青龍記

@runaco

1-1 春雷

 柔らかな陽の光に、道ゆく人の頬を撫でては行き来する悪戯な風もあたたまってきたころ。村近くの山の麓は山桜のさかり、ちょうど満開を迎えた一面の花は、少しずつ小さな花びらを風に踊らせ始めていた。山には物怪や山賊が出るというので、めったに村人たちが近づくことはない。それでも春風に舞ってくる花びらに紛れて聞こえてくる、真竹の歌声には誰もが耳を澄ませてこの季節の到来を喜んでいた。


「あら、かわいそうに。木から落ちてしまったの?」

 愛用の楽器である月風琴を弾く手を緩めながら、桜の木の上に座る真竹が言った。今しがた、真竹のいる枝の真下にやって来た羽根の折れた鶯が、潤んだ目で苦しそうに一と鳴きした。

 あたり一面に咲く桜の森は、真竹以外の人間はおらず、真竹の歌と月風琴の音、時折吹く風が鳴らす花の音だけがその場を満たしていた。

 月風琴だけを伴に、さすらいの旅を続けている真竹の歌には、人や動物を癒す不思議な力がある。人の寄り付かない山裾で一人歌う真竹の周りには、いつのまにか癒しを求める動物たちがたくさん集まって来ていた。じっと目を閉じ耳を覚ます山猿、草を食むのも上の空の野兎、人里からこっそり抜け出して来た飼い犬までいる。まるで人気歌手のゲリラライブのような光景だが、一人木の上の当の本人は桜の花に夢中だ。

「今年も綺麗に咲いたな…」

うっとりとあたたかな風を全身に感じながら、夕べ村人たちに持たせてもらった地酒を一口ふくむ。鼻に抜ける芳香が、仄かな花の香りと合わさってとてつもなく心地よい。


 毎年見事な野桜を一面に咲かせるこの山の春が、真竹は一年で一番好きだ。誰も近づかない山に一人好んで入っていく真竹を、村人たちは変わり者と思いながらも、その歌声に救われたものは数知れず、毎年真竹がやってくるこの季節を皆心待ちにしているのだ。


 どれくらいの時間、そうして歌を歌っていたことだろう。気づけば陽も山に差し掛かり、夜の生物が起き始めるのを前に、真竹の歌声に癒され元気を取り戻した動物たちは、自分たちの縄張りに戻って行った。

「さて、私もそろそろ村に戻るか」

 真竹が月風琴を布袋に仕舞おうとした時である。死に物狂いで何者かがこちらへ駆けてくる音。それも1頭ではない。4足歩行の動物。怪我をしている。ただ事ではない気配に、真竹はそっと腰の刀に手を添えた。

 ざあっと森をかき分けて鼻息荒く現れたのは、体に大きく刀傷を負った馬である。後を追って現れたもう一頭は、右目に切り傷を負い、溢れた血で前は見えていない様子である。

「どうした?!」

 驚いた真竹を見つけると、2頭はどおっと激しい音を立ててその場に倒れ込んだ。必死で駆けて来たので息遣いも荒いその体の傷はまだ新しく、背負った武具が食い込んで、痛そうに呻き声を上げている。いずれも人間の戦闘に巻き込まれ、主人を失ってここまで逃げて来たのだろう。先程まで響いていた月風琴の音を頼りに、命からがら助けを求めに来たらしい。

 真竹は急いで木の枝から降りると、着ていた衣の裾を大きく切り裂き、2頭の体に強く縛りつけ、止血処置を施した。傷はかなり深かったようで、刀傷を腹に受けた方は出血の勢いもまだ激しく、あたりは黒々とした海となっている。重い武具を取り外し、草の上に楽に寝かせてやる。先程までの勢いはどこはやら、命を燃やし尽くした2頭の息は、今にも消えそうな灯火のようになっている。

 すぐさま桜の木の上に再び駆け上った真竹は、月風琴を構えた。一息すっと吐くと、優しい声で歌い始めた。昼間とは違い、歌を聴くのは生死を彷徨う馬2頭と、月の光に妖しく照らされる桜の花だけである。一層静かになった山に響く真竹の歌は、まるで聴く者の耳元で囁くように、真っ直ぐに届いてくる。

 しばらく歌い続けていると、馬の傷はいつの間にか塞がり、激しい息遣いと大量の汗は収まっていた。目をやられていた方の馬も、先程までただ濁っていた目を瞬かせながら、ようやく辺りを見渡している。人間の戦に巻き込まれ、死の淵に立っていた2頭は、一命を取り留めたようである。

 月風琴を置き、再び木から降りてくると、そっと馬の立髪に手を置いた。

「具合はどう?お前たちはどこの戦から逃げて来たんだい」

 この辺りで戦があったとは聞いていなかった。しかし、この馬たちの様子を見ると、近い場所で激しい争いが繰り広げられたのだろう。そして、彼らの主人はもうこの世にはいないだろう。返してやれる場所もなければ、夜の山も安全ではない。

 「とりあえず、私と一緒にお前たちも村で厄介になろう」

 言葉を理解したのか、ぶるると体を震わせると、恐る恐る2頭が立ち上がった。えらいえらいと首を撫でてやる。

 村の方に目をやると、暗くなっても帰ってこない真竹を心配して、村人たちが提灯を持ってうろついているのが見える。

「さあ、早く行こう」

 手綱はないが、村へ向かって歩き出した真竹の後ろを、2頭は昔からの家来のようについて来たのだった。

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