虫駅

雲条翔

第1話 虫駅

 これは、私が大学時代に実際に体験した話だ。


 その頃の主流はまだスマホじゃなくてケータイだったし、私の通う大学の中では、普及率は半分を越えていなかった。

 この頃は「ケータイを持っている」ことが自慢できた時代だ。


 滑り止めでなんとか受かった地元の私立大学だったが、大変だったのはその立地。

 電車で1時間かけて通い、その後はバスで30分。

 大学自体がひどい山奥にあったので、この不便さも仕方ない。


 輝かしく賑やかなキャンパスライフとはほど遠く、大学の建物の窓から見えるのは山の緑だけで、周囲には建物が一切見えなかった。

 雨が強かったり、雪が積もったりすると、すぐに電車が止まり、遠方から来ている教授の交通手段が無くなるため、休講がたびたびあった。

 天候に左右されてしょっちゅう休みになるなんて、まるでカメハメハ大王の世界だ。


 閑話休題。さて、話を戻そう。


 私は1時間かけて通う電車の中で、文庫本を読むことを習慣にした。

 地元から同じ大学に通う顔見知りはいなかったので雑談もできないし、ケータイも当時持っていなかったから、他に時間を潰す方法もない。


 いつも、1時間の中で、山を2つ越えるため、山中でトンネルを2回くぐる。

 田舎の、のんびりしたローカル路線である。


 文庫本を読みながら、電車の揺れに心地よくなって、ウトウトしてしまった。

 目を閉じた向こう側で、電車が停車し、ドアが開くのが分かった。


 寝ぼけていた私は、反射的に「ここが降りる駅だ! 降りなきゃ!」と慌てて、文庫本とカバンを持って電車を飛び出し、その駅に降り立った。


 自分の背後で電車のドアが閉まった。

 そこで、私は降りたのが誤りだと分かった。


 遠くにトンネルが見えた。

 いつも2つくぐるトンネルの、手前の駅で降りてしまったのだ。

 この駅で降りたのは、私ひとりのようだ。


(寝ぼけて、降りる駅を間違えてしまった……)


 ガタンゴトンと電車は音を立てて、無情にも去って行く。

 周囲は山しかない、大自然の中の、小さな無人駅。


 そこに、私は置き去りになった。


 初めて降りる駅だ。


 今では「秘境駅」という言葉もあるが、当時はそんな概念もなかった。

 ただ、イメージとしては近いと思う。


 鳥のさえずる声と、草木の葉ずれの音以外は、何も聞こえない。

 駅前には、寂れた商店がひとつあるだけ。

 見渡しても、細く伸びた道路沿いに、ぽつぽつと民家が点在するのが見えるが、通行人も、車の通りも、まったくなかった。


 のどかといえばのどかだが、「寂しい」と表現した方がしっくりくる。

 こんな山奥でも、道路って舗装されているし、電柱もあるんだなあ……。

 そんな感想を漏らしてしまう。


 隙間から草木が元気よく伸びている、ガタガタの石畳のホームを踏みながら駅舎へと向かう。

 駅舎といっても、待合室がひとつあるだけ。


 待合室は、一辺が3mほどのコンクリートの直方体だった。

 中には、3人が座れる長いベンチが、向かい合うように2脚置かれていた。

 壁の掲示板には、「イノシシに気をつけよう!」や「ハチに注意!」という標語ポスターが貼られていた。


 壁には時刻表があったが、次の電車が来るのは1時間半後だった。

 田舎の駅ではよくあることだ。


 1時限目の講義には間に合わないな。

 1時限目どころか、2時限目もムリか。

 私はそう思った。


 ホーム側のガラス戸の脇には、弁当箱サイズで「きっぷ入れ」と荒い手書きでペイントされたブリキの箱が備え付けられている。

 ここで降りる客が、切符を入れていくのか。


 コンクリート打ちっ放しの直方体の駅舎は、ひどく老朽化していた。

 あちこちに大きなひび割れ、亀裂が目立つ。

 特に天井には、横一文字に巨大なひび割れが走っており、端の方では樹木の根のように細かく分岐していた。

 壁にも床にも亀裂があり、軽い地震が来たらすぐに倒壊してしまうのではと思われた。


 都会の駅と違って「次の駅まで歩くか」と容易に歩き出すわけにもいかない。

 田舎は、駅と駅の間を徒歩移動すると、2時間や3時間かかるということが当たり前だからだ。

 イノシシやハチに気をつけなければならない山中なら、なおさら躊躇われる。


 仕方ない、次の電車まで、のんびり1時間半待つとしよう。

 そう決めて、私はベンチに腰を下ろし、文庫本を開いて、小説の続きを読み始めた。

 脆そうなコンクリートのこの駅舎でも、日よけにはなる。


 自分以外はいない、静かな時間。

 この時間帯、誰もこの駅を利用する人間はいないようだ。

 読書にうってつけなのかもしれない。


(………?)


 ふと視界の端に違和感を覚えた。

 誰もいない白昼の駅で、何か動いた気がする。

 だが、目を向けても、誰もいない。

 コンクリート打ちっ放しの、ひび割れた壁や床があるだけだ。


 おかしいな。

 首を傾げたが、私は再び小説に目を戻した。


(………!?)


