曇天の隙間に『たぬき』『傘』『バス停』

 ある日私は、シェアハウスの近所にある小高い山に来ていた。

 目的は気分転換、会社でたまったストレスを自然の中に発散させるうつもりで山を登っていた。


「まさか雨降ってくるとはなぁ」


 スマホのメッセージアプリには、舞から「迎えに行きましょうか?」というメッセージが届いていた。


「年下にそんな世話を焼かせるほど、私の年はいってないっての」


 苦笑気味に、私は返信を打ち込む。


「大丈夫、優香ねえにまっかせなさい! と……」


 果たして何を任せろと言うのか自分でもよくわからないまま、その文章を送信した。

 私がスマホを仕舞う前に、舞から「わかりました、暖かいご飯作って待っていますね」と返信が来た。


「かわいいな、まったく」


 私とは正反対の舞を思い、私はそう呟く。


「いつもいつも、会社で上司に頭下げて媚び諂って、自分の思ったことなんて言えず、一つの歯車として会社を動かしている私とは大違い」


 ここに来た理由だって、そんな会社にいるのが嫌で、早退してきてしまった。

 私の代わりに仕事を押し付けられた同僚がいると思うと、逃げ出してきた自分に嫌気が刺す。


「昔思い描いていた夢は、こんなんじゃなかったのになぁ」


 小さい頃は、きっと素敵な大人になって、世界に名を知られるデザイナーになっていると思っていた。

 しかし現実は非情で、デザイナーの学校に行ったはいいものの、センスがないと切り捨てられ、挫折し、普通のOLとして働いている。

 さらにはそのOL業にも疲れ、こんな雨が降る中、ぼろいバス停のベンチで一人項垂れている。


「どこで間違えたのかなぁ……」


 自然と、目元が熱くなっていく。

 泣いたって何も解決しないことなど、25になる私はよく分かっている……でも……それでも、泣く以外、私に選択肢はなかった。

 いつも、舞やたっちゃんたちの前ではお姉ちゃんを演じているが、今は誰も見ていない、雨音が、きっと嗚咽もかき消してくれる。


 雨音が一層強まる中、私は一人で泣いていた。




 どれくらいたったのか、雨は少し弱まっていた。

 気が付くと、私の隣の椅子に茶色獣が座り込んでいた。


「……たぬき?」


 丸くふてぶてしい顔、もさもさとする毛並み、私の知識に当てはめてみれば、この獣はたぬきのように見える。

 ここは山の中にあるバス停、たぬきが来てもおかしくはないのだろうが、なんだかこのたぬき、妙にこちらの顔を見つめてくる。


「なーんだこいつ? 私に用でもあんのかよー」


 無理やりテンションを上げて、そうたぬきに手を伸ばしてみる。

 野生の動物だ、きっとどこかへ行くだろうと思ってみての行動だったが、予想外にも、その期待は外れた。


「ん……何だお前、図太いじゃないか……」


 伸ばした手はたぬきの頭に触れ、優しく撫でる。

 雨に濡れながらこのバス停に来たのか、毛にも水分が染み入りしっとりとしていた。


 撫でられている間たぬきは、目を細め尻尾をフルフルと震わせていた、喜んでいるのだろうか?


「たとえ敵となる人間が相手でも、自分の心地よいことには素直に受ける……私にも必要な力か?」

 

 さっきのメールにも、素直に返信して迎えに来てもらえばよかったのに、私は舞に心配されたくない一心で……いや、違うか。

 私は大きくため息をつく。


「結局は臆病な自尊心が、邪魔しただけね……」


 自分自身のその言葉を、なんとも可笑しく思った私は、先ほどとは打って変わって大きな笑い声をあげた。


「何よ、けっきょく見栄を張って、辛くなったら逃げ出して……でも逃げているのはカッコ悪いから、誰にも見られないようなところへ逃げ込んで……」


 急な大声にびっくりしたのか、たぬきはぴょんとベンチから飛び降りる。

 瞬きを何度か繰り返したたぬきは、首をひねった後、まだ雨が降り続ける外へと飛び出して行った。

 雨に打たれながら必死に地面を駆け、バシャバシャと水溜まりを乗り越えていく、あのたぬきはどこへ行くのだろうか?

 自分の寝床に帰るのか、餌を探しに行くのか、どちらにせよ、また自分の心地よいこと、好きなことを追い求めているのだろう。

 この雨という、自分にとって辛い状況の中でも小さな幸せを探して、走っていくのだろう。


 まるで、「お前はいつまでそこにいるんだ? 俺は先に行くぞ」と言わんばかりの動作に、私は再び大きな笑い声をあげる。


「なんで私はたぬきに発破かけられてんだっての」


 そう言って、私は自身の頬を叩き、ベンチから立ち上がる。


「今帰るよ、舞!」


 そう一声言い切ると、私は雨の中へと駆け出して行った。

 そこそこ強い雨は、私の体へと無慈悲に降り続ける、まだまだやむ気配はない。


「でも、それでいい!」


 バチャバチャと音を立てて水溜まりを踏み越していく、バスになんて乗らない、傘なんていらない。

 これぐらい苦しい時間があった方が良い、その方がきっと、幸せを大きく感じられるから。

 

 またどこかで私は悔いるかもしれない、今の人生を呪うかもしれない、なんでこうなっているんだと、でも、きっとそれも通り雨に過ぎない。

 やまない雨はないのだから、雨が降っているときは、思いっきり降られていればいい、人生が辛い時も、思いっきり苦しめばいい。

 やまない雨なんてないのだから。


 曇天の雨雲の下、私はそう心の中で思いながら走り続けていた。

 空模様とは違って、私の心は、どこか晴れ晴れとしていた。




「ただいま」


 そして私はたどり着いた。


「お帰りなさい、優香ねえ」


 曇天の隙間から射す、暖かい日光の元へ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る