6
槙の暮らすアパートは、六畳二間とは別にキッチンスペースと居間、風呂とトイレがついている。最初はワンルームでも良いと思って探していたのだが、近くに空きがなく、この部屋に行き着いた。織人が泊まる事も多いので、結果的には、この部屋を選んで正解だったのかもしれない。
ただ、槙はすこぶる家事が苦手で、ちょっと気を抜くと、部屋はたちまち散らかり放題になったりする。この部屋がごみ屋敷にならないのは、今日のように、時折織人がやって来て、色々片付けてくれるお陰だろう。
槙は、自分でも自宅の冷蔵庫の中身を把握していなかったが、織人は自身でも言っていたように、本当に槙の家の冷蔵庫の中身を把握していた。
それは、食材を買って詰めたのが織人であり、槙は全くといって良いほど料理をしないからだ。槙が冷蔵庫を必要とするのは、飲み物を取り出す時くらいで、食事は外で済ませたり、コンビニやスーパーで弁当や惣菜、カップ麺を買ってくるので、冷蔵庫に物をしまう事もそんなに無かった。それを織人は信じられないという目で見ていたのを、槙は今でもはっきりと覚えている。
織人はキッチンに立つと、勝手知ったる我が家の如く、手間取る事なく動いてる。冷蔵庫から材料を取り出したり、鍋に火を掛けたり、今は槙が使った事もない包丁で白菜を切り始めている。
槙はその様子を当たり前のように眺め、冷蔵庫からビールを出そうと手を伸ばしたが、さすがにマズイと思い直し、目的をウーロン茶に変えた。
いくら家族のような付き合いだからといって、生徒である織人にご飯を作らせ、目の前でビールを飲もうなんて、さすがに良い光景とはいえない。
危ない危ないと、ウーロン茶をグラスに注いでいると、織人はそんな事も分かっていたかのように、ふ、と笑んだ。
「今更そんな事気にしなくても。こっちは、教師じゃない頃から、ずっとあんたを見てるんだから」
「うるせぇ、俺の問題なの」
おかしそうに笑われ、思わず顔が赤くなった。
「そう言うけどさ、俺だってお前の事、ガキんちょの頃から知ってるんだからなー。俺の後ついて回って可愛かったのが、今じゃ…」
言いかけて、その姿を見上げる。思わず言葉に詰まった槙に、織人は不思議そうに「何だよ」と言うので、槙は逃げるようにキッチンから離れた。
「ず、随分生意気になったなーって思っただけ!」
ローテーブルに二人分のグラスを置きながら、槙は吐きたい溜め息を飲み込んだ。何だか織人の顔が見れなかった。
いつの間にか大人になって、格好よくなって。そんな男にキスされた事を思い出し、なんでいちいち赤くならなきゃいけないんだ、初めてじゃあるまいしと、槙はウーロン茶を一気に飲み干した。
「…まぁ、いいけど」
そんな槙の気持ちには気づいていない様子で、織人は不服そうに唇を尖らせていた。
「うまい!」
「そらどうも」
織人の作るご飯は、いつも美味しい。織人が作ってくれたのは、野菜がたっぷり入った豆乳うどんだった。
ローテーブルを前に二人で座り、対面の織人は炭酸飲料を飲みながら、満足そうに槙の様子を見つめている。
槙は食べる事が好きなので、いつもかきこむように食べてしまう。そんな槙に織人は笑いながら、「もっと落ち着いて食えよ」と言うので、これではどっちが年上か分からなかった。
「織人は、料理の才能があるよな」
「才能って程じゃないよ。母さんが出来ないからやってただけだし」
小さな頃からシングルマザーの家庭で育った織人は、母の負担を少しでも減らそうと、幼い頃から率先して家事に取り組んでいた。それを知っている槙は、自分ではやりたくても出来ない事を懸命にこなす織人を、偉いなといつも感心していた。それに感化され、槙も手伝いを申し出たが、余計に部屋が散らかったので、それからは傍観を決め込んでいる。
「いやでも、本当に。あの店で働き始めてから、もっと上手くなった。プロみたい」
「プロの下でレシピ通りに作ってるからだろ」
「それでもさ!こりゃ、良いお嫁さんになれちゃうな」
「うわ、そういう事言うのかよ」
「はは、冗談冗談」
「ここに、婿として来るならいいけどね」
「は…」
「冗談じゃないけど、これは」
思わず固まる槙に、織人はしたり顔だ。槙はさすがに戸惑い、苦し紛れに苦々しく織人を見上げた。
「…どこでそういうの覚えてくんの」
「あんたの事が好きって言っただろ」
真っ直ぐな言葉に、槙は織人の顔なんて見ていられず、まだうどんの残る器に視線を落とした。
「…昔は、だろ」
「だったらキスなんかするかよ」
やっぱりそうなのかと、動揺からうどんを掴み損ね、槙はぐるぐると箸でうどんをかき混ぜた。
だが、織人は何故こうも、怯む事も恥ずかしがる事もなく、好きだと言えるのだろう。
槙がちら、と織人の様子を窺うように視線を上げれば、織人が柔らかに微笑むので、槙は再び俯いてうどんをかき混ぜる事となった。
まさか、人の反応を見て楽しんでるんじゃないだろうな、と勘繰りたくなったが、それすら問い詰める余裕もない。だって、織人のあんな顔、今まで見た事があっただろうか。
「…鬱陶しいって言ったじゃん」
「それはあんたにムカついてるから」
「何なんだよお前は!意味わかんねぇよ!」
戸惑いやら困惑やらで、頭は完全にキャパオーバーだ。槙がテーブルを叩きつける勢いで顔を上げれば、織人は怯みもせず、ただその顔に少しだけ寂しそうな影を作った。
「だろうね、風呂入ってくる」
その織人の表情の真意を読めずにいれば、織人はさっさとこの話を終わらせて立ち上がってしまった。
「…は?泊まんの?」
「帰るの面倒だし」
「ならお母さんに連絡して…あ、俺が連絡した方が良いかな」
「別に良いよ、わかってるだろうし」
「心配するだろ。織人ん家は仲良しなんだから」
「うっせ」
織人は少し顔を赤くして、隣の部屋から自分用の衣服を持ってくると、さっさと風呂場へ向かってしまった。しょっちゅう来てるので、織人の物が槙の家には大体揃っている。二部屋の内、一部屋は、最早織人の部屋となっていた。
「…あんな顔してたら、可愛いんだけどな」
織人が風呂に入ってしまうと、槙は肩を落とし、再びうどんと向き合った。優しい味わいは、ほっとする温度を持って、槙を体の中から満たしていく。
最後はいつもと変わらないやり取りになった事に安堵したが、織人はやはり本気なのだろうか。
だとしても、槙には織人の思いを受け入れてやる事なんて出来なかった。
性別や立場以前に、槙はもう、恋をしないと決めているからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます