ビギニング

依ノ鵺 (よるの ぬえ)

1-1.漂流者

「…………………」

どこかから声が聞こえる、最初はそんな風に感じた。

しかし、顔に感じた冷たい感触によりそれが水によるものだったことに気づく。

「…………………」

ゆっくりと目を開けると眼前には視界いっぱいの青があった。

雲一つないどこまでも澄んだ空。

気を抜くと落ちていってしまいそうな、

そんな恐怖すら感じる空だった。

「……あれ?」

体を起こそうとして気づく、体が重い。

まるで自分の体の使い方が分からないみたいに動かない。

「……ふんっ!」

何とか気合を入れて仰向けになっている体を回転させる。

途中口の中に砂が入ってしまったが何とかうつ伏せになることが出来た。

そこから腕を使って起き上がろうとすると今度はすんなりと起き上がることが出来た。

「何だったんだ...?」

起き上がるとさっきまでの不自由さが嘘のように体が動いた。

原因を探ろうとするも自分の体に怪我などをしたような痕跡は見えない。

寝起きで体が怠けていたのか?。

いろいろと考察してみたがこれといった答えは見つからなかった。

そんな思考を巡らせていると自分の体が濡れていることに気が付いた。

「そういえば...」

僕は足元を見る。すると今度は空と同じように澄んだ青色の海が見えた。

しかし、さっきの空へ感じた恐怖とは対照的に海へは安心感が沸いた。

さっきまで僕の顔を濡らしていたのは海水だったらしい。

「さっきの声みたいなのはこの波だったのか...?」

”声”と形容していいのかわからないが僕にはそれが声のように感じた。

「そういえば......」

そこで僕は気づく、

「何でここで倒れてたんだ...?」

なぜ今まで気づかなかったのだろう。どうして僕はこんなところにいるんだ?

しばらく考えたが答えは出てこない、それどころか新たな問題が出てきた。

「……そもそも僕は何をしてたんだ?」

何も思い出せない、正確には何も分からない。

気が付いてから今までのこと以外何も思い出せないのだ。

自分がどのように生まれ、育ちここにいるのか。そのすべての記憶が抜け落ち分からなくなっていたのだ。

「……………」

そのことに気づくと途端に周りのことが気になり始めた。

あたりを見渡してみると海の反対側には木が生い茂っており向こう側を覗くことはできなかった。

木の端を目指していくと高い岩肌が見えてきた。どうやら崖になっているらしい。

「お?こんな所に洞穴が...。」

崖の下には人一人分空いた入口がありその中は空洞になっていた。

空洞といっても自然にできたものなのでとても住めるような状況には見えなかった。

「まぁ寝泊まりするくらいならこれでいいか。」

洞窟にそのような評価を下すと僕は状況を整理した。

どうやらこの海岸沿いは森と崖で囲まれているようだ。

「ますます分からないな」

あたりの自然状況を見た感じこの海岸は人が寄り付くような場所には思えなかった。

しかし事実として僕はこの海岸で寝ていた。

記憶の無い男が人が寄り付かなそうな海岸で一人眠っていた。

怪しすぎる...。

我がことながらとても客観的な分析だった。

自分の境遇について考えを巡らせていたが考えれば考えるほど問題が出てくることに気づいたのでそこで一旦思考を止めた。

 最初に自分が寝ていた場所に戻ってくる頃にはあたりは暗くなってきていた。

あれだけ青かった空や海も夕日が沈むと共に赤く染まっていった。

「綺麗だなぁ...」

口からこぼれた言葉だ。自分で言ったかさえ分からないような独り言。

さっきまで自分の境遇について悩んでいたことがちっぽけに思えるぐらいにその景色は綺麗だった。

『この景色は忘れないだろうなぁ...』

今度は自分で認識できるくらい心の中で強くそう思った。

そんな景色をボーっと見ているとあっという間に黒色のカーテンが下りてきた。

夜が来たのだ。

「寒っ!」

夜になったことにより海から冷たい風が吹き始めた。

「さすがに洞窟に避難するか。」

もうここにいても何も得られないと判断した僕は砂浜から立ち上がろうとした。

———ガサッ!

すると背後から物音がした。

「ガルル…」

音の方を見ると森の中から狼が数匹出てきていた。

「まずい、群れか...」

2匹の大きな狼を中心とした数匹の狼の群れが僕を見ていた。

『どうするべきだ...? 正面は狼の群れがいる、後ろの海に引くか...?』

心の中でそう考えていると狼たちは僕に迫ってきていた。

もう残された時間は短い...ここは一か八か賭けてみるか。

そう決心した僕は海に向かって駆け出す。

それにつられるように数匹の狼も一斉に駆け出した。

狼より先に海にたどり着いた僕は振り返り狼たちを見据える。

狼たちはすさまじいスピードで僕の方に迫ってくる。

「まだだ...」

狼たちの動きに意識を集中させる。タイミングは狼たちが僕に飛び掛かってきた時。

そのタイミングを見極めるために全神経を集中させる。

そして、そのタイミングは想定よりも早くきた。

狼たちは波打ち際から僕の方に大ジャンプで飛び掛かってきた。

今だ!

