしれっとした顔で目をそらした。


「……シロちゃん?」

「アオがあっちを起こすって言ったから、行かせた」

「あれは単純にあいつをかじりたいだけでしょー! 今日はシロちゃんが寝てる人起こす当番さんなんだから、代わってもらわないの!」

「おれに見知らぬ人間のそばに寄って、毬をぶん投げて起こせって言うのか!?」

「怪異なんだから人見知りしないの! あと起こす時に毬は投げない!」

「怪異差別だ! 奉行所に訴えてやる!」


 ぎー、と睨み合っていると、部屋の襖が勢いよく開いた。「おい」とどすの利いた声に視線を向ける。首筋に赤い歯型を付けた矢凪が、仏頂面で立っていた。

 片手には、首根っこを掴まれたアオがぶすくれ顔で揺れている。


「うぶー……」

「てめぇ、ガキの躾くらいしとけや。どう躾けりゃ寝てる奴の首噛みちぎろうとすんだ」

「あらまごめんね。アーオちゃん? なんでそんなに食べたがるの。前に言ったでしょー。人を食べちゃいけません、って。あれは食べちゃ駄目な人なのよ。分かる? だーめ」


 矢凪からアオを受け取り、長い鼻面をきゅっと押さえた。駄目でしょ、と叱ると不服そうな唸り声が上がる。どうして昨日、今日とかじりたがるのか。そんなにお腹が減ったのか、それとも矢凪が美味しいお肉にしか見えていないのか。

 うーん、と首をかしげながら、いつの間にか背中に隠れていたシロの方に、アオを押しやった。


「はいシロちゃん。アオちゃんお願いねー」

「あ! シロ、シロー。だっこー」

「……」


 無言のまま、アオをひったくるように受け取ったシロが玄関に駆けて行く。最後まで矢凪に視線を向けすらしなかった。本当に、あの子は人見知りだ。怪異なのに。

 それを見送って、矢凪に視線を戻す。金の瞳が呆れたような色を宿してこちらを見ていた。


「……」

「なによー『子育て下手糞かこの野郎』みたいな目してー。とりあえず、朝餉食べに行かない? あ、ちなみに食欲ある? 二日酔いとかだいじょーぶ? ワシさあ、飲み過ぎて頭がんっがんするのよねー」

「食う」

「よしよし、んじゃ行きましょー。美味しいお店知ってんのよー、ワシ」


 玄関を親指で示すと、矢凪は仏頂面のまま首をかたむけた。


「あ? てめぇが作るんじゃねえのか」

「お茶淹れるのなら得意よ。ワシ」

「あー……」


 何かを察したような顔をする矢凪。丞幻は深く頷いた。淹れるのだけは得意なのだ。淹れるのだけは。

 ともあれ食欲はあるようなので、軽く身支度をしてから玄関へ向かう。ちなみに二人共、着物は昨日のままだ。まあ汚れてないし、着替えるのも面倒だし、大丈夫だろう。

 玄関では、既にシロとアオが下駄を履いて待っていた。丞幻が草履を履くと同時に、アオが飛びついてくる。


「おなかすいた! じょーげん、オレね、おなかすいた! ごはんたべぅの!」

「はいはい。その前にアオちゃーん、お耳と尻尾消しなさいねー。みんなびっくりするでしょー、そんなんじゃ」

「う?」


 頭上の耳をぴこぴこと動かして、アオは首をかしげた。

 人の姿に化けたアオは、シロよりも一、二歳ほど年下の童姿だ。肩に被さる程度の長さの鮮やかな青髪を首の後ろで一つに結い、くりくりとした大きな目が可愛らしい。白地に流水模様が涼しげな甚平を着ているのだが、はみ出た太い尻尾がぶんぶんと揺れている。

 人に化ける事ができる怪異であるアオだが、時々こうして化け損ねがあるのだ。もちもちころんとした幼気いたいけな童が、狼の耳と尻尾を生やしている姿は非常に可愛いのだが。


「ほらアオちゃん、お耳と尻尾消さないとご飯食べに行けないぞーい。みんなびっくりしちゃうでしょー。消さないとアオちゃんはお留守番で、ワシらだけ美味しいもの食べてくるわよーん」

「やる! ちゃんとやるー! オレもおいしーのたべぅの!!」


 地団駄を踏んだアオが、その場でくるりと宙返りをする。危なげなく土間に着地した時には、耳も尻尾も綺麗に消え去っていた。丸い頭を撫でて、よし、と丞幻は頷く。


「はい、良い子ねー。んじゃ行きましょーか」


 もう一度軽い自己紹介と、矢凪が家に居候するという事を説明してから、一行は家を出た。ちなみに丞幻も心張棒を忘れていたので、戸は難なく開いた。


「おい、そういや旦那様よぉ」

「ちょっと待って旦那様ってワシの事? やめて寒気するから呼び捨てでいいってー。てかなに? なんで急に旦那様? あ、助手だから? 助手だから旦那様ってんっふふふ待って、眉間に皺寄せて旦那様ってんふふふいだだだだ! 待ってワシの腕そっちに曲がんないから!」

