第61話 彼女のヒーロー
「あ、あぁ……」
少女は、腰を抜かして、尻もちをついていた。
足が震え、立っていられなくなったか。恐怖心から、体が言うことをきかなくなってしまったか。
なにせ、目の前にいるのは……自分よりも遥かに大きな、巨体。それはもちろん、人間ではない。
人間と一致している箇所を探すなら、二足歩行であることくらいだ。
目の前にいるだけで、胸が押しつぶされそうな圧迫感……
少女……ルリーは、己の豊かな胸に手を当てる。心臓の鼓動はどんどん早くなっていく、意図せず呼吸は荒くなっていく。
「はっ、はっ、は……!」
呼吸が、落ち着かない。
先ほど悲鳴を上げられたのが、奇跡と呼べるだろう……今や、言葉すらもまともに口にできないのだから。
森にいた頃、大人たちから聞いたことがある。魔石を喰らい、その身を邪悪なる存在へと変貌させたモンスター……魔獣の存在を。
しかし、ルリーは魔獣を見るのは、初めて……否、二度目だった。
そう、あれは幼い頃に……
「グルルル……!」
「!」
巨大な魔獣は、まさに異形だ。
太い足に、太い腕……しかし、腕は四本ある。あれに一つでも捕まれば、ルリーの細い体などすぐに細々だろう。
全身は毛に覆われ、恐ろしいことに顔がない。首があるべき場所からは、うねうねとした触手のようなものが、何本と蠢いている。
なのに、魔獣の唸り声は聞こえる。
見ているだけで、吐き気を催すような存在だ。
彼女が長寿のエルフとはいっても、早々魔獣と出くわすものではない。なにより、エルフの中では彼女はまだ子供だ。そのほとんどを森の中で過ごしてきた。
基本的に、魔物を見ることはあっても、魔獣などはその姿になってしまう前に、討伐される。これまでは、大人たちが率先して倒していたから、目撃する機会はなかった。
魔獣の脅威度は計り知れない……一体いれば、村一つ壊滅させられると聞くほどなのだから。
それがなぜ、こんなところに。先生たちが、安全を確認したはずなのに……
「グォオオオ!」
「ひっ!」
およそ生き物とは思えないほどの雄叫び……ルリーは、耳をふさぐ。
そもそも、顔がないのにどこから、そんな声を出しているのか……
答えは、魔獣の体にある。
魔獣の腹部に、縦に切れ目が入りくぱっと割れたかと思えば、それが雄叫びを上げ始めた。
つまりは、腹部に口が出現したのだ。
「逃げ、なきゃ……
で、も……」
かつて、大人たちに言われた。
魔獣を見かけても、決して近づいてはいけない。一目散に逃げなさい、と。
その言葉を思い出し、ルリーは立ち上がろうとするが、足に、手に力が入らない。体は震え、股間部がほんのりとあたたかい。
それに、もし立ち上がれたとして……三人を、見捨てて逃げられるものか。
魔石採集の実習は、四人または五人のチームに分かれ、行われた。
この場には、ルリー以外にチームメンバーのクラスメートがいる。
しかし彼らは気絶していた。
現れた魔獣に蹴飛ばされ、あるいは叩かれ、あるいは咆哮に震え……気を、失った。
命こそ失ってはいないが、この場にいては確実に、助からないだろう。
ならば、倒せないまでも追い返すことはできるのではないか……いや、それしかない。
ルリーは覚悟を決め、震える手でなんとか杖を構える……が。
「は、はぁ、はぁ……」
うまく、魔力を練り、具現化するためのイメージを浮かべることができない。魔法が使えない。
エルフは、人よりも魔力の扱いに長けている。精霊との対話もしやすく、一般的に扱いの難しいとされる魔術もお手の物だ。
しかし、ダークエルフであるルリーは魔術を使えない。正確には、普通の魔術だが。詳しい話は省略するが、ダークエルフとは精霊でなく、邪精霊に好かれる種族だ。
精霊と邪精霊は相反する存在であるため、邪精霊に好かれるダークエルフは精霊の加護を受けられず、人々が使うような魔術を使えない。
魔術が使えないのであれば、己の魔力を使用する魔法に頼るしかない……
だが、先に挙げたように魔法とは、自分の中の魔力を練り、使いたい魔法としてイメージし、具現化する。
つまりは、ものをイメージするための繊細な精神力が必要だ。でなければ、魔法はうまく具現化せず、暴発してしまう。
もちろん、魔導を極めた者は、頭の中でのイメージなど息をするように、当たり前にできるが……
「ゴァアアアア!」
「ひっ」
目の前の巨体に完全に震えあがってしまったルリーは……まだその域に、至っていない。
魔力を練り上げるための精神力どころか、戦意すらも、もはや……
「わ、わた、し……ここで、し、し……」
震える唇から漏れるのは、この先待ち受けているであろう己の運命。
ここで、この魔獣が自分たちを見逃してくれると考えるのは、さすがに都合が良すぎるというものだ。
ここで、死ぬ……まだ、魔導学園に入学したばかりなのに。こんな、ところで……
『ルリー、逃げなさい。母さんたちは、大丈夫だから』
『みんな、なんとしてもあの魔獣を食い止めるぞ!』
『せめてルリーだけでも!』
……頭の中に、懐かしい声が聞こえた。それは、もう聞くことの出来ない声。
すべての景色が、スローモーションになったようだ。あぁ、やっぱり自分の運命は、ここで……
自分を逃がすために、みんなが、その命を賭してくれたというのに。
世界中の人々から……それどころか、同じ種族の仲間であるはずのエルフからも、嫌われることとなったダークエルフ。
ルリーには、もちろん身に覚えのない出来事だ。遥か昔の、出来事。
けれど、当時起こった……事件、と呼べばいいのだろうか。
たった一夜の出来事で、ダークエルフは世界中の嫌われ者になった。
ただダークエルフとして生まれただけのルリーたちにも、その悪意は向けられた。
だからこそ、ルリーはこの魔導学園で、人の役に立つような立派な魔導士になって……少しでもエルフ族の、ダークエルフの立場をよくしたいのだ。
もっとも、正体も明かせない現状ではそんなもの、夢のまた夢だが。
今はもう、自分を含めどれほど残っているかわからないダークエルフ。そして、後に命を授かるであろう子孫のためにも。
みんなが嫌われるのは、もう、終わりにしたいのだ。なのに、こんなところで、なにもできずに……
「ガァアアアアア!」
「いやぁああ!!」
スローモーションだった世界は、時間を取り戻し……魔獣の巨大な手が、ルリーへと迫る。
あれに潰されれば、ルリー……いや、ここにいるみんな、簡単に潰れ死んでしまう。
魔獣に……かつてのトラウマを彷彿とさせる存在に、ルリーはついに、理性を放り出しみっともなく叫び出す。
視界が巨大な手に覆われ、数秒としないうちに意識は狩りとられて、そして……
「アイスボール!」
「ギャァア!?」
……ルリーたちへと手が振り落とされる直前。
目の前の巨体が、大きくバランスを崩して……倒れた。
おかげで手は反れ、ルリーたちは無傷だ。
間一髪……それも、魔獣に衝突した巨大な氷の玉のおかげだ。
いったい、誰が……と、考えるまでもない。それは、ルリーにとって二度目の……自分を、助けてくれた心強い声。
その主は、ルリーを庇うように、魔獣の前に立ちふさがる。
その背中は、とても頼もしくて……
「ごめん、遅くなった!」
「エラン、さん……!」
ルリーにとっての"ヒーロー"が、そこにいた。
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