第165話 ルリーの過去⑫ 【母の願い】
「な、なに……? どういう、こと?」
その言葉を、ルリーは理解できなかった。いや、ルリーだけではない。ルランもだ。
周囲には、逃げ回るダークエルフたち。魔獣が暴れまわり、侵入してきた人間も狂気に笑っている。
もう、平穏な日常は戻ってこない……それは、誰の目にも明らかだった。
「だから、って……」
『だからせめて、あなたたちだけでも逃げて』
ルールリアは、こう言った。一緒に逃げよう、ではない。
この言い方だと、まるで……
「お母さん、は?」
「……」
その問いに、ルールリアは答えない。ただ、じっとルリーを見つめていた。
その表情は固く、とても冗談を言っているようにも思えない。
その答えに、ルリーはイヤイヤと首を振る。
「いや……いや、だよ。お母さんも、一緒に逃げよう? お父さんも……みんなで、逃げようよ!」
「ルリー」
「だって……ほら、魔術で、目くらましとか、してさ。隙を作って、逃げよう。戦わなくていいから、逃げよう」
「それは無理なの」
涙を浮かべながらも訴えるルリーの言葉に、しかしルールリアは首を縦に振ってはくれない。
どうしてだ。逃げるくらい、頑張ればできる。ここでみんな死んじゃうよりも、逃げてしまえば……
「あの魔獣は、魔力を感知しているみたい。
大勢で逃げても、追われるのがオチだわ」
「魔力……かん、ち?」
よく意味がわからない。考えることを、放棄しているだけかもしれない。
ただわかることは、逃げても逃げられない……ルールリアが、そう判断していることだ。
ただ、適当に暴れ回っているかに見えた魔獣。あれに、目があるのかはわからない……だが、魔力で相手を識別しているなら。
そう見たルールリアは、冷静に魔獣の生態を探る。
……もっとも、そんな時間は残されていない。
「どうした、足が震えて動けねぇか?」
「!」
いつの間にか……そこには、エレガの姿があった。
男は、その顔を狂気の笑みを染め上げ、顔や服には返り血がついていた。手に持つ剣にも血がついており、あれでダークエルフの仲間を斬ったであろうことはすぐにわかった。
ルールリアは、子供たちを背に庇うように、立ち上がる。
「子供たちに、手は出させない」
「お、いいねぇその目。まだ死んでないって目だ……」
「おぉおおお!」
「!」
ガギィンッ……と、鋭い音が響いた。エレガはとっさに、剣で攻撃を防ぐ。
エレガの眼前まで迫ったのは、魔導の杖……それも、魔力強化により格段と硬度と攻撃力を高めたものだ。
それを行ったのは、ルーク。ルークの魔力であれば、そこらの剣など折れてしまうはずなのだが……
「お父さん!」
「あいつ……父さんと張り合ってる!」
エレガが笑みを携えたまま、ルークを跳ね返し……再び踏み込んだルークの放つ杖の斬撃を、剣で捌いていく。
ルークの猛攻を、エレガは涼しい顔でかわしていく。しかも、ルークの動きは鈍くなる一方。
それもそのはずだ。ルークはすでに、魔獣アルファとの戦いで満身創痍となっている。対してエレガは、まだ元気なまま。
すぐに、形勢は逆転……いや、そもそもエレガはルークの攻撃を捌いていただけだ。エレガからの反撃に、ルークは押される一方。
「お父さ……」
「ゴァアアアア!!」
獣の雄叫び……魔獣ミューが、次なる獲物を求めてさ迷っていた。その姿に、ルリーは吐き気を覚える。
頭部にあるはずの顔はなく、代わりに首からうねうねと伸びている触手……それに、何人ものダークエルフが串刺しにされている。
すぐにルールリアは、ルリーとルランの目を塞ぐが……すでに、目に焼き付いてしまった。
しかも、視界が閉ざされたことで聴覚が過敏になる。ただでさえ耳のいいエルフ族、聞こえなくていいものまで聞こえてしまう。
「ぐぅっ……お前たち、逃げろ……!」
「あなた!」
それは、ルークとルールリアの声。ルークも、子供たちを逃がすつもりのようだ。ただ、彼は妻も一緒に逃がそうとしている。
「いいねぇ泣かせるねぇ! 家族のために身を捧げようってか……
なら、捧げてみせろよ!」
ぶしゃっ……
「あなたぁああああ!」
「お父さん! お母さん、手、退けて!」
「どうしたんだよ、なにが……!」
視界を塞がれ、なにも見えない。ただ聞こえたのは、母の叫びと、直前に聞こえたなにかを斬り裂くような音。
そして、抑えてはいるが父の苦しそうな声だった。それをかき消すように、エレガの耳障りな高笑いが聞こえる。
直後に、ズシン……と、胸の奥にまで響くような重低音。同時に、体が浮くような感覚……
いや、実際に浮いている。その衝撃に、目隠しが外れ……ルリーたちは、地面へと投げ出される。
目を開くと、巨大な足が視線の先に見える……魔獣ミューが地面を蹴りつけ、その衝撃でルリーたちの体が浮いたのだ。
ルリ―はすぐに、視線を巡らせる。倒れているみんな……兄ルラン……母ルールリア……そして……
「あ、あ……」
……エレガの刃に貫かれた、父ルークの姿。
「やだ……やだやだ、やだぁ……」
すがるように、手を伸ばす……しかし、その先に掴めるものは、なにもなかった。
そんなルリーの体が、持ち上げられた。自分の意思とは反した力に、ルリーは首を動かした。
ルリーの体を立たせたのは、ルランだった。
「おにい、ちゃん……」
「ルリー、逃げるぞ」
「! なに、言ってるの?」
兄が、なにを言っているのかわからない。ただ、つらそうな目をしていて……ルリーの視線を、まともに受けられないのか、目を合わせようとしない。
ルリーは、いやいやと首を振る。
「だめだよ、そんな……だって……」
「ここにいても、俺たちはなんの役にも立たない。
わからないのか、俺たちがここに残ってたら、父さんや母さんの足手まといにしかならない」
「っ、でもぉ……」
ルリーの肩を掴み、そらしていた目でしっかりと、ルランはルリーを見た。
その選択が正しいかなんて、わからない。けれど、その言葉自体には間違いはないように思えて。
自分たちだけ逃げたくない……そう思うのは、ルリーのエゴだ。
その間にも、知った顔が、死んでいく。周囲を見ても、そこには死しかない。隣のおばちゃんが、いつも野菜を分けてくれるおじさんが、それだけではない……
先ほどの衝撃で、一人飛ばされてしまったのだろう、力なく倒れているマイソンの体が……魔獣の足に、踏み潰された。
「いやぁああ! みんな、逃げよう! 早く逃げようよぉおおおお!」
「っ、どうした、ルリー!」
急に暴れ出した妹の姿に驚きつつも、ルランはルリーをしっかりと抱きしめた。
……ルランの位置からは、友達が踏み潰された場面は見えてはいない。彼の遥か背後で起こった出来事は、しかしルリーには見えていた。
皮肉にも、ルランがルリーの顔を自分の顔へと向けていたために。
「落ち着け、おい……」
「ごめんね、ルリー……あなたの言うように逃げるのは、それは無理みたい……」
「お母さ……」
ルリーを安心させるために、語りかけるルールリアの右腕は……なくなっていた。
吹き飛ばされた衝撃で千切れたのか、それとも別の要因か。
痛みがあるだろうに、そんな様子はつゆほども見せない。
「もうそこまで来てるぞぉ!」
「ルリー、お兄ちゃんと、逃げなさい。母さんたちは……大丈夫だから。ね」
まだ動ける者は、魔獣と人間の対処に当たっている。
だがそんなもの、長く持つはずもない。
母は、暴れる娘を落ち着かせるように、頬に手を添えた。
「みんな、なんとしてもあの魔獣を食い止めるぞ! 子供たちだけでも逃がすんだ!」
「……あなたたちは私たちの大切な子供。せめて、ルリーとルランだけでも逃げて!」
「やだ、やだやだ! みんなと一緒がいい! 私もここに……」
こんなことをしても、母を困らせるだけだとわかっている……しかし、ルリーはいやだいやだと暴れるしかない。
もっと、自分に力があれば、なんとかなったのだろうか。逃げてと言われる子供ではなくて、一緒に戦える子供だったなら……
「ルリー…………っ……
ルラン、お願い」
「……あぁ、わかった。行くぞルリー!」
込み上げる感情を、必死に抑える……ルールリアは、最愛の息子に、最愛の娘を託す。
ルランも、本当は自分たちだけで逃げたくはない。そんなことはわかっている。つらい思いをさせている。
それでも……賢い我が子は、想いを汲んでくれた。
「! やだよぅ、お母さん! お父さん! 離して、お兄ちゃん! いやぁあああ!」
「二人とも、必ず生き延びて!」
「いやぁああああああ!!!」
ルリーの叫びは、戦火の前にかき消される……ルランはルリーを担ぎ、無理やり走り出す。
その姿を見届け……ルールリアは、杖を構える。これ以上、子供たちを危険にさらさないため。
せめて遠くに逃げてくれと、願いを込めて。
「あの子たちは、絶対に追わせない……みんな!」
「おう、やってくれ!」
「……あん?」
覚悟を決めたダークエルフたち、その様子にエレガは眉を潜めた。
ルールリアの持つ杖が、まばゆい光を放ち……大気中の魔力が、凝縮されていく。
「全てを包み込みなさい!
……漆黒の闇が、辺り一面を、覆い隠した。
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