「ねえねえ、おいしそだから、一口たべてもいーですか!」

「てめぇが先に犬鍋になるんならな」

「……」

「シロちゃーん、いつまでワシの帯に引っ付いてるのー。ワシ歩き辛いんだけどー。……待って、抱っこする、抱っこするから帯ほどこうとするの止めて! 道端でふんどし一丁になる変質者になっちゃうから!」

「…………なんで知らない奴と暮らさないといけないんだ。やだ。なぁ丞幻、おれがやだって言ってるんだぞ」

「あんなネタの塊、逃したら損じゃないの! だいじょーぶだいじょーぶ、シロちゃんならすぐ慣れるわよー」


 などと会話を交わしながら、最寄りの船着き場から船に乗る。

 いつもならごった返している船着き場も、早朝という事もあって人は少なかった。白い波を立てる水面に指を浸すと、ひんやりと冷たい。水上独特の清涼な空気が、二日酔いで痛む頭に心地良かった。

 各町を区切るように、貴墨には縦横無尽に水路が走っている。その様は別名を水の都と称される程であり、もっぱら町民の移動には小舟が使われる。

 本日の目的地は蛙田沢あたざわ。西端に近い所にある為、東側にある冴木さえきからは相当に遠い。歩けば一刻半はかかる距離だが、小舟を使えば半時もかからない。最も、混んでいる時はその倍はかかるが。


「あ、しまったのー」


 船賃を払って降りた後で、丞幻はこりこりと頭をかいた。


「こっち来てから、シロちゃん達に姿見せるように言えば良かったわねー」


 シロもアオも怪異である以上、徒人に視る事はできない。ただ、彼らが「人に姿を見せよう」と思って己の力を強めれば、その限りではない。

 ので、道行く人に片っ端から「あんね、オレいまからごはんなの!」と宣言しているアオも、その背にくっついて隠れているシロも、今は誰の目にも映っている状態だった。なので頭を撫でられたり飴を貰ったりお小遣いを貰ったりしている。

 それは可愛いからいいのだが、おかげで四人分の船賃を払う羽目になってしまった、失敗だ。


「……んー?」


 と、そこまで考えて丞幻の首が捻られた。怪異が視えるといえば。

 腰を軽く曲げて膝に手を置き、魚影を目で追っている矢凪を振り返って声をかける。


「ちょっと矢凪ー? お前ってさあ、もしかして見鬼けんき持ち?」

「あ?」


 水面から目を離して、矢凪は眉間に皺を寄せた。「なんだてめぇ、くっちゃべってねぇでさっさと飯屋連れてけやぶっ殺すぞ」とでも言いたげな鋭い視線をすっぱり無視し、続ける。


「だーかーらー、昨日っからアオちゃんシロちゃん視えてたでしょー? 今朝もアオちゃんの首根っこ引っ掴んでたしねえ。あ、そもそも見鬼って分かる? 怪異を視たり聞いたりできる能力の事なん」

「……」


 話の途中で、矢凪が水面に腕を突っ込んだ。目当てのものは見つかったようで、すぐに腕が引き上げられる。


「あ、それおいちぃやつ!」


 アオが振り返って目をきらきらと輝かせた。シロは視線を一瞬だけ向けて、すぐに顔をアオの背に埋めてしまう。

 丞幻は手の中のものを見て、ぱちりと瞬きを一つした。


「あらー。この辺にもいるの、そいつ。ワシそれ冴木でしか見た事ないわよー」


 矢凪の手にがっちりと握られているそれは、逃れようと尾を遮二無二しゃにむにくねらせている。

 見た目は赤い鱗の鯉。しかしその鱗はよく見れば全て人間の艶やかな唇であり、ぱくぱくと開閉しながら様々な言葉を吐きだしていた。


「あああああああ」「おかーさーん。おかーさーん」「良い子やねえ飴ちゃん買うてあげようねえ」「おいでおいでおいで」「豆腐安いよー」「聞いたかあんた、西小路町の大家が大福食って死んだそうだ」


 見た目は非常に気色悪いが、行き来する人の言葉を真似するだけの怪異だ。無害と言ってもいいが、その分力が弱く生半可な見鬼持ちには視る事ができない。


「まー、ワシは見鬼つよつよさんだから視えるけど。お前も視えてるし触れるのねー、それ」

「うるせぇ」


 てんでばらばらな動きで唇を開閉させる鯉に眉をしかめて、矢凪は握る手に力を込めた。それほど力を入れているように見えなかったのに、鯉の身体が爆散する。散った欠片は、川面に落ちる前に淡雪のように溶けて消えた。

 ぱんぱんと手を叩いて怪異の残滓ざんしを落とし、矢凪が満足か、とでも言いたげにこちらを見てくる。

 見鬼に加えて、怪異を祓う霊力も持ち合わせているようだ。


 昨日から雇った助手は、どうやら怪異方面に関して非常に有能らしい。


◆◆◆


明け六つ=午前六時。


◆◆◆


怪異名:忍びしのびこい

危険度:丁

概要:

水中によく見られる、鯉の姿をした怪異。

見た目は鯉だが鱗全てが人の唇であり、それが水辺を通りがかった人間の声真似をして囁く。それだけの怪異であり、夜に水中からぼそぼそと人の声が聞こえるのはこいつの仕業。


『貴墨怪異覚書』より抜粋。

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