大陸暦1526年――悪魔と人間
とぽとぽと音を立てて、目の前に置かれたカップに紅茶が注がれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
そばに立つマルルに礼を言うと、彼女は「いえ」と微笑んでから手に持っていたティーポットを応接机の端に置いた。それから執務机に歩いていくと、机の上から書類を手に取る。
「獄吏官長。尋問調書に変更はありませんか?」
「ないよー」
向かいのソファに横向きに寝転がって、手で頭を支えているラウネが答えた。
「それなら近衛隊に送っておきますね」
「うんー」
マルルが書類をまとめて封筒に入れる。
……尋問調書って、尋問中に書記官が書き留めたものをさらにまとめたものだよな。
「いつ書いたんだ」
「午前中ー」
寝転んだままラウネが紅茶を飲む。相変わらず行儀が悪い。
「尋問前に調書を書くのってありなのか?」私はマルルに訊く。
「獄吏官長ですから」
マルルは苦笑するでもなく、それが当然とでも言うように答えると、礼をしてから部屋を出て行った。
つまり普通ならありえないが、こいつならありというわけか。
犯人の経歴を調べた時点でもう、こいつには全てが分かっていたのだ。なんとも末恐ろしいヤツだ。
そう思いながら私は紅茶を口に含む。紅茶の温かさが体に染み渡る。朝に少し水は飲んだが、味をついたものを口に入れるのは今日はこれが初めてだった。だからか、いつもより余計に美味しく感じてしまう。
しばらく黙ってそれを味わっていると、ふと尋問し始めのころのことを思いだした。
「私は普通だからな」
「えー?」
なんのこと、とでも言うようにラウネがこちらを見る。
「お前、どさくさに紛れて彼に私たちが普通じゃないとか言ってただろ」
私も彼女も普通じゃない。だから話してごらんよ――と。
それではまるで私が普通ではないから彼の言うことが理解できたみたいではないか。
「あーそりゃー悪魔のわたしに比べればーキミは普通の人間だけどー」
「違う。お前は普通より優れている人間で、私はいたって普通の人間だ」
「だから悪魔ー」
「違う」
ラウネが不満げに口を尖らす。
「もー普通より優れている人間てなんかかっこわるいー悪魔のほうがかっこいいー」
ソファの横をばんばんと叩く。駄々っ子か。
「カッコよさの問題ではない。人間が悪魔を名乗るな」
「昔からそれだー」
ラウネは、ばっと上体を起こすと、あぐらをかいた。
「だいたいねーキミは時折ー自分のこと普通だとかまともだとか言うけれどーわたしの経験上ー自分をまともって言う人は大概どこかイカれてたよぉ?」
「失礼な。私のどこがイカれている。自分で言うのもなんだが、私ほど平凡で善良で信心深い普通な人間はいないだろ」
ラウネは半眼でこちらを見ると「はぁー」と呆れるように大きく息をはいた。なんかこいつに呆れられるのは心外なのだが…………ん?
「……お前。顔色悪くないか?」
こいつは日にあまり当たらない所為か年がら年中、青白い顔をしているのだが、今日は少し赤みがかって見える気がする。紅茶を飲んだからだろうか。
「わたしはキミと違って美白だからー」
戯言を言っているラウネを無視し、私はソファから立ち上がる。
それから応接机を回り込んで、ラウネの長い前髪の下に手を入れた。額から手に伝わる体温は目立って熱いことはない。
「熱はないようだが」手を離す。「もしかしてお前も兄のほうを鎮圧するときになにか薬でも受けたんじゃないのか?」
私の問いかけにラウネはなにも答えず、なぜか呆然とした顔でこちらを見上げている。
「? ラウネ?」
「あーあー」ラウネの視線が左に逸れる。「そういえばぁ? あいつの短剣で毒を受けたかもー」
「なに」
そういえばあの部屋にはラウネのものではない短剣も落ちていた気がする。記憶間違いでなければ少しだけ血液も付着していたような。
「大丈夫なのか」
学生時代に本人から聞いた話によると、こいつはあまり毒が効かない体質――そんな体質があるのか未だに疑問だが――らしい。だが、あまりということは完全にという意味ではないだろう。
「まぁ? ちょーとだけぇ? 体だるいかもー」
「それなら今日は早く切り上げて帰って休め」
「そんなことしなくても治る方法はあるよー」
「? なんだ」
「王子様の口づけー」
んーとラウネが口を尖らしてくる。
私はそれでからかわれていると気づき、ラウネの額を中指で
「いたー」ラウネが額を押さえる。
「ったく。人が心配してやってるのに」
私は立ったまま自分の紅茶を飲み干すと、カップを受け皿に置いた。
「ごちそうさん。そろそろ帰るよ」
出入口へと向かい扉に手をかける。するとラウネが「あーそうだー」と声をあげたので振り返った。
「いつ嫌がることしていいのー?」
ラウネが無邪気な笑顔を浮かべて訊いてくる。
「……体調が戻ってからにしてくれ」
私はそう返して部屋を出た。
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