 やっぱり。

 違和感が確信に変わる。

 視界の端で、何かが動いていた。

 それは不思議な現象だった。

 目を擦って、もう一度見ても、まだ続いている。


「ひび割れ」が、動いている。


 このコンクリートの駅舎の壁面で、至る所に見かけるひび割れや亀裂が、小刻みに震えて、もぞもぞと蠢いている。


 しゃがみ込んで、床面のひび割れを近くで見ようと思った。

 ……どこかで、直感的に、本能的に、それはやめておいた方がいい、そんな気がした。

 しかし、確認しないことには、どうにも気持ちが悪い。


 ベンチから立ち上がった時に、肩にぽとりと、何かが落ちてきた。

 それは動いていた。


 虫だった。

 細長い虫。


 ムカデだ。


 私は虫にそれほど詳しいわけではないけれど、似たような種類の「ゲジゲジ」や「ヤスデ」とは違うということは分かった。

ゲジゲジみたいに触覚がひょろ長いわけでもないし、ヤスデみたいに小さくはない。


 ダンゴムシを鉛筆くらいに伸ばしたような、無数の足を持つ、黒い虫。

 ムカデだと思った。


 この時、私は、白一色のフード付きパーカーを着ていた。

 白い肩のところに、黒いムカデが落ちてきて、もそもそと無数の足で動いていたそのコントラストを、一生忘れることができない。


 私は慌てて振り払った。

 ムカデはぽとりと床に落ちて、ゆっくり移動し始めた。

 目を凝らして見ようとしていた、床面の「ひび割れ」に、身体を寄せるようにして……。


 これ……「ひび割れ」じゃない!


 もしかして……と、天井や壁、床面に目を凝らす。

 鳥肌が立った。


 そう、よく見れば、駅舎の壁面で動く「ひび割れ」の正体は、数十匹、数百匹単位で連なって固まっていた、黒い虫たちだったのだ!


 冷や汗が額に浮かぶ。

 本当に怖い時は、口が渇いて、悲鳴も出ないものだ。

 私は大急ぎで文庫本を手に、駅舎から飛び出した。


 天井には大きな、横一文字の「ひび割れ」があったではないか。

 さっきは1匹で済んだが、それが、雨みたいに降ってきたとしたら……。

 自分の頭上から降り注いで、身体の表面を無数の虫たちが這い回ったとしたら……。

 想像だけで、ぶるりと嫌な震えが来た。


 他にも張り付いていないかと、私は自分の全身を確認したり、ぴょんぴょんとその場飛びをしてみたが、幸運なことに、肩に落ちたあの1匹だけらしかった。


 しかし……「ひび割れ」の正体に気付いてしまったからには、あの駅舎に留まることはできない。


 私は、駅前に唯一ある商店に行き、錆びだらけの自販機の前に置いてある、煤けたベンチに腰掛けた。

 元々「○○乳業」と書かれていた青いベンチだったようだが、白く色褪せて、文字を読み取ることもできない。


 そこに座って、心臓を落ち着けようと思った。

 小説の続きを読んで、さっきの嫌なビジュアルを頭から追い払いたかった。


 商店の戸がからからと開いて、腰の曲がった老婆が顔を出した。


「おにいさん、そこ、座らんで。下にハチの巣があんじょ」


 ベンチの下を覗き込むと、数匹のスズメバチがベンチの裏側に巣を作り始めていた。

 巣の大きさは、まだピンポン球サイズだ。


「でっけなる前に業者さんが来ることになっとるけ。刺されんうちに逃げえ」


 結局、私は、ハチから逃れるために商店に入れてもらい、パイプ椅子をお借りして電車の時間までヒマを潰すことになった。

 というか、退屈そうにしていた老婆の話し相手を延々とさせられた、と言った方が正しい。


 老婆はニコニコと愛想良かったが、方言がきつく、正直なところ、話の半分は何を言っているのかさっぱり分からなかった。

 普段会話に飢えているのか、老婆の止まらないマシンガントークに、私は適当に相づちを打ち、頷いていた。


 居座らせてもらっているのに、何も買わないのも申し訳ないと思い、店に置いてあったジュースと菓子パンを買ったら「おまけでこれもやっずえ」と、無料でヤクルトを1本つけてくれた。


 店内を見渡すと、パンや飲料などの食料品のほかにも、野菜や果物もあるし、おばさんが着るようなちょっとダサめの衣類や、雑貨など何でもある店だった。


 よく言えばコンビニ、悪くいうなら節操のない店。

 印象としては、後者の方が近いか。


 そうこうしているうちに、電車の時間が近づき、私は老婆に礼を言って、商店を出た。


 パーカーのフードを深くかぶり、ポケットに手を入れ、肌の露出をできる限り抑えた格好で、一気に駅舎を駆け抜ける。


 ホームに電車が来た。

 乗り込み、ドアが閉まった時、私は心から安堵した。

 

 ああ、これで、あの虫だらけの駅舎から離れることができる。


 ゆっくり走り出した電車の窓から、商店の老婆がにこやかに手を振っているのが見えた。


 私はもらったヤクルトを飲みながら、老婆に手を振り返した。


                                   (了)

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虫駅 雲条翔 @Unjosyow

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