そう確信した僕は足を振り上げる。瞬間、僕の前は水の壁が出来上がる。

「え!?」

自分で振り上げておきながらその水の量に驚く。

「うぉわ!?」

しかし次の瞬間には狼たちが水の壁を突っ切ってきたので慌てて回避する。

すると狼たちはそのまま海に突っ込みバタバタと悶えていた。

「まっまぁ結果オーライか」

もとは蹴り上げた海水を狼たちの目や鼻にかけ索敵能力を鈍くさせ逃げ場を作るのが狙いだったが思いのほか上がった水しぶきにより無力化に成功したみたいだ。

思いのほかうまくいった作戦に満足しているとあることに気づく。

海の中で悶えている狼の中に群れのリーダー格と思われる2匹の狼がいないことに。

「...!?」

気づいた時にはもう遅かった。2匹の狼がすでに波打ち際まで迫っていた。

「くそっ!」

反応が間に合わなかった。慌てて足を振り上げるが先ほどより水しぶきが低い。

その水しぶきを飛び越え狼が僕の頭上を飛んでいた。

「よしっ!」

狼の動きを確認すると僕は岸に向かって走り出した。

狼が水しぶきを超えたことで今狼たちは海の中、つまり僕の方が陸に近い。

陸まで行けば森に入れる。

そして、森の中でなら探索能力を低下させた狼たちを巻き洞窟までたどり着ける。

これが本来僕の考えていた計画だ。経緯はどうあれここまでは計画通り。

「あとは僕の体でどこまで逃げ切るか...。」

そんな思考を巡らした時だった。目の前に大きな影が現れる。

顔を上げるとそこにはリーダー格の狼が見えた。

「なんで!?」

僕は慌てて振り返る。そして、ある事実に気づく。

「あっ...。」

さっきまで自分のいた位置には僕の上を飛び越えた狼が”1匹”佇んでいた。

気づかなかった、痛恨のミスだ。

さっきの水しぶきによって僕の見えていた狼は一匹だった。

突然のことで確認が疎かになっていた。

さっきまでの有利な状況とは一変、挟み撃ちの状況に陥り最悪の状況になってしまった。

「くそっ!」

折角有利な状況を作り出せたのに...!

突然突きつけられる現実に僕は動揺を抑えられなかった。

「……………」

対して眼前にいる狼はひどく落ち着いていた。

まるで獲物である僕を品定めするかのように静かにじっくりと見つめてきた。

「...ぐっ!」

気づくと僕は狼をにらみ返していた。

狼とは対照的に、感情的ににらみ返した。

『絶対に生き延びてやる』そんな思いを込めてただ狼の瞳をにらんだ。

「……………!?」

僕たちの間に少しの沈黙が生じた。

「アオーン!」

しかし、次の瞬間狼は僕から視線を外し遠吠えをした。

「アオーン!」

「何だ!?」

突然の行動に混乱している僕をよそにもう一匹のボス狼も遠吠えに答えた。

すると眼前の狼は僕に背を向け森へと歩いて行った。

それに続くようにほかの狼たちも後をついていき群れは森の中に消えていった。

「………何だったんだ?」

僕は膝から崩れ落ちた。極限状態から解放されて安心したのだろう。

「助かった...のか?」

ボス狼たちの気が変わったのだろうか、

何はともあれ、僕は何とか狼達からの襲撃から生還することが出来た。

「ふー...。」

生きている実感を感じるとため息が出た。

「なんなんだよ...もぉ。」

それと同時に愚痴もこぼれてきた。

今日何回目かわからないが空を見上げながら思う。

ほんとに何なんだ今日は...。

目が覚めると知らない土地にいて、記憶もなし。

周りは森と崖で人はいそうにない。しかも森には狼の群れがいて襲われる...。

これほど不幸と形容するのにふさわしい日もなかなかないだろう。

「………まぁ命があるだけマシか。」

今の僕にはそう割り切ることでしか元気は保てなかった。

その気持ちを落とさないように僕は洞窟に向かって歩き出そうとした。

———ザザッ

しかしそんな僕の気も知らずにまた森の方から音が聞こえた。

「——くっ!」

今度は失敗しない!僕は浜辺を駆ける。洞窟まで行けばそれでいい、あいつらの大きさじゃあの洞窟には入れない。

そんなことを考えながら全力で走った。

「——ーぃ!ぉーぃ!」

しかし後ろから聞こえるのは狼の鳴き声とは似ても似つかないものだった。

驚いて振り返ると声の聞こえた場所には男女が二人立っていた。

「えっ?」

初めて見た人間に驚いていると少年がこちらに呼び掛けてきた。

「おーい、そんなとこで何してんだ?」


 ——この時のことは多分忘れないだろう。

初めて人に会えたことによる安心感もあったが、

この二人には何か他のことも感じた...。

なんでそんなこと思ったのかはよくわからないが今の僕はただそんな風に感じた